YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson575  仕事の選択


「仕事」というものは、それ自体、
誤解を恐れずに言うと、拘束であり、
また、社会に貢献して報酬を得るという
とてもシンプルな成り立ちだと思う。

本来、自己実現とは成り立ちが違うというか。

しかし、
「どんな仕事を選ぶか」は、
つまり進路選択は、
その人の尊厳とアイデンティティにかかわる問題だ。

だからこそ、
就職や転職、人事異動など、仕事の岐路で、
悩んだり、つらくなったりしている人に、

「仕事は、君中心にまわってるんじゃない」とか、
「仕事とは、自己実現ではない」とか、

「仕事とは、」を説いても意味がない。

その人は「仕事とは」で苦しんでるんじゃない。
「何を選ぶか?」の選択に苦しんでいるのだ。

「何を選ぶか」は、
決して侵してはならない、その人の尊厳であり、
選んだものがまたその人のアイデンティティを形成する。

たとえば近所の一軒屋に、
お金持ちの、体の弱い、おじいさんがいるとして、
掃除も、料理も、買い物もできないので、

付近の人、10人で分担して「仕事」をするとする。

たとえば、
Aさんは、「皿洗い」をすると言い、
Bさんは、「庭の草むしり」をすると言う。
Cさんは、「老朽化した家の修復」にあたると言い、
Dさんは、「洗濯」をするという。
「掃除」は10人のうちだれも手を挙げない。

それぞれの仕事の難度や時間に応じて、
1回5000円とか、ひと月2万円とか、
報酬が払われる。

「掃除」は、たまたま志望者がいなかったが、
だれかがやらないと立ち行かない。
そこで報酬をつりあげる、
すると志望者が出てくる。

そんなふうにして、
家全体の仕事をヌケモレなく、
10人で分担して、それぞれ持ち場についた。

しばらくすると、
「ラクなわりに、報酬がいい仕事」と、
「とてつもなく大変なわりに、報酬が見合わない仕事」
が出てくる。

また、「自分は音楽が得意だから、
おじいさんに歌を歌って楽しませてあげる」
というような、
「好きで、得意で、表現寄りの仕事」と、

「自分の家の庭の手入れさえやったこともないのに、
 広大な豪邸の庭の草を一人でぬかなければならない」
というような、
「やったことがないし、だからノウハウもなく、
 ニガテな仕事」
に就いた人の明暗も出てくる。

でも、どれを選んだとしても、「仕事」は仕事。
本来、そんなに楽しいものじゃない。

デートをするとか、
好きなミュージシャンのコンサートに行く
などのような楽しみや趣味とは、
全くなりたちが違う。

「皿洗い」にしても、「洗濯」にしても、
だれかがやらなければならないからやるだけで、

歌を歌うような仕事でさえ、
あくまでも、
「おじいさんという他者を喜ばせること、
 お金がもらえるレベルまで達すること」
というゴールに差はない。

しばらくすると、
歌の仕事に就いた人は、
「私の好きで得意なポップは、
おじいさんが全然受け付けてくれない。
私がどうしても受け付けない演歌を歌えと言われた」
と葛藤する。

演歌を歌わないとお金がもらえないので、
唄いだしたものも、だんだんイヤになってきて、
こういう。

「なまじ、歌が好きなだけに、
 嫌いなものを唄うのは、ものすごく苦痛だ。
 自分が好きなものを仕事にすることにこだわったゆえに、
 好きなことができないことに苦しむことになった」と。

経験なく、草むしりに就いた人は、

広大で、抜いても抜いてもすぐ草がはえてくる庭に
最初は絶望した。

しかし、経験もノウハウもなく、ニガテだったからこそ、
もっと草むしりをラクにする方法はないかと、
自分なりに道具を編み出したり、草取りの順番を工夫した。
すると、あるときから、おもしろいように、
すいすいと短時間で、草取りができるようになる。

すると、だんだん、庭仕事が面白くなって、
ガーデニングを勉強したり、
庭師の話を聞きにいったり、
しだいに、美しい庭づくりにベクトルがむかい、

いつしか庭仕事が「生きがい」になってくる。

それまでの仕事のノウハウを結集した
『ニガテで、ずぼらな人のための、庭の手入れ術』
を本にして出版したところ、大ヒットで、
ひろく社会的信頼も、印税も、ついてきた。

また、10人には、10様の悩みが出てくる。

「わりがいい、わりにあわない」をモノサシにして、
「もっとラクに、たくさんお金を稼ぐ道はないものか」
と悩む人もいる。

またある人は、報酬とか、苦労とかは気にならず、
ただ、「これが自分のやりたいことか?」と悩んでいる。

また、「庭仕事の人は、やりがいがあって楽しそう。
うらやましい。私も庭の仕事に転職したい」
という人も出てくる。

‥‥以上の話で私が言いたいのは、

「仕事」とはシンプルなものだ。
でも「選択」には個々人の尊厳がかけがえなくつまっている
ということだ。

仕事は、「皿洗い」を選ぶにしろ、
「掃除」を選ぶにしろ、
それ自体、そんなに面白い・楽しいものではない。
だれかがやらなきゃならないからするだけで。

お金がもらえるレベルで他者に役立って報酬を得る。
この点でいっさいの貴賎はない。

しかし、Aさんはなぜ「皿洗い」を選んだのか?
Bさんは、なぜ、「皿洗い」では絶対ダメで、
「庭の草むしり」を選んだのか?

Bさんが、自分の仕事「草むしり」について、
経験もノウハウもなく苦手だとわかったとき、
何を考えて、どう次の道を選んだのか?

それぞれの人が、何をモノサシに、
何を考え、次の道をどう選ぶか?

という「選択」には、
それぞれのかけがえのない尊厳がある。

Aさんは、実は、「皿洗い」を全仕事のなかで
いちばん大変だと感じる人間だったが、
「迷ったときは人の嫌がる仕事を率先してやりなさい」と
父に育てられ、それをずっと実践してきた人だった。

Bさんは、幼い頃、
短い間イギリスに住んでいたことがあって、
記憶の中に、ガーデニングをほどこした
美しい庭の記憶があったから、
無意識に、「庭」に関係ある仕事を選んでいた。

たとえばそんなふうに、

その人が過去にどんな経験をしてきて、
どんな記憶を持っているか?

それまでの人生で、何に魅力を感じ、
どう考えて、何を選んできたか?

大小、さまざまな選択の積み重ねが、
その人というかけがえのない人格を構成し、
そこから、ほかの人にはない、その人にしか
できないありようで「選択」がなされている。

だから「選択」は尊い。

就職のときに、どんな職業を選ぶか、はもちろんのこと、
仕事で悩んだときに、なにを考え、どう選ぶかは、

本人以外に決められないし、決めてはならない。

親でも、どんな成功者でも、
選択の代行や誘導、ましてや押し付けがあってはならない。

「仕事とはなにか」を知るには、
OB訪問をしたり、見学したり、社会に出てみるなど、
外に情報を求めることが必要だ。

だが、「選択」は、自分の過去にしかないのではないか。

自分がいま、何にひっかかり、こだわり、
何を大事にしたいのかは、
自分の過去の経験と記憶、
小さな選択の集積に問うてみるしかない。

「選択」は自分で行うものだが、
やりようによっては、著しく、自分で自分の尊厳を傷つけ、
自分を激しく損なうことにもなりかねない。

だからこそ、仕事上の選択に、
人が悩み、苦しむのは当然だ。

それは、あなたの尊厳とアイデンティティの問題である。

わたし自身、たったひとりで社会とつながって
いま仕事ができている理由をひとつだけあげるとしたら、
12年前のちょうどいまごろ、

自分の尊厳にそむかない選択をしたからだ。

会社を辞めるか辞めないかの葛藤の中、
無意識に守ったものは、
いままで生きて働いてきた自分の「尊厳」だった。

あなたの尊厳が守られ、生かされる選択をと
私は願う!

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2012-02-15-WED
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