YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson560
  現場は常に揺らいでいる



文章教育をライフワークにしている私だが、
実は、文章術の本は、
ほとんど読んでいない。

ある人に、

「えっ、谷崎潤一郎の『文章読本』も読んでないの?!」

とあきれられた。
私の本『伝わる・揺さぶる!文章を書く』が、
「日本語文章がわかる50冊」の
14位に選定されたときのことだ。

1位が谷崎潤一郎の『文章読本』だったので、
その人は、当然、私が数々の先人の文章術は
読破しているものと思ったのだろう。

谷崎なら、「春琴抄」は一気に読んで、
その世界にはまりこんで、帰ってこられないほど、
ぐんぐん読めるのだけど、

谷崎潤一郎の文章術も、
三島由紀夫の文章術も、
その他、数々のエライ先生の文章術も、
それから、小論文の編集者だというのに、
小論文界で超有名な先生方の参考書も、
まったくといっていいほど、読んでこなかった。

会社で小論文担当になったときの同僚が、
こうした本は全部読む人だったので、
ことあるごとに私にも読ませようとする。

私も読もうと努力したり、買ったりするものの、
当時は、どうしてか、わからなかったが、
どうしても読めなかった。

いまはよくわかる。

これは、あくまで私に限ってのことだが、
まず谷崎潤一郎の文章術を読むことから入っていたら、
まがりなりにも同じ誌面に本が掲載されることは、
一生、なかったろう。

現場は常に揺らいでいる。

ここ数週間の
「生のものから栄養を採ってきた」シリーズへの、
読者メールを読んで、改めてそう思う。

まず、先週のコラムへの読者のメールを
一気にお読みください。


<加工品に頼る習性>

グラフィックデザイナーの竜です。
(「生のもの」シリーズでは、)
仕事に対する姿勢など、改めて考えるきっかけを
与えてもらえたと感謝しています。

全ての仕事を生ものからの
栄養で生み出していくのが理想ですが、
考えてみれば、そうするには
生ものを「消化する丈夫な胃袋」(インプット)と
それを「自分の血肉に変える優秀な内臓」(アウトプット)
みたいなものを同時に鍛えていかなければ
ならないですよね。

振り返ってみれば、
やはり自分には、それが足りてない気がします。
なので、食べたらすぐにそのまま使える
加工品に頼らざるを得ない。

ただ加工品に頼るくせを一度つけてしまうと、
時間があってもつい加工品を食べてしまいます。
ついついファーストフードに手を出してしまうみたいに。

ズーニーさんからの今回の問いを、
もう少し自分の仕事に対する姿勢みたいなものを
考え直してみたいです。

心の栄養を「生もの」「加工品」という例えに
変換してしてもらえたおかげで
いろいろ考えることができました。
(竜)


<ほんとうに真似したかったのは‥‥>

私には3人の兄がいるのですが、
みな、昔から私の憧れでした。
歳が離れているせいか、随分と大人に見えました。

兄たちの聴く音楽を聴き、
兄たちの読む本を読み、
兄と同じ高校に入り、
兄と同じ大学に入り、
兄が語学留学したのをみて、
自分も大学の時に海外に行きました。

兄たちのマネばかりしていたように思います。

みんなの背中を追いかけて憧れを抱き、
そこに追いつけない自分のことは
「足りない人間」だと思うこともありました。
別にだからといって、私は暗く生きてきた訳ではないです。
ただ、思うんです。

私は兄になりたかったのでしょうか。

生のものを自分で探してきて消化する姿を見て、
その姿から見えるものだけを追ってきました。
まさにズーニーさんの言う2次情報だけをむさぼり食い、
中身のない1次情報の名前を偉そうに、
さも知っているかのように語ってきました。恥ずかしい。

だから今、小論文を書こうとしても
なんにも浮かんで来ないんです。
書いた後、読み直すと、
ゴムのようなステーキがでん! と飾り気もなくおいてある
不味い食卓に腰をかけたような気分になります。
読みたいと思わない。
自分ですらそう思わないんだから、
他人はなおさらですよね。本当に情けない。

でも、これからの私がどう決断を下していくべきか、
考えるために立ち止まるきっかけをもらえました。

娘がいます。

彼女には背筋を伸ばしてイキイキ過ごす私の姿を
見てほしい。
そして彼女には生のものをたくさん摂ってほしい。
そういう接し方が、言葉掛けができるママになりたいです。
(ピタゴラス)


<人に伝えようとしても伝わらない鮮やかさ>

「生もの」についてお便りさせていただきます。

私は若手研究者で、一世代上に尊敬する先生がいます。
10年前、まだ学生の頃にその先生が、講義で、
この分野は自分が牽引している、と言い切られました。
強い、傲岸にも聞こえる言葉です。
先生がこんなふうにおっしゃっていたよ、
と人に話そうものなら、
それは、その先生が傲慢だという
悪口にさえ聞こえるかもしれません。

けれど、学生だった私には、圧倒的な衝撃でした。
自分がほんの少しだけ、
その先生の研究と近いことをしていたからか、
その先生を追って全力疾走しようと決意しました。
私に向上心を植えつけたのは、
まぎれもなくその言葉でした。

人に伝えれば、悪口にさえなってしまうのに、
本人から聞いた言葉は、あんなにも鮮やかで、
自分の支えになった。
これが「生の力」と呼べるのかと、
今回ようやく納得しました。
これからも忘れず、がんばりたいです。
(マナ)


<新しいものは、新しい考えだからです>

考える話、読みました。

映像プロダクションに15年いますが、
パソコンの発達が、考える力を奪ってると感じてます。

だってコピペすればいいんですもの。

前あったものをコピーして、
必要事項を書き換えるだけで仕事になるんですもの。
「きょうの○○の打ち合わせはA会議室です」って
張り紙すら昔は手書きでしたから、

そこに見やすい文字のレイアウトを考えることや、
一度書き損じたら書き直す経験
(どういう失敗をしがちか自覚する)や、
そもそも連絡したから張り紙は不要であるという判断すら、
ありました。
自分で書いた紙を、ごみ箱に捨てる哀しさと、
来るべき次の事を考える経験も失われました。

コピペは前例主義の極みです。
前回がそうだったから、今回もそうしてますが?
と開き直れます。違うのです。

前回はこうだったが、今回はどうすべきか?
が大事なのです。
特に新しいものをつくる仕事は、そこが問われるのです。

書類のコピペだけでなく、
仕事の流れや段取りすら、誰かのコピペになってます
(もはやコピー元を誰も知らないやり方で)。
そのコピーの忠実さが仕事、と勘違いしてます。
一から仕事を見直す視点がありません。

パソコンを使ってると、全能感に満たされがちです。
パソコンでつくるものが全てになりがちです。
くしゃくしゃの紙に書いた、
かすれた手書きの一行の文字のほうが、
ある文脈では強いことに、自分で気付くことはありません。

とある小道具のデザインを決めるとき、
美術部に発注する手順は滑らかです。
これこれまでにいくらで出来るかなど。

でも、そのデザインが本当にいいか確信がもててないとき、
じゃあ自分で仮につくって見ようと僕が言い出し、
ハンズに買い出して絵の具で塗って
仮につくって見たのです。
精度は良くないけど、このデザインじゃないな、
という判断を皆が下せました。

じゃ手でつくってみよう、という発想が、
コピペばかりやっていては、育ちません。

新しいものづくりを阻害してるのは、
パソコンではないかと感じる昨今です。

新しいものは、新しい考えだからです。
(映像プロダクション勤務)


<今までのやり方、いったん全部捨てました>

先週のコラム、
まるで私のこと知ってるの?と思う内容で、
居ても立ってもいられずメールを打っています。

私は小学校教師で、伝える仕事の一つです。

先日ある研修でアフリカの国に行き、
その体験を伝える授業をしています。

現地で体験したことをどのように授業に構成するか、
悩みに悩みました。

授業の手法は、いろいろ知っていて、
展開例もたくさん紹介されています。

けれど、現地で自分が感じたことを
何としても伝えたいという思いは、
どのやり方でも何かが違うように思いました。

それを使えば、おそらくスムーズに
授業を進めることができるけれど、
私が「現地で感じたこと」とは何かが違う‥‥
私じゃなくてもできる‥‥。

そこで、もう悩みに悩んで、それこそ頭痛がするほど
悩みぬきました。

そうして、かなり考えたことを一度すべてなしにしました。

いい授業をしたい、かっこいい授業をしたい、
という思いを吹き飛ばして、
自分が一番感じたことに立ち返り、
そこから考え始めました。

現地に行ってみて、
先進国という立場から現地の子たちを見ているために、
自分が苦しくなったこと。

日本より不便に見えても、
それが現地の「あたりまえ」であるのだから、
日本の基準で勝手に気の毒がるのは
とても失礼だと感じたこと。

どれもすごく主観的で繊細な問題です。
でも「私の体験」はそこにしかない、と思いました。

結果的に、子ども達にどのように伝わったかは
分かりません。
まだまだ不十分なのも十分自覚しています。
けれど、自分の思いに近い授業は作れたかな、
という気持ちはあります。

伝えたい!

って、すごいエネルギーだなあと、
授業を考える過程で感じたことです。
(滋賀県 小路)


<もっと生ものに触れて、消化力を鍛えていかねば>

ここ数年、読んだ本の感想を自分のブログに残しています。
ただ、心から感銘を受けた本の感想は
うまく文章にまとまらないことが多いのです。
それなりによかったな、と思う本の感想は
スラスラと書ける。

なぜなんだろう、と思っていたのですが、
ズーニーさんの『優れた作家の作品は生もの』という言葉で
納得しました。

生ものだから消化に時間がかかり、
自分の血肉になるにも時間がかかる。
消化したいから、もう一度取り込んで咀嚼してみたり、
何度も反芻してみたりする。
消化に時間がかかれば、苦労した分記憶に残るし、
その経験も自分の力になる。

もっと生ものに触れて、
自分の消化力を鍛えていかなければ、
人にその魅力を伝えることは難しいのですね。
どんな生ものにも対応できる消化力。咀嚼力。
適当に書くことに逃げていては、
いつまで経っても鍛えられませんね。
(みけん40)


<生と感じ取るための体験>

自分の仕事では加工品が飛び交っています。
生のものはというと、
もちろん伝わることもありますが、
感情的なもの、変わっているもと
受け取られることの方が多いと思います。

ハリウッドの演技学校の授業をテレビで見たのですが、
まさに生のものを汲み出す訓練でした。
「演技」が「体験」になる瞬間を見た気がしました。

生のもので栄養を得る時、
生を感じとることが不可欠です。
そのために体験が必要だと思います。
生のものを自ら発する体験です。

前のコラムにあった、
ズーニーさんが大学でされている授業も、
その訓練であり、体験だと思えました。
このズーニーさんへのメールも、
生のものを発する訓練であり体験なのだと思っています。
(Sarah)



読者の指摘に、ドキッとさせられた。
とくに、

「加工品に頼るくせを一度つけてしまうと、
 時間があってもつい加工品を食べてしまう。
 ついついファーストフードに手を出してしまうみたいに」

「私は兄になりたかったのでしょうか?
 そうではなく、ほんとうは、
 兄が、生のものを自分で探してきて消化する姿を見て、
 自分も兄のように、生のものを探したり消化できるように
 なりたかったのだ」


とは、自分に引き当てても、思い当たり、
痛いところがある。

これはたとえだけれど、

映画監督が、創る生活に疲労して、
たまの休みに、効率よく、
映画のアイデアを仕入れようとすれば、
「加工品=他の監督がつくった映画作品」から
栄養を採る、ということになる。

そこには、映像技術にしても、脚本にしても、
配役にしても、
すぐに取り入れたり、アレンジできるようなアイデアが
ころがっている。

でもそうして、加工品から採る栄養では、
「とっぴょうしもない新しい映画」というのは、
なかなか生まれてこないだろう。

一方で、「生のもの」から栄養を採ろうとする
映画監督なら、
短い休みをやりくりしてでも、「登山」とか、
「旅」に出る、
というような実体験を好むだろう。

現場は、常に揺らいでいる。

すごく美しいものに、
すごく醜いものが混じっていたり、
人間の素晴らしさを実感した、まさに同じ現場に、
吐き気がするほど、人間のいやな面を
見せつけられる事実がころがっていたり。

現場とか、現物とか、生の体験には、
決して、一面的にはわり切れない、
多面的な要素があり、また、
固定しておらず、変化しつづけている。

この、雑多な側面の、どこをすくいあげるか?
揺らぎ、変化しつづけるものの、
どの一瞬をきりとるか?

同じ現場に、10人が立ち会っても、
そこで、「伝えたいこと」は、
10人いれば10通り、ちがっており、

そこに、ほかのだれでもできることではなく、
「他ならぬ自分が立ち会う意味」が生まれる。

だから「現場」は面白い。

私の場合、現場とは、教育現場。

そこにいるのは、生の人間である生徒たち、
そして、生徒が書いた文章や、生徒がする表現である。

エライ先生の文章術は読んでこなかった私だけど、
生徒さんの本気の表現なら、読んで読んで読んで読んで、
瞼が開かなくなるほど読んで、もしかしたら素人の表現を、
こんなに読み・聞いてきた人間はいないんじゃなかとさえ
思う。

どれ一つとして同じ表現はなく、
常に変化し続けている。

現場には必ず、言葉を越えたものがあり、
それをまた言葉にしようとモチベーションがわきおこる。

そのようにして現場から生まれる文章術だからこそ、
私が書く意味があり、尽きない興味がわきつづけてきた。

たぶん私に限って、
揺らぎの少ない加工品の研究や、比較、輸入では、
興味が持たなかったように思う。

現場は常に揺らいでいる。

だからこそ、現場は創造性の母である。

ときに現場は辛く、現場ほど恐しいものはなく、
腰がひけることもあるけれど、
ここに向き合わずして、どこを見るというのだろう?

常に、どんな現場でも愉しめる精神的余裕を私は持ちたい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-10-19-WED
YAMADA
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