おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson573 足のある表現2 ーー読者メール紹介 先週の「足のある表現」には、 ピリピリと読んでいるこちらにまで 衝撃度が伝わってくる反響がおおかった。 それだけ、 読者たちの、表現することへの本気を感じた。 きょうは、先週の「足のある表現」への 読者メール紹介の回としたい。 つづけて3通、 まず、お読みください。 <まだ心臓がドキドキして> 今回のコラム ずがんときました 吐きそうでした 胃にいいパンチが決まったみたいです 広報のために文章を書かなくてはいけないとき わたしは「与え」ているか 「足はある」のか 考えて苦しくなりました 「欲しくなって買ってくださいね」 「これなら上もオーケーだすでしょ」 みたいな「くれ」文だったり 自分のない幽霊みたいなことをしていました まだ心臓がドキドキして 仕事が手に着きません もう少し考えてみます (幽霊の広報) <書いて救われようとしていた自分> 自分の妻は 統合失調症という精神の病を煩っており、 家族ともどもその症状と戦う毎日です。 これまで、その病気のことを 周りの友人や同僚にあまり話したことがなく、 僕は先々週までの連載を読み 「ここでなら自分の辛さを伝えられる!」 と無意識に思ってしまっていたようです。 言うなれば、カミングアウトがしたくてしたくて たまらない状態。 カミングアウトしさえすれば、 何か無条件に救われるような心持ちでした。 でもコラム「足のある表現」を読み、 そんな自分の気持ちに気づかせていただいた 感じがしました。 日々、妻の病気とともに戦いながら、 さまざまな気づきや葛藤、そして時には喜びもあります。 嵐のあとに訪れる、優しい木漏れ日のような平穏に、 夫婦2人、涙が出そうなくらい 幸せを感じることもあります。 でも次の瞬間には、神様を呪うような気持ちに 苛まれる瞬間もあります。 そういったことを乗り越えて、 山田ズーニー賞を受賞されたレンさんのような 境地に立てれば。 (グラフィックデザイナー 竜) <伝えたいことのみを書く> 先週掲載されたコラム「足のある表現」を 読ませていただき、 以前掲載された「くれ文から与え文へ」のコラムと あわせて、思うところがありました。 私は、放射線科・画像診断医として働いて 約13年目になります。 主治医からの依頼で撮られる X線写真、CT、MRIなどの画像を見、 そこから得られる情報や診断を「所見」として記載し、 主治医にかえすのが主な仕事です。 一般的な医師とは異なり、 患者さんを直接診ることは少なく、 私の医師としての意見は 患者さんに直接にではなく主治医に還元され、 その伝達法は口頭ではなく 「所見」という文章によるものです。 主治医に「通じる文章を書く」ことが 重要な要素であると考えてズーニーさんに出会いました。 いわゆる how to のみならず、 心や気持ちを大切にされ注目されている点に、 とても共感しています。 私たち画像診断医は主治医に文章で意見を述べています。 しかし、日々の診療で、 伝えたいことがきちんと伝わらないことによる齟齬が、 小さなものまで含めればわりと頻繁に起こっています。 画像診断医の世界で、 「文章で伝える」ということが 実はある種の壁になっていることを、 何となく感じている人は多いと思うのですが、 あまり問題意識を持っている人が少ないです。 「主治医に必要な情報を提示する」など、 内容を充実させることに言及する人はいますが、 「伝達の仕方」ということに注意を向けている人は あまりいないように思います。 私自身は、「通じる文章」というキーワードには 気づきながらも どう取り組んでよいかが長らく分からなかったのですが、 数年前から、「短く簡単な言葉でわかりやすく」書くと うまくいくことが多いなと感じ、 そのためにはどうすればよいかを考えるようになりました。 先週のコラム「足のある表現」を読んで、 私の所見と、 私が分かりにくいなと感じる所見との差が、 少し分かった気がしました。 分かりにくい所見には、 「この画像を、私、こんなにがんばって読みました」 「画像っていうのはこんな風に読んで、 こんな風に診断を導き出すんです」 「この患者さん、こんな大変な病気がありますよ、 えらいことですね」・・・ 所見を書いている診断医本人の気持ちが 刷り込まれてしまって、解放されていないなと思いました。 私は、実際に画像を目にして所見を書くまでには、 ものすごくいろんな感情が渦巻き、 それをコントロールするのは大変だなぁとは 日々感じているのですが、 自分が書いた所見には、 「主治医に伝えたいこと」しかないな、と気づきました。 主治医や患者さんに、少なくとも、不要の要素は なくなりつつあるな、と。 今まで意識していなかったけど、よりいっそう、 これから進むべき道が見えた気がして、 とても励まされました。 一方で私は、 仕事以外のところでは文章を書くのが苦手です。 「くれ文・与え文」のコラムは、 心に深く突き刺さりました。 一年ほど前、長らく連絡していなかった友人と久しぶりに、 かなり深いやり取りをしていたのに、 だんだんとお互いにもやもやが募ってきて、 今また連絡が途絶えてしまっています。 あのとき、私ってきっと、 “くれ文”を書いていたんだなって思いました。 私も書いているときからうすうすわかってはいて、 “くれ文”にならないよう、相手の立場に立って、 むしろ相手のことばかりを考えて書いているつもりでした。 でも、返事を読むと、 なんか相手がもやもやしているのが分かるし、 私もなんかもやもやする。 やっぱり、文章を書くときって、 わかってほしい気持ちがあって書く。 私の中に、孤独とか寂しいとかいう気持ちが、 たぶん常にあって、だからこそ、 人に分かってほしい、伝わってほしい、 そこに浅ましさがあるのでしょうか。 でも、それこそが燃料というか、伝えたいから書くのです。 「寂しい」というのは私にとってひとつのキーワードで、 多分これは自分のかなり深いところに根ざしたものだ と思っています。 わたしの周りにも、同じ話をしてても まったく“くれ文”にならない人がいます。 その人は確かに、「手放している」と思います。 その人は、発する言葉、行動、文章すべてに、 無頓着ではないのに、執着がありません。 (maki) 三人ともかっこいいなあ、 と私は思う。 まず、自分の表現を、足のない「幽霊」 と言いきる広報さん、潔い。 私は、この広報さんのように、 自分にとって耳の痛いことを言われたときに、 逃げたり、そらしたり、 現実を歪めたり、ましてや相手を攻撃したりせず、 「痛い」と直球で苦しめる人こそ、 かっこいいと思う。 そして、竜さん、 表現とカミングアウトの違いの解釈が深い。 わたし自身、 「書いてラクになろう」としたとき、 つまり、カミングアウトしたくってという段階では、 不思議なことに、書いてもラクにならず。 ラクになったとしても、それは、 読んだ人がいたたまれずに、救いの返信をくれて、 他人の言葉でラクになっただけであって。 自分はそこではじめて、 人に「助けてくれ」と言っていたと気づくというか。 通じるときはたいてい、カミングアウトしたくないときだ。 たとえば、Lesson262「連鎖」のコラム。 (2005年8月24日付け) 田舎から出てきた母に、 私があたりちらしたことを、 私は、どうしても書きたくなかった。 教育テレビにも出ている コミュニケーションの先生である私は、 私生活でも、コミュニケーションが円滑にいって いなければならないはずだった。 けれども、この、母とのことを書かなければ、 ネットの中で、 人から人へと悪意が「連鎖」されていくという主題が、 自分も被害者から加害者に転じ、 悪意を母に連鎖してしまったことが、 母がネットでリレーされてきた悪意を 胃でとめたことが、 書けなくなってしまう。 自分の失敗の経験から来る もっとも書きたいこと=「連鎖」を書くために、 私は、もっとも書きたくないこと =母にあたりちらすという「醜態」を、 どうしても書かねば進めないところに追い込まれた。 ものすごい勇気が要った。 原稿を書き上げたものの、編集者さんのところに 送信ボタンを押す手がおせず、 スキーの前傾姿勢をイメージし、 前のめりになって、ぐっと体重をかけて、 送信ボタンを押したことを、 いまでも生々しく思い出して、冷や汗が出る。 しかし、多くの読者から失望され、 仕事も失うかもしれないという覚悟で書いた この「連鎖」には、思いもよらぬ大反響、 しかも共感がおしよせた。 三人目の読者、makiさんの、 「主治医に伝えたいことのみを書き、 他の一切を捨てる」という執筆のありかたに 大きく共感だ。 それが「与え文」になるか、 人に「くれくれ」とねだる「くれ文」になるかは、 足のある文章と関係していると思う。 社会人の女性の生徒さんで、 「自分の意志で卒業式に出ないと決め、 実行した日」のことを書いた人がいた。 彼女は、いわゆる「イイ子」を期待され、 自ら、その期待されるカタチにはまって、 幼少期、思春期を生きてきた。 大学に行くなら、東大へ、 しかも法学部へ、卒業したら弁護士になれ、 それが彼女にはめられようとしていたカタチだった。 しかし、ある日、ふと気がつく。 「自分が必要だと感じていない儀式に、 実は出ないこともできる。」 彼女は、卒業式に行かないと決め、 実行し、その日を自分の独立記念日と名づけた。 「卒業式には行かない。 小さなことだが、それが初めて自分で考えて 実行に移したことだった。 私はその日、他人の決めたルールから独立する 一歩を踏み出した。 そして、そのときから 自分で考えて行動する訓練を積んだ。」 私などは、卒業式は、 親のために出たほうがいいと思う人間だ。 けれども、 彼女の文章は、そうした賛否を越えて、 読む人に、視点やチカラを与える「与え文」になっている。 それはなぜか? やはり、「足のある表現」だからだ。 彼女も、実行し、自分の経験から、 「これだけは言える」ということをシンプルに伝えている。 「足がない文章」とはこのばあい、 卒業式に、出る前に、 「卒業式って意味なくない?」 とツイッターでつぶやき、 でも、卒業式にはイヤイヤ出て、 式に出ている最中に、 「卒業式って、マジ、出る意味わかんないんすけど」 などと、ツイッターでつぶやき、 終わったら、 「これって、時間の無駄だったんじゃない?」 などとつぶやく文章だ。 つぶやいている人にとって、 文章はガス抜きになっているけれど。 読む人には、無意識に賛同を求める 「くれ文」になっている。 書いてラクになろうとし、 その実、書いても解放されない。 「文章に依存する」ということを、 はずかしながら、私は、かなり長いこと自覚できずにいた。 しかし、今期、山田ズーニー賞を受賞した二人が、 たまたま父親の虐待を受けており、 (こういう言葉でひとくくりにしたくないほど、 二人はそれぞれかけがえのない個性・主題で 文章を書いているのだが) 甘えたくとも、甘えが許されない、 自分の人生を、自分でなんとかするしかなかった という共通点があり、 小さい頃から、自立という性分が鍛え上げられていた。 その、文章にももたれかからないし、 読者にももたれかからない、 あまりにも自立した文章に触れたとき、 私は、自分のなかに潜む「依存」を省みざるを得なかった。 フリーランスになって12年もたつのに、 いまだに自分のなかに潜み、 ときおり顔を出す「甘ったれ」の性分、 これを越えないと、 本当におもしろいものは書けんぞ! と、私は、私に喝を入れている。 最後にこの読者のメールを紹介して きょうは終わりたい。 <足のある表現を読んで> 僕は、今年人生の折り返し地点を迎えた という意識がとても強くなり、 余計なことはやめて、 例え新しいことをやりたくなっても、 本当にやりたいのか 自分の気持ちが変化しないことを日々問いかけ、 その答えを待つと決めました。 この前の「希望」の話。 本当かどうかわかりませんが、希望という言葉の語源は、 ギリシア神話のパンドラの箱の話らしく、 箱を開け全ての悪が取り除かれた後に、 残ったのが「希望」だそうです。 余計なことをやめる。 というのは、僕にとって正に自分の箱を開けて、 余計なもので箱の下に隠れてしまっている希望を 見つけ出す行為だと思います。 そして、先週の「足のある表現」。 足とは、過去だと思っています。 レンさんについて、 「全て実人生で行動し、 乗り越えてきたことが、 レンさんの文章には書かれている」 とありましたが、 僕は、レンさんが「過去を肯定している」そう感じました。 否定ではなく、過去を肯定する。 そこが立脚点になり、歩き続けている。 以前に、レオナルド・ダ・ビンチが書いた、 手を広げ、足を広げた 円を描いているような人体図を見たとき、 僕は何となく、その足と手と、頭(顔)に、 時間が意図されていると感じました。 (書いた本人の意図にはないでしょうが。) その図を見て、 立つ足は、過去。 手の届くところは現在。 そして見上げる顔は、未来。 そんな感じです。 折り返し地点に立つ現在、 それは正に改めて過去を肯定する。 ほぼ日に少しだけ書かれたレンさんの文章、 とても刺激になりました。 (鈴木) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2012-02-01-WED
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