おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson571 読者にとっての「希望」 幸福とも、夢とも、楽観とも違う、 「希望」って、どんな感覚なんだろう? 「希望」を手にする条件とは? きょうは、 読者ひとりひとりにとっての 「希望」のありかたを、 前回の「希望」・前々回の「ひとつ」に寄せられた たくさんの読者メールから よりすぐっておとどけする。 <うちの味> 雑煮の話、共感します。 やはり雑煮は家庭の味のホームラン王ですね。 自分は、33歳の時母親を癌で無くしました。 私の母は東京の下町育ち、父は埼玉育ちで、 その二人の子供である私と姉は横浜で育ちました。 私たちが子供の頃から食べ慣れていた雑煮は、 焼いた餅を薄い醤油味のお吸い物に入れる、 いわゆる東京の典型的な雑煮でした。 ところが母親を亡くし、急に家庭を持ちたくなり、 結婚しました。 嫁さんは新潟出身でした。 最初の正月はちょっとした事情もあって、 嫁さんのお義母さんも一緒に住んでいました。 そのせいもあり、我が家の元旦の食卓には、 「しんのみ」と呼ばれる新潟式の雑煮が並びました。 その時に、言葉は悪いのですが、 家庭を乗っ取られた気がしました。 勿論、それを一生懸命つくってくれたお義母さんや、 しんのみには全く罪はありません。 しかし、その位 正月に食べる雑煮が変わる事って一大事なんだと、 ズーニーさんの文章を読んで思い出しました。 今ではすっかり、 そのしんのみが我が家の雑煮となり、 私も娘もシャケと、(焼かないで)煮たトロトロの餅が 入った雑煮が大好物です。 今ではすっかりそのしんのみが、 我が家の家庭の味代表です。 (下町ホームラン) <望み> 私は『正月に帰る場所』を 何とかして手に入れたいと思っています。 私もズーニーさんのように 『人生で、多くを失い、多くを手放し、現実にやられ、 受け入れ、明らめ』ました。 でも、僅かに手に入れた自分の力を磨き育んで、 『正月に帰る場所』を手に入れたい。 いつか『正月に帰る場所』を手に入れて、 人間的な暖かさのある時間を過ごしてみたい。 (ヘブンズドア) <望みある限り> 「人生で、多くを失い、多くを手放し、 現実にやられ、受け入れ、明らめていった果てに、 “それでもこれだけは” と湧き上がってくるもの、 それが“望み”だ。」(『希望』より) 分かります。 その「望み」って母のお雑煮だったり、 家族の団欒だったり、特別なことではないんですよね。 絆のようなことでしょうか。 人は一人では生きていけないんですよね。 昨年は大震災や原発事故で多くの大切なものを失い、 それでも「望み」を抱いて生きていこうとする人々を たくさん報道で見たり読んだりしました。 「望み」がある限り人はどんな苦難があっても 生きていけるのだと思います。 (東京都新宿区会社員K・50代・男) <変わっていくこと> 親も老いるが私も老いる。 実家の母に久々に会ったら、 「としょったな〜〜!」を連発された。 「はいはい、あなたもね」と言わなかったのは、 私が大人だから。 母は老いた分、お腹にしまっておくことができなくなって、 私を心配するあまり連呼する。 あるいは、子の変化を単純に驚いている。 合わせ鏡なのに、そう思わないところが幸せ。 そんな母は、 自分で採取し加工した蕗と自家栽培の野菜で、 お汁を煮る。 二人暮らしなのに、いつでも大鍋で。 薪ストーブの上で。 ご飯と具沢山のお汁、 漬物が欠かせなかった我が家。 凝ってもいないし、 格別美味しいということではない。 でも、もらって帰るそのお汁は、 私の子供心を満たし、孫の食欲を刺激する。 ほとんど母が土から頂いた材料。 すすが落としきれていない、 大きなアルミ鍋で作った名もなきお汁。 親も私も変わっていく、 だからこそ変わらない「母」に会ってホッとする。 でも、変わることを恐れないようにしたい。 変わらない、ということは命の終わり。 老いる、とは、生き延びているということなのだから。 (サトウ) <私にはあたたかい希望がある> 昨年夏に、父にかなり進んだ癌が見つかりました。 父は昨年春に仕事を定年退職して、これから母と2人 お互いに好きな事が出来ると思っていた矢先の事でした。 一緒に暮らす母にとっても、 つらく、大変な日々が始まりました。 ずっと専業主婦だった母は、 父の退職を期にもっと自由に外に出たり、 わがままを言いたいと言っていたので、 それも含めて、本当に 絶望的な気持ちになったのではないかと思います。 幸い子供達3人は、近県に暮らしていますので、 今年のお正月もいままで通り、 実家に皆が集まって過ごしました。 旦那が海外赴任で子供もいない私が、 一番長く実家で過ごす事になりました。 お正月休みも終わり、仕事が始まって一週間程たったころ、 母から電話がありました。 お正月に来てくれてうれしかった事、 それと私が父に気を使って疲れてしまったのではないかと 気にかけての電話でした。 その電話は、父の一時帰宅が終わり、 再び入院した日の夜にかかってきました。 私が実家からもどってからの数日間、 ずっと気にかけてくれていたのだと思います。 父はもともと口数も少なく、 明るいタイプではありませんが、 癌と分かってからは、 体がいう事をきかないいらだちもあるのでしょう、 随分とわがままになりました。 私は基本的には明るい方ですが、 少し気に病むところがあります。 そんな私の性格を知っているし、様子を見て、 母は心配して電話をくれたのだと思います。 母の方がずっと疲れて大変なはずなのに。 母からの電話をうけて、胸がいっぱいになりました。 父のわがままも、実家へ帰る負担も、家事を手伝う労力も、 両親のこれからを考えて不安に思う気持ちも、 他人からみると、つらく悲しく、 大変そうと思われるでしょうが、 決してそれだけではない希望があると感じました。 ふしぎと気持ちはあたたかいです。 希望がある。 すごくよく解ります。 うまく表現できませんが、コラムを読んで、 頭と心と体でわかる、共感できる、 実感できると思いました。 自分で文字にまとめてみて、気持ちがすっきりしました。 悲しみも不安もありますが、あたたかい希望があります。 (にこ) <先週のコラムに湧き上がった想い> 「すべてを受け止めたところには、希望がある」 (潔子) <外国人に選ばれたのは> 新年第一号の記事を読んで思ったのは 「人間、腹をくくった時に真の希望が湧いてくるんだな」 ってことでした。 それは腹をくくる前の、 上滑りの希望とは質が違うんですよね。 年末、あるテレビ番組で 「世界に広げたい日本語」というのをリサーチしていて いろいろな外国人にインタビューをしていたのですが 最終的に「しょうがない」という言葉が選ばれていて、 とても意外でした。 「日本人がしばしば使う『しょうがない』という言葉は あきらめのようでいて 希望が感じられる」というのが選ばれた理由でした。 初めは意外に思ったのですが 「好ましくない現状を受け入れて、腹をくくる」 というニュアンスがどこかに感じられる、ということかなと 私は理解しました。 腹をくくった時、そのお腹の奥の方に 小さく灯る光があります。 どこか遠くにある光への憧れや渇望ではなく、 その内なる光こそ真の希望なのだと。 (上田 41才、病院職員) <希望とはとてつもなくシンプルなからくり> 「自分にとってほんとうにたいせつなこと」 それがわからないから、 とりあえずや念のため ホケンが増える。 或いは、それがわからないから、ダンシャリをする。 ないものを捜し求めるのでなく、 既にある たくさんの なかから、 ぜんぶなくなったとしても 「それでもこれだけは譲れないものや思い」 それをつかめればいい。 そして、つかむには、ハウツーがあるわけでなく、 ただただ自分の日々を懸命にすごしていることによって 出会うことの許された気づきがある。 とてつもなくシンプル、そして潔いそのからくり。 「やっぱ、懸命に立ち向かうしかないよね」 と背中を押してもらえたような。 それが、今日の私にとっての希望です。 (H.Y) <解放のあとに訪れたもの> 12月21日の「ひとつ」を泣きながら読んだ。 フリーランスで仕事をしているから 孤独は想定内だった。 友達や恋人や家族がいないことも それなりにあきらめがついている。 なのに(だから)、 どうしようもなく誰かとつながっていたい。 双方向で言葉と心を通わせたい。 自己完結せずに、想いを誰かと共有したくして仕方がない。 仕事でも生活でも。 そうか、私はこんなにさみしかったんだ。 そう思った瞬間に、解放された。 ここから開かれていくものがあるかもしれない。 何も変わらないかもしれない。 自分を解放したい。 望みはこの一点だということも、明確になった気がする。 他人に対しても、自分を解放してほしいと 望んできた気がする。 「かもしれない」と「気もする」だらけ。 でも、気持ちがいい。 この感覚も、希望なのかな。 (みゆき) <表現して乗り越えてきた> 「人がどんなに暗い状況にいても、 その内面を言葉にあらわし、人に通じさせたとき、 解放がおとずれる。 悲しみが深ければ深いほど、 深い解放がおとすれる! それは自分はもちろん、聞く人をも解放する。 “表現”の可能性を信じている。」(『ひとつ』より) 面接試験でのアピールとかでは惨敗の人生でしたが、 母として人として主張しなければならないとき 自分の気持ちを表現する力のおかげで 危機を乗り越えたことが何度もありました。 表現の可能性、私も信じています。 誰にもその力は眠っていると思っています。 それを使うか使わないか、気がつくか気がつかないか なのだと思っています。 (ばんこ母さん) <本音を解放する> 古今東西の名曲を聴くと、 多くのものに同じイメージを抱くことに気付きました。 それは浮遊感であり、「魂を解放される」ような感覚です。 そしてそれを感じると同時に、何というか、 宇宙の胎内に抱かれているようなイメージが見えるのです。 つまり、表現の中にある、 「解放される感覚」と「守られる感覚」の間には、 何か密接な関係があるのではないかということです。 少しだけ私の話をさせていただけば、 私は中学の頃から不登校ぎみになっていたのですが、 自分でもその理由がわかりませんでした。 なぜ辛いのかわからないのに、ただただ辛かったのです。 しかし、絵を描いたり、文章を書いたりしている内に、 どんどん楽になっていき、 今では大学受験のために勉強しようと 自分から思えるようになりました。 私は、表現することを通して救われたのだと思います。 表現することというのは、 自分の本音を解放するということです。 それを続けると、自分の核が見えてきます。 核が見えたら、それを守る方法もわかってきます。 そうすれば、たいした理由もなくイライラしたり、 悲しくなったりしません。 つまり、表現することは、 自分自身を守ることにも繋がるのです。 (NN) <車の窓から見えた希望> 絵にまつわる私の拙い思い出話を聞いてください。 小学1年生の春の写生大会。 京都嵐山で桂川の川べりに座って川を書きました。 渡月橋から見える川の色ご覧になったことがありますか? 流れは濁ってはいないものの茶色の水底がみえています。 ほんの少し緑っぽくもみえます。 40年近く昔のことです。 当時は今よりむしろ淀んでいた記憶があります。 私は川を書くと決めたら画用紙いっぱいに 川を水彩絵の具で塗りこんでいったのですが、 そこは小学1年生。イメージした色の出し方などわかりません。水の透明感など至難の技。 見たまま描こうと苦心して出来上がったものは、 画面いっぱいただ茶色く緑っぽく暗く汚い筆あとが 横に流れたわけのわからない絵。 なんとか本物に近づけようとするほど 自分でいやになるほどただ汚く遠ざかる絵。 見回りにきた先生には 「ふざけないで真面目に描くように」と 注意された気がします。 ふと見ると周りの子はみんな 「水色」の絵の具で川を塗っていました。 写生なのに、自由なお絵描きじゃないのに、 嘘つきだと思いました。 どう贔屓目に見ても青い要素などないのです。 でも先生は誰にも注意しないで、 上手な子には褒めてさえいたのです。 私は抗議できる言葉も気の強さも持ち合わせていない、 愚痴をこぼして共感や慰めをもらえる友達もいない 孤独な子供でした。ただ悲しみにくれていました。 悲劇はそこで終わりませんでした。 なんと教室の後ろに全員の絵が長い間貼り出されたのです。 作品を掲示するという学校では当たり前のこのシステムを、 初めての悲しい作品で知ることになりました。 緑の山、水色の川に混じって ひとつだけ茶色く汚れた異質な作品によって 嘲笑と同情の入り交じった空気を 張り出されてる間中感じずにはいられませんでした。 さて、私の小学校は 写生大会を桂川ですることがよほど好きだったみたいです。 経験を積んだ私は、翌年からもう 茶色の絵の具に手を出すことはありませんでした。 水は水色で塗る。 だから水色というのだ。これはお約束なのだ。 目にする絵本もアニメもみんな水は水色でした。 もしくは青、せいぜい緑。 一方私が目にする実在の川も池も 水色のものはひとつとしてありませんでした。 でもだれも違うといわない。 転機は小学校4年生の時に訪れました。 家族のスーパーの買い物についていったときのことです。 手芸屋さんのとなりに 新しくちょっとした絵を売っている店ができました。 何気なくみた運河の絵に私は感動したのです。 …見たままの水の色だ。 その絵は水色など使っていませんでした。 暗く深い少し波立った水をそのままに透明感もありました。 見たままの色で水は表現できるということを知りました。 私の腕が足りなかっただけの話なのです。 本当にそれは私にとって 嘘をつかなくてもいいこんなすばらしい方法が この世に存在していたという発見でした。 私にはできなかったけど 私のやろうとしたことは間違っていなかった。 私には無理でも、表現できるのだ。 普段は写生のことなんか忘れていたけれど、 一気に思い出が甦りました。 さて私にはもう一度転機が訪れます。 中学生の家族旅行で信州に行った時のことです。 後部座席の私は、車窓から確かに見たのです。 水色の川を。 この世に水色の川は本当に存在していたのでした。 この衝撃を伝えても、家族はほんまに綺麗な川やなあ としか反応してくれませんでした。 水色なんやで! 私はこの地に生まれて写生をしていたら どんなに楽だったでしょう。 水色という絵の具の名前も、絵本の川の色も、 決して嘘ではなかったのです。 大人になった今も、あいかわらず私は 気が弱く、技術もなく、孤独なままですが、 この思い出のおかげで世界を見る目が 広くなった気がします。 思ったことはきっとできる。 それから信じがたい表現に出会っても、 自分の狭い経験を根拠に嘘だと決めつけることが できなくなりました。 (水の色) 自分のなかにある、 「たったひとつ、これだけはどうしても」という 「願い」のようなもの。 たいていの人はそれに気づくことができない。 フタをしたまま生きている。 気づけないから、無自覚なままに、 それを手にしている人を妬んだり、攻撃したり、 すねたり、元気をなくしたり、 よこしまな願望に走ったりする。 不幸は、人を揺さぶり、 フタをしてきた、妬みも、悪意も、欲望も、 人のなかから次々とひっぱりだしては、 かたっぱしから踏みにじっていく。 人を絶望させる。 そんなふうに、 ふたをしてきたものをなんもかんも、 つぎつぎさらけだして、それでもどうにもならず、 最後の最後、自分からは、 もう何も出るものが無いとおもったとき、 「たったひとつ、これだけは」 という願いに気づくことができる。 たったひとつの願いに気づき、言葉に表したとき、 解放が訪れる。 この願いに射す光が希望だとしたら、 「希望と解放はセット。 解放なきところに希望はない。 解放あるところ、必ず希望はくる。」 と私は思う。 最後に、この読者のメールを紹介して きょうは終わりたい。 <羽> 多くの羽を見た。 解放された表現が 市民権を得た年のように思えた。 大空を旋回している鳥はどんな気持ちだろうと、 ずっと思っていた。 今はその鳥の気持ちが 少し分かったような気がする。 飛び立とうと崖に上ると、 何をするのかと不思議そうな顔をされる。 それでも羽を広げてみる 崖に立つことは怖いけれど、 羽ばたいてみると風が起こった。 凍りついたような関係であっても、 風が届くのが分かった。 わざわざ崖に上らないように、 それが暗黙の了解だった。 それが賢い繋がり方だった だけど飛び立てば、 空にこそ繋がりがあった。 空は自分の心にも、 届いた人の心にもつながっていた。 人に届くことは、 自分に届くことだった。 予想された場所に正確に帰ってくるボールではなく、 乱反射して拡がっていく、 光のような繋がりがあると分かった。 批判しているのではない、 評価しているのではない、 お世辞を言っているのでもない、 心配しているのでもない、 自分を良く見せようとしているのではない、 分かってほしいのでもない、 ぶちまけたいのでもない。 ただこうして羽ばたいていたい。 人とつながって生きていくために。 崖から飛び立つのは怖いけど、 空に飛び立てば1人ではない。 一緒に空を見ようとした時、 そこから始まる。 そう信じています。 (Sarah) |
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2012-01-18-WED
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