おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson562 読者たちのライブ場 ライブをするのは、 ミュージシャンなど一部の人だけだとおもっていたけれど、 いつしか自分も、 教育現場というライブ場に立つようになり、 医療従事者には、医療現場があり、 子育てをする主婦には、 まさに家庭がぬきさしならぬライブ場である。 みな、どんなに予習をしても、予測をこえた、 一発勝負の「生の場」に臨んで、 仕事をしている。 きょうは、先週分にいただいた 「読者メール」を紹介したい。 「生のものシリーズ」には、 教育、医療、製造など、 さまざまな分野の現場からおたよりがくるのも特徴で、 とてもいいお便りだ。 とくに精神科医の読者からのメールには、 なにか精神に活力を注入されたような気がした。 では、じっくりお読みください。 <生を感じる力は、人間の大きさ> デザイン関連の仕事をしております。 youと申します。 「生もの」のお話、私がこれまで漠然と感じてきたことを、 同業者の読者「竜さん」が的確に表現してくださいました。 私はグラフィックデザイン関係の仕事をしていますが、 竜さんのメールにもあった通り、 現場は「加工品」を消化していくことが 当たり前の状態です。 世の中は加工品で溢れています。 書店に行けば、 レイアウトの手法やフォーマット、 いろんな雑誌の文字の大きさや余白の幅など 細かいところまで詳細に調べ上げられている専門書は たくさんあります。 こんな雰囲気でつくりたい、というものがあれば それと似たようなものを見つけてきて その通りにデザインすればそれなりのものはできます。 私は、そのようないわゆるデザインの技法書から デザインを取り入れようとは、 どうしても思えない人間ですが、 だからといって自分のオリジナリティ溢れるデザインが できるかというと全く、です。 ある程度、仕事と呼べるものをつくるには、 加工品なしには、いろいろ成り立ちません。 じゃあどうすればいいのか。 どうやって生ものを取り入れればいいのか。 生ものと加工品の見分けをどうつければいいのか。 人が生ものだと感じるものの多さが、 そのままその人の人間の大きさ、 見識の深さを表しているのだと思います。 私の尊敬する先代のデザイナーたちは、 自然、人、生活、娯楽、それこそありとあらゆるものから 生ものを吸収したのでしょう。 だからその人の産み出す物は、 あらゆる側面で生ものだと言える。本当に畏れ多いです。 一体いつになれば、そんな大きな人間になれるのでしょう。 もっと生ものを見つけたい。生ものを増やしたい。 一見加工品に見えるものからすら、 生を見いだせる力が欲しい、今はそう感じます。 (you) <実習はライヴ> 大学の看護学部で助教をしています。 自分の立場としてもっとも的確なのは 「看護教員」と思っています。 看護師になるためには実習という現場教育が必要でして、 わたしは大学での業務の傍ら、 毎日病棟に行っています。 学生が受け持っている患者と話をし、 フィジカルアセスメントし、 カルテを見て医師の治療方針を確認します。 そうした実習で学生が体験した現象をいかに言語化し、 ほかの学生や病棟の看護師と共有するか、 それを看護教育額では看護現象の教材化といいます。 普段は、自分が下の学年に 手術を受けた患者の看護と講義をしますが 実際に、病棟で学生が患者と接し、 そこで体験したことに わたしの(素晴らしく準備した)講義はかなわないのです。 患者の血圧を測り、 呼吸音を聞き、 患者の肌に触れて、 脈の触れを感じ、 目の前の患者について患者が話すことについて、 自分で聞いたことと検査結果を一致させていく。 そんな医療現場のフィジカルアセスメントの醍醐味が あります。 講義や自己学習ではわかりえなかったことが、 実際の患者のデータを目にするとわかることがあります。 そんなことで実習はライヴと思っています。 患者のこと、 それを理解する学生のこと、 学生がお邪魔している病院という環境のこと、 大学の座学で学べないこと満載です。 そんな実習の現場では、指導する教員も 学生の生と患者の生と医療現場の生と さまざまな生のライブの調整に翻弄されていますが、 実習現場での学びに勝るものはないんだなあと 日々実感しております。 (貴子) <驚きが喜びに変わる> いつも以上に「生ものシリーズ」には刺激を受けてしまい お便りしました。 京都で重度の精神障害がある方々を対象に 訪問活動しております。 精神科医です。 多職種でチームを組み 医療・福祉を含むあらゆる生活支援サービスを 直接お宅に届けます。 定期・予定訪問以外にも 必要時には24時間365日年中無休で対応します。 日本は精神科病院大国です。 そこでは組織として何事もない昨日と同じ今日を迎え、 今日と同じ明日が続くよう、 あらゆることがマニュアル化され リスクを取らずに仕事ができることを最優先に たくさんのエネルギーが費やされているように (わたくしには)見えます。 またなぜかユーザーである当の入院患者さんらが 管理の対象になっていることも当たり前です。 不思議です。 それらを指していわゆる「施設化」といいますが、 過去、悪しき状態と諸外国では考えられ、 脱施設化を進めた結果、 現在では本邦に比して精神科病床は激減しています。 地域に戻った患者さん (以後サービスを主体的に利用する人々という視点を 支援者が意識するために利用者さんと呼びます) をどのようにサポートするのがいいのか という長い実践と研究の末、 最初に示した多職種チームで サービスを直接届ける方法が 有効性の高いことが分かりました。 日本にはまだ10あまりしかチームがありません。 地域は施設ではないので、 施設での方法はほとんど役に立ちません。 大きなくくりでは 皆さん何らかの精神の障害をお持ちなのですが、 利用者さん毎にも、同じ利用者さんでも 時期や状況によっても異なります。 よくも悪くも利用者さんにまつわる日々起こる出来事は 予測不能ですが、 施設内では遭遇することの出来ない驚きに出会います。 そのときわれわれ支援者は 一方的な働きかけを行う者として どこまでも客観的評価を行う立場だけではおれません。 いやおうなく巻き込まれ、 ライブで判断し対応せざるをえないのです。 わたしはチームのスタッフによくこう言います。 「カウンター的にやれ」と。 前提としてチームでは 利用者さんそれぞれにチームがどう関わるか、 日々常に情報共有しつつ協議し 支援内容をマネジメントし更新します。 しかし現場では そこに暮らす利用者さんと支援者の人と 人としての生の接触です。 事前に決めた方向性が追いつかないこと、 カバーしえないこともままあって 現場優先タイムリーに動ける裁量と責任が 各支援者には必要です。 そしてこの不規則性を持ち帰り フィードバックして織り込んだマネジメント更新を 繰り返すことで 利用者さんとの絆が深まり 施設内では想像できなかった回復が訪れます。 驚きが喜びに変わるのです。 人生で本当に大切なことは、 他のだれかと同じように、 そして何度も訪れません。 その貴重で素敵な一度限りかもしれない瞬間に 生で立ち会える幸せを糧にまた明日も訪問するのです。 (ジョイズ・おほいし) <いかに現場で手放すか> 先週の「現場と向き合う力」 「大きく頷き」ました。 出来る限りの準備をしながらも、 現場ではそれをいかに手放せるか。 そして、どれだけ「ここ」にいるか。 私も、子育て中の主に親を対象とした テーマのあるお喋り会「ハートフルセッション」 というものを開催しています。 そこで、参加者同士の対話のサポートをします。 セッションはライブなのです。 そこで話されることに耳を傾け、 感じ取る力がないと、 シナリオ通りに事が運んだとしても、 表面的な話しに終わり、参加者の満足感はない。 現場では、「その場」にいて感じる感度の良さと、 そこで起こっている事を客観的にみる目が必要です。 そして、参加者に気付きを持って帰ってもらうためには、 参加者が心を開いて話せる環境作りが欠かせない。 入念な事前準備はそのために必要だと思っています。 準備をして手放す。 準備をした通りにやらないほうがうまくいく、 から準備をしなくてもいいのではなく、 準備をしたからこそ、 その通りに行かないことがokになる。 ベテランの人が、 まるですべてをアドリブでやっているかのように見えて、 そうでないのは、準備をして手放しているからだと思う。 私も「本番」で手放すために、 一つ一つの準備をしていきたい。 (潔子) <現場とコミットしていない> 先週の「おとなの小論文教室。」、 読みながら涙が出てきました。 私にとって、あまりにもタイムリーな話題です。 私は今年の4月から、 非常勤講師として中学校で理科を教えています。 新米なので、入念に準備しないと授業ができません。 毎回、準備で寝不足になりながら、必死です。 先日、実験の授業を途中で 中止せざるを得ない状態になりました。 生徒に落ち着きがない、というのが直接的な理由ですが、 根本的には私の授業のやり方に問題があるのです。 私の授業を見てくださったベテランの先生の言葉に、 ハッとしました。 「指導や注意の仕方は間違っていないと思う。 でも、余裕がない、というか‥‥ 一生懸命に100%出しすぎて、 先生の思いと生徒の気持ちが噛み合っていない、 すれ違ってしまっているんだよね。」 私の思いが強すぎて、 それを前に出し過ぎて、 「現場とコミットしていない」状態なのです。 計画通りに進めなければ、というプレッシャー。 しっかり理解させなければ、というプレッシャー。 50分間で片付けまでやらせなければ、というプレッシャー。 いろんなことがのしかかり、 「ちゃんとやらせる」ことばかりに気が向いて、 生身の生徒に向き合う余裕がない。 さすがに「私は必死に準備したんだから、 あなたたちもちゃんとやってよ。」とは思っていませんが、 無意識のうちに 「何で注意したばなりなのに、できないの!」 と思ってしまっている自分に気づきます。 そう思ってしまった瞬間、 生徒は敏感に感じ取り、何かがすれ違ってしまい、 気持ちが離れていく一方なのですね。 「授業は先生と共につくるもの。」 騒がしくて授業が中止になったクラスの生徒たちの、 反省の言葉です。 「授業は生徒と共につくるもの。」 そう生徒に言われているようで、ずしんと響きます。 (金時豆子) <状況は常に変化するんですね> 北海道で高校の国語教師をしています。 授業では偉そうに 「源氏物語は日本の誇る最古の長編小説だ」 などと言いながら、 源氏物語の原文は 一度も通して読んだことがありませんでした。 でもある時、一念発起して全文読んでみて、 本心からそれがすばらしい作品だと思いました。 それからは授業で源氏物語をやるとき、 こちらの意気込みが変わったからか、 生徒の食いつき方が変わったような気がしました。 これが「生もの」の力なのかなあと思いました。 ただ、最近は生徒が以前ほど 食いついてきてくれないような気がします。 やっぱり、状況は常に変化するんですね。 私にとってのもう一つの生ものである授業という場で 悪戦苦闘している毎日です。 (北海道高校教師) <創造的現場> 脚本どおりに進めるために、 おもしろい発問を殺す「立派な」授業もありますよね。 でも、本人達の力を活用して相撲を取れると、 教える・教わる関係を超えて良いものを創造できる。 聞きたい・伝えたい がダイナミックに躍動するときって、 こちらも乗っている。 相手を見て講義するか、 作りこんだ脚本を演じてもらうのか。 破れかぶれになることも、ありますけどね。 (ぐりぐら) <反応を楽しむ、まるでジャズ> ズーニーさんの講義の様子はまるでジャズみたい。 ジャズという音楽は、 その時にいかに集中できているか、 そこにかかっていて 演奏する方にも聴く方にも、 音に立ち向かう姿があって、 互いに起きる反応を楽しんでいる。 「生きていて楽しいのは、そういうところだろう」って 投げかけてくる。 なぜジャズが好きのか分からなかったけど、 だからジャズが好きなのかなぁ。 現実はベンチに座っていてはくれない。 速度の違いはあれ、いつも動いている。 テニスの選手が次のボールを待つ時のように、 前傾姿勢で足踏みをしてその場に集中する その時に生まれるものを楽しみたい。 変化には変化で対応するしかないのだということを あらためて思います。 (Sarah) <反応が起きるには空白が要る> ここ何回かとっても面白かったです。 何で面白いと感じたのか? 僕は、それがタイトルの変化に現れていると思いました。 テーマが決まっていて、 予測可能な到着点が見えないなかでので 手探り状態。自由な思考。それが現れている。 先週書かれたズーニーさんの経験。 僕もそんな感覚を最近持っています。 よくストーリーを立てろと 上司から最もな指示が出るのですが、 実は準備しすぎると、 言いたいことは伝えることができるのですが。 それ以上の変化が現れなくなります。 物語を作り、それを与えるとその物語に染まってしまい、 考えが出て、共有出来ない。 自分で考えなくなることがあります。 というわけで、 僕は、「白いキャンパス」、「何もない空間」、 「空白の時間」 こういうものが、 たとえ一つのプレゼンテーションにおいても 重要なのではないかと思います。 (鈴木) どのおたよりもとてもおもしろかった。 デザイナーのyouさんの、 「生のものを生と感じる力こそ、人間の器ではないか」 という考え方に大変共感する。 「なにが生か、どうすれば生を生と感じられるか、 生を感じる器をどうひろげるか?」 という問題提起には、 いずれ、この場で私の考えをお伝えしたい。 さいごにもう一度、 私が感動した、精神科医の読者の言葉で きょうは、終わりたい。 人生で本当に大切なことは、 他のだれかと同じように、 そして何度も訪れません。 その貴重で素敵な一度限りかもしれない瞬間に 生で立ち会える幸せを糧にまた明日も訪問するのです。 (ジョイズ・おほいし) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2011-11-02-WED
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