おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson572 足のある表現 よい文章とはなにか? 正解はない問題で、 自分自身の定義も移り変わっていくが、 まちがいなく、いま、 私が魅かれるのは、 「足のある表現」だ。 大学の授業でも、社会人の講座でも、 私は、最後の回に、 「山田ズーニー賞」 を1人、独断で決めて 表彰している。 あすの表現者を励ます賞だ。 2012年1月、 私が、この半期で、 もっともよい表現者に選んだのは、 学生のほうも、社会人のほうも、 偶然にも、 こどものころ虐待を受けていた。 虐待と書いてどうもしっくりしない。 2人とも、 主題はそこにない。 言いたいことは他にある。 2人それぞれちがう、かけがえない個性・世界観で、 それぞれ別の主題を伝えている。 2人とも決して、 「辛かった過去の私をわかってくれ」 とは言わない。 「昔こんなにつらいことがありましたが、 いまは努力してこんなに成功しました」 というサクセスストーリーでもない。 2人とも、 過去の辛い体験に執着しないというか、 そこから自由になっており、 実に淡々としている。 社会人のほうの女性を、 プライバシーに抵触しないよう、 ここでは、かりに「レンさん」としておくが、 レンさんの文章の最後に、 自分にひどい仕打ちをした父親に対して、 「今度生まれ変わったら 又、あの父の娘になってあげてもいい。」 というくだりがあり、 その、「のり越えっぷり」というか、 「解放されっぷり」がよく表われている。 2人とも、書き手自身が解放されている。 だから、書いて自分が救われたいとか、 書くことで自分をどうこうしようとは もはや思っていなくて、 それゆえ、作品を磨き上げることに そんなに執着はなく、 淡々と、無自覚に、自然に、 読み手に「与える」段階にいる。 2人が、なぜ解放されているか? それは、「行動」したからだ。 レンさんは、 わずか10歳で、だれにも守ってもらえず、 父の暴力のもろ、標的になる。それでも、 10歳とは思えないこんなことを口にする。 「親は子供を扶養する義務や責任があって、 義務教育の間は学校に通わせる義務がある。 何より住民票もこの家にあるのだから どれだけ叩かれても殴られても 学校にはいくし、この家を出ていかない。」 その言葉どおり、 家から閉め出されれば、 したたかに家に入る方法を考え、 体当たりで行動し、家にはいり、 レンさんは、皆勤賞で小学校を出る。 高校の授業料をとめられれば、 ホステスのバイトをして授業料を稼ぎ、 自力で高校に通いつづける。 客に体を触られそうになれば、 客たちの大好きな演歌を数多く覚え、 高校生ながら熱唱し、 歌うことでのりきって、逆に接客に好評をはくす。 大人になったレンさんは、なぜか、 変な男ばかりに騙される。 ある男には、海に捨てられた。 けれども、レンさんは泳ぎが得意だったので、 何キロも、すいすい泳いで、 何もなかったかように帰ってきてしまった。 そんなふうに、次々と 立ちふさがるハードルを、行動して、 自分ひとりでのり越えてきたレンさんにも、 たったひとつ、 なんどもなんども繰り返して、夢にみて、 うなされることがあった。 それは、 お父さんから暴力を受けていたときのことでもなく、 悪い男にだまされたことでもない。 あと1週間で高校を卒業するというとき、 ホステスとしてバイトしていた店に、 高校の教頭先生と、生活指導の先生が、 そろってお客としてきてしまったときのことだ。 自力でがんばって卒業しようとしているのに、 高校に行かせてもらえなくなる。 卒業させてもらえなくなる。 もっと辛いことはいっぱいあったのに、なぜか、 その夢をレンさんは繰り返し見てうなされた。 「私が一番恐かったのは 学校を止めさせられることだった。」 とレンさんは言う。 「誰にも甘えないから 誰にもこの先の私の未来を決めてほしくなかった。 子供だった私はきっとどんな状況でも 未来を信じ 自分自身で切り開こうとしていたのだろう、 それに気付かないほど 必死で信じ、必死で生きていたのだ。」 結局、教頭先生も、生活指導の先生も、 化粧をして着物をきて、 目の前で演歌を歌うレンさんを わが校の生徒だとは気づかず レンさんは無事、自力で高校を卒業し、 10年働いてお金をためて大学に通いだした。 レンさんの文章の面白さは、 ここにはとても再現できないが、 ひとつ言えるのは、 「すべて実人生で行動し、のり越えてきたことが、 レンさんの文章には、書かれている」 ということだ。 だから一文一文に、足がある。 じゃあ、逆に足のない文章とはなにかというと、 自分にないものをあげつらって、 ひたすらくよくよする文章だ。 くよくよも、貫き通せばきっと おもしろくなるんだろうけれど、 最後はなぜか「変わりたい!」という 決意表明でしめくくる。 まずは、性格なら性格で、 自分の「欠点」をあげるところからはいり、 そうそうに裁いて、 その性格を「欠点=よくない」と決めつけ、 自分はどうしてそうなったのか、 その欠点のおかげで、 どんなつらいことがあったか、 自分はどんなつらい想いをしてきたか、 「みなさんつらかった私の想いをわかってください、 認めてください」の吐露が続き、 さいごになぜか唐突に、 「変わりたい」という願望、 もしくは「欠点を克服してみせる」という 決意表明でしめくくる。 もともと、 自分に「ない」部分をメインテーマにしてしまっている。 ないのだから、 行動の痕跡もなく、経験の蓄積もなく、 だから、経験からくる気づきもないし、 解決に向けた道も踏み固められていない。 足のない願望だけが浮いているような文章。 こういう文章を書く人は、 「書きゃあ、なんとかなる」 と思っているふしがある。 書くことを「駆け込み寺」にしまっている。 文章を書くにしても、 3つの段階があり、あっていいと私は思う。 ひとつめは、 「カミングアウトができなくて」 という段階。 表現はカミングアウトとは似て非なるものだ。 けれども、もっとも書きたいことは、 もっとも書きたくないことの近くにあることが多い。 ある秘密なり、ある傷なりが、 勇気がなくて書けないために、 それがフタをしてしまい、 結局、自分の本当の想いがなにひとつ書けなくて、 表面的な、空々しいことを書いてやり過ごしてしまう。 ここを勇気を持ってのり越えて、 自分の本当の想いが書けたとき、 カタルシスというか、 えもいわれぬ「解放」が訪れる。 ここから、「文章表現」という段階にさしかかる。 文章になら自分の本当の想いが書ける。 書くことで自分を解放できる。 これはとっても素晴らしいことだけれど、 下手してゆきすぎれば、 書くことに依存することにもなる。 実生活はスカスカしていき、作品だけが濃密になっていく。 作品に執着し、表現をこれでもか、これでもか と必要以上に磨き上げるような段階。 たぶん大なり小なり、書き続けている人は、 この「書くことに依存する」ような時期を 経てきたのではないかと思う。 私はデビューが非常に遅く、 仕事以外では、つまり趣味では 文章を書いてこなかったので、 「依存」にひっぱられる機会も少なかったが、 それでも、書くことに依存した時期があったように思う。 でも、これを通り越すと、 つまり書くことで考え、気持ちが整理され、 解放されて、先へ、先へ、と思考が進み続けると、 こんどは紙の上でなく、 実人生という大きなキャンパスに向かって、 自分の想いや考えを表現したくなる。 今期、山田ズーニー賞を受賞した二人とも、 いわゆるカミングアウトの段階は、とうに越えており、 文章に逃げ込むこともなく、 すでに実人生という大きなキャンパスに、 行動という自己表現を刻んできた。 もはや、そこから得たものを、無意識に読み手に 与える段階にいた。 だから、二人の文章を読むと、 とてもいいエネルギーを与えられるし、 解放された気持ちになるのだと思う。 たとえば、ツイッターのなかにも さまざまな人がいる。 きょう、自分が勇気がないために、 できなかったこと、言えなかったことを 愚痴ったり、人をねたんで揶揄したりする人。 自分にできもしないし、なんの行動もおこしてない、 願望を、次々と繰り出し、えんえんと語り続ける人。 良い視点や考えなのだが、 そのことを机上で論じるのみに留まっている人。 すでに行動し、その経験の中から 自分の言えることだけを シンプルに文章でシェアしている人。 その表現に「足はある」だろうか? |
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2012-01-25-WED
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