YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson565
  分解できたものだけが構築できる



「吸収しやすいもの」=
「自分が使う段になってチカラを発揮するもの」
ではない。

それで私が、まっさきに浮かぶのが、
「低分子コラーゲン」だ。

むかし、
そそのかされて3ヶ月も飲み続けたが、
1ミリも、なんの変化も、なかった。

そもそも胃から採ったコラーゲンが肌にいくなど
ありえない、そんなの迷信だ、という医師もいて、
以来、コラーゲンを飲むのをぱたりとやめてしまった。

でも、歳のせいか、ちかごろ、
どんなに非科学的と言われても、
体が欲する。

すっぽんを食べた友人や、
ふかひれを食べた女優さんが、
次の日、肌の調子がいいと言っている、
あれはなに?

ということで、迷信でいい、気休めでいい、とわりきって、
あえてデカイ分子のを飲んでみたところ
なんかいい、ついつい続いてしまう。

どうしてデカイのにしたかというと、
低分子のを飲む前に、
そのへんのどの店にもある
安いコラーゲンを飲んでいたとき、
むしろ、あのときのほうが体感がましだったと、
おもいあたったからだ。

小さいのでだめなら、大きいのだ、と。

もちろん、科学的な根拠はない。
あくまでわたしにかぎっての体感だ。
決して人にはすすめられないのだが。

「気のせい」か?

と言われると、それだけではない。

もし気のせいなら、
低分子コラーゲンのときのほうが、よっぽど、
「気のせい=自己暗示」は起こしやすかったはずだ。

なにしろ、当時のうたい文句は、
「ふつうのコラーゲンでは大きすぎて体に吸収されません。
 そこで、吸収しやすいように、
 ずっと分子を小さくしました」と、
何千分の1だか、何万分の1だか、
従来のものと大きさを比べるための
「模型までつくりました」と、
すごいふれこみだったのだ。

わたしは、実証・実体験の人間なので、
いくら、吸収されやすいの、されにくいの、
非科学的だの、科学的だの、言われようとも、
この体で実際に試してみて、
実感がないものは、ない。

あるものは、ある。

それにしても、
非科学的と言われて、なぜコラーゲンを飲んでるのか?
しかも、よりによってデカイ分子のほうが続いているのか?

「私は教育者なのに、
 しかも小論文なのに、
 論理的であらねばならぬのに‥‥」

どう考えても、自分には、腑に落ちる説明がみつからず、
リクツと体感のギャップに引き裂かれていた。

そんなとき、
美容評論家の岡江美希さんが、
(脱税で騒がれたけど、
 この人の美への執念は信用している)
ブログに次のようなことを書いていた。


「人間は、吸収した栄養は、
 一旦バラバラにはするねんけど、
 栄養を自分の体に再構築するさい
 自分で分解する時に作った再構築図
 ・・・いわば青写真がないと
 身体に還元する事がでけしませんねん!!!

 ゆーてる意味わかりますか???

 どこの誰だか分からん人がバラバラに分解した栄養を
 身体に取り込んだところで、
 青写真が無いと体の中で身にする事が
 できませんねやわ
 せやから、結局、栄養としては入るけど、
 大体が流れていくねん」
(Miki’s BLOGより)



岡江さんは、
自分の体と肌をつかった徹底的な人体実験で、

「口内炎のとき、
 市販のビタミンサプリを飲むより
 トマトジュースをのむほうがよっぽど効いた」

「コラーゲンは、
 市販のものを飲むよりも、
 自分で牛筋を煮込んで食べたほうが
 肌にいい」

とひとつひとつ実感していき、

「コラーゲンは、
 どっかでだれかが分子を小さくしてくれて、
 吸収されやすくしてくれたものではだめで、
 高分子の吸収しづらいカタチのものを、
 自分自身で分解して採りこんだとき、
 美肌をつくる栄養になる」

という独自の考えに行き着いたと言う。

私は、科学者でも美容家でもないので、
この考えの真偽については語る資格がなにもない。
ごめんなさい。

だけど、自分自身にとっては、
なにより腑に落ちる説明だった。

つまり、

「生のものを、
 自分自身で、解体して、採りこんだとき、
 いざ自分がなにかつくろうとする際、
 青写真があるので、つくれる。

 ところが、
 どこかでだれかが、
 吸収しやすく分解してくれたものは、
 吸収はしやすいんだけど、
 自分で分解してないし、青写真がないから、
 再構築しようとしても使えない。
 吸収して、流れていくだけ」

教育にひきあてて、
これはとてもしっくりする考えだ。

「生のものシリーズ」で何度も紹介してきた
グラフィックデザイナーの竜さんは言う。


<良い模倣・悪い模倣>

youさんのメールにあった
「逆に、いくら生ものと呼ぶにふさわしいものでも、
 その表面だけを模倣するようでは
 ただの加工品となってしまう」
という言葉に、ドキリとし、また自分の中にあった
疑問が氷解していくように感じました。

僕が上司から叱られるときに
「このデザインはまだ消化しきれてない」
とよく言われました。

つまり上司は
クライアントからの要望や、
上司からの指示を
僕が言われたまま、うまく帳尻を合わせて
ビジュアル化したようなものを
「未消化」と称していました。

この場合、クライアントからの要望も
上司からの指示も、考えようによっては
生もの、ライブな情報であるにもかかわらず、
僕がそれを深く考えようとせずに
「加工品」として情報を受け取ってしまい、
小手先だけでまとめあげたことを
上司は見抜いたのだと思います。

そしてだいたい、それを指摘されるときは
自分自身でも未消化の気持ち悪さを感じつつ、
なんとか押し通そうとする
「浅ましさ」や「幼稚さ」のようなものが
にじみ出ていたように思います。

僕らはデザインをするとき、
過去の優れた作品を模倣し、参考にします。
またそれを強く奨励されてもいます。
ただいけないのは、過去の作品を
形だけ模倣するのはパクリであり、
もっともやってはならないことです。

では「よい模倣」と「だめな模倣」の違いとは何か。

それを見分ける方法は、そのデザインが
「今の状況にピタリとはまるピースとなっているか」
ということではないかと、自分の経験から思います。

あるデザインが、たとえ過去の模倣であっても
その時々のライブな状況に
ピタリとはまる形になってさえいれば
それは「よい模倣」と呼んでいいのではないかと思います。

逆にただ形や表面だけをなぞり、
浅はかにデザインだけを模倣したものは
ピタリとは状況にはまりきらず
浮いたようなものになります。
あの中国の巨大ガンダムのように、
違和感の方が大きくなってしまいます。

さまざまな情報を「加工品」としてではなく
「生もの」として受け取るためには
やはり究極的には「考え抜く」ということしか
ないように思います。

それは他人が作った加工品を一度とことん解体し、
場合によってはそれ自体を疑ったり、
新しいものを追加したり、
今にそぐわないものを思い切ってカットすることで
ライブでナマな状況に
ピタリとはまるピースに作り替えられるか。
それが消化であり、情報を生ものとして
受け取ったということなのではないか。

あぁー、書いていてようやく腑に落ちました。
「加工品」と「生もの」の意味。
実は同じものであり、受け取り方次第で形を変えるもの。

横尾さんの授業で子どもたちが描いた絵は
加工品を解体、再加工し、新しい生ものを作り出す
その過程だったんですね。

書いているうちに、クリエイティブの本質を
垣間見たような気持ちになりました。
ありがとうござます!
(竜)



文章を効率よく、うまく書きたいときに、
「テンプレート」を利用する人も多いだろう。

たとえば、
就活で、うまく自分のやりたいことをプレゼンするために、
「プレゼンがうまい人の型」を利用する。


<社会背景>
私は目指す業界をめぐる社会背景をどう見ているか?

<仕事理解>
私は志望する仕事をどのように理解しているか?

<自己理解>
今まで生きてきた私は
どんな長所やこだわりを持ってきたか?

<将来の展望>
以上のことから、私は、将来、その仕事に就いて、
人や社会をどのように良くしていきたいか?



プレゼンに必要な4つの要素と配列が、
このようにテンプレートになって与えられたとしても、

これを利用して、うまく自分の考えを伝えられる人と、
単なる「つじつまあわせ」をしただけ
の文章になってしまう人がいる。

結局、考える筋肉がないと、

「社会理解」と「仕事理解」と
「自己理解」と「将来の展望」の、
4つのことをバラバラに、ただ箇条書きにしただけ、
で終わってしまう。

テンプレートをうまく使える人間は、
「掘り下げるチカラ」を発揮し、
掘り下げて、地下の水脈がつながるように、
4つの要素を関係づけて、1つの伝えたいことを伝える。

結局は、「たった一つの最も伝えたいこと」を言うために、
4つの要素を、うまく関係づけ、働き合わせて、
文章を構築することができる。

テンプレートを仕入ても、
文章がうまく書ける人と、書けない人の違いは、
結局は、「自ら考える力」。

コツコツ考える筋トレを積んだ人は、
プロの文章や、自分自身が書いた文章から、
いつでも「文章構成」を抽出するチカラがある。

そんな「底ヂカラ」があれば、
かりに「テンプレート」という加工品があてがわれても、

「要素と配列」だけのものから、
自分で構築し、肉付けし、血を通わせた
「家」を思い描ける。

青写真があるのだ。

結局、生のものを自分で解体できる
「考える力」がないと、
生のものだろうが、親切な加工品だろうが、
自ら再構築できるカタチで採り込めない。

要は、日々の、「考える筋トレ」のみ!

と私もここ数日、
竜さんと同じようなことを痛感していた。

最後に同じく、生ものシリーズで何度か登場した
youさんからのメールを紹介して、
今日は終わりたい。


<伝えたい>

先日「生もの」についてのメールをお送りいたしました、
youです。

それに対するあらゆる読者さんからの共感、お考えまで。
驚きと同時に、とても嬉しく感じています。
どうもありがとうございました。

横尾忠則さんの授業のお話、心が震えました。
ものを生み出す方の神髄を感じた気がします。
と同時に、生ものに対する考え方が、
以前より明確になりました。

「つくりたいものがあるか?
いかにしてそこに無防備になるか?」

ものをつくることを仕事として選んでしまった者として、
一番忘れてはならない言葉でした。

それはとても難しく、
途方もないことにも思えますが、
逆にとてもシンプルで、
すとんと胸に落ちる。

どうして私はデザイナーを目指すことになったのだろう。

その根源をもう一度見直すきっかけを
与えてくれる言葉でした。

自分の「立脚点」。
デザインで実現したい未来。
そういうことをもう一度考えてみようと思います。

ものを創る人間には、やはり「伝えたい」という思いが
根源にあるものですね。

私の師はよく
「昔は“社会”という
 デザインをぶつけるべき対象があった」
と言います。
そして「今はその対象が見えなくなってしまった」とも。

そんなこともあって、いろいろ考え込んでしまったところへ
「生もの」討論が開催されていたので、
抱えていた思いをそのままぶつけてしまった次第です。

その「本当に伝えたい思い」を
メールで送ったことにより、
図らずも思いが伝わる嬉しさを感じることができました。
本当にありがとうございました。

今度はこれを、デザインでも実現しなければ!

横尾忠則さん
私の尊敬するデザイナーの一人です。
実は私と誕生日が一緒なんです。(笑)
(you)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-11-23-WED
YAMADA
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