YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson577  仕事の選択 3


進路選択でいちばん大切なのは、
「自分で決める!」ことだ。

私自身の反省も含めて、
実は決めずに進んでいることも多いのだ。
ただ時間切れで、背中を押し出されるように、
なんとなくそっちへ流れていっているだけで。

同じ流されるにしても、
「ここは流れにのっかろう」
という自分の決めが要る。

シリーズ「仕事の選択」に続々と寄せられている
おたよりのなかから、
まず、この読者のメールを読んでほしい。

いい!おたよりだなあ。


<仕事の選択 1、2を読んで>

私はここ数か月、
仕事を辞めたい、辞めたいと悩んで、
結論から言えば、“逃げの姿勢”からの辞めたい、
違う世界で仕事をしたいという気持ちだった
と気づきました。

この“逃げ”の核心、それは、

10年も関わってきた
会計事務所という世界で生きていく覚悟が、
10年を経てもできていなかった
ということでした。

強い希望を持って就職したのでもなく、
とにかく継続して働くことが大切と思ってやってきたので、
私が心から望むのはこの業界なのか?
というのが常にありました。

若い頃はいつでも方向転換は可能と思っていたので
ここまで追い詰められることもなかったのですが、
30歳になり女性の転職が難しくなっていく年齢に
なってきて

本当にこのままで良いのか?
もっと新しい世界があるのでは?

と焦りが出てきました。
でも転職のチャンスが減っていくというだけの理由で
私は人生最高潮の辞めたい気分なのだろうか?
原因はもっと別なのでは‥‥
本当の本当のところはどんなふうに
自分は考えているのだろうか?
と思うようになりました。

本当は転職のチャンスがどうとか、
そういうのとは全く別の気持ちでした。

会計事務所で働くなら有資格者(税理士や会計士)が
一番良い訳ですが、それに挑戦する勇気が、
ずっと出ませんでした。
なんやかんやと理由をつけては
実行せずに数年が経過していました。

挑戦をしたくないのではなく、
この業界で働いている生活が自分の存在理由のほとんど
なので、挑戦して失敗した時に、
自分が10年も費やしてきた業界から
拒絶され挫折するのに恐怖を感じて
挑戦できなかったと分かりました。

その恐怖から、違う業界に逃げようとしていたのです。

怖さを除外して、
ちゃんと自分の気持ちと向き合わないといけない
と真剣に考えました。

そして、資格取得にやっぱり挑戦しようと思います。

ダメならダメでその時に、
同じ業界に留まるのか、違う業界に行くのか、
気持ちがどう動くかで決めることにしようと思います。

現状でのベストは10年関わってきたこの業界で、
有資格者だからこそ見える別の視点で
もっともっと物事をみて感じて
仕事を深めていきたいということです。
(abc)



ものすごく共感しながら読んだ。

「なんとなく恐い」という気持ちで、
「決める」ことから逃げ、
目をそらすために、ほかのほうを見ているうちに、

本来の「試験を受けたい!」という
まっすぐな希求ではなく、

仕事を辞めたいなどの、
ゆがんだ別の形となってつきあげてくる不満に
苦しめられる、という経験が私にもあり、
リアルに共感した。

「私たちの多くは、実は、なにも決めずに進んでいる。」

などと言いきると、
猛反論を受けるだろうか。

「そんなことはない、高校、大学の進路だって
 自分で決めた」
「私は親の言いなりなんかになっていない。
 親は放任なので、進路は自分で決めた」
「いまの仕事だって、だれに強制されたのでもなく、
 ましてや占いでもなく、自分で決めた」と。

私も、親が自由にさせてくれるほうなので、
自分の進路は自分で決めてきた、
と信じて疑わなかった。

けれども、実は、ほとんど「決める」ということをせず、
自分は歩いてこれていたんだと知らされたのは、
34歳、東京で、編集長として、
本格的にチームによるものづくりをはじめたときだった。

あのころを思うと、きまって、
この光景が浮かぶ。

敏腕のアートディレクターと、
ベテランのフリーの編集者と、
社外プロダクションなどの数々の精鋭のスタッフたちが、
私を取り囲んで、こう、つめよっている。

「決め! 決め!」

要するに、
あとは編集長であるあなたが決めるだけだ、
はやく決めろ、と
私がつめよられている光景で、
いま思い出しても、じとーっと、イヤな汗が出てくる。

「リーダーとは、決めるとこ決めて、
 謝るとこ、謝る、それが仕事」
と言った人がいたけれど、
ほんとうにそうだと思い知らされた。

そして「決める」ことがこれほど苦しいことなのかと、
思い知ったのもそのときだった。

対立するプロとプロの意見、
正解なんかどこにもない、
何時間も話し合っても結論なんかでず、
編集長である私以外に、決める人間など
どこにもいない。

私がいちばんペーペーであるにもかかわらず、
私が最終的に重要なことはすべて決めなければならない。

決断によって、いちいち、
人・モノ・金が大きく動く。

素晴らしい誌面になるか、場合によっては
全然ダメなものになるか、
いやそもそも、誌面が成立しなくなるか、
自分の「決め」が大きく左右する。

スタッフがモチベーションをあげるか、さげるか、
過労になるか、場合によっては辞めてしまうかも、
私の決断が大きく左右する。

月単位・コーナー単位で、厳しく成果が調査され、
結果も、責任も、全部また、
「決めた」自分にのしかかってくる。

「決めるとは、こんなにも孤独で、不安で、
 祈るような気持ちで、重圧で、つらいものなのか、
 考えたら、こんな決めをほとんどせずに
 自分は仕事をしてきていたな。」

と気づかされた。
高校大学の進路にしても、
就職にしても、仕事上の大小さまざまな選択にしても、

そのときどきで、王道というか、
大勢の向かう道というか、ガイドラインのようなものが
なんとなく存在して、

あるいは、決めろと詰め寄られていた編集長の私のように、
孤独なリーダーがどこかで決めてくれた決断にのっかって、
不満を抱いたり、文句を言いながら、
結局は、自分はラクをしてついてきていただけで、

決めることを無自覚に回避できているうちに、
やがて時間切れとなり、背中を押し出されるようにして、
大勢の向かう道に流されていっていたのだと。

決めることをこんなにもしないでいても、
仕事はまわっていくし、
人生は過ぎていくものだな、恐いな、と思った。

決める苦労を回避できていたうちに、
決める筋肉が弱ってしまったツケは、

流されていくままに、進む道が、
自分の心と、最初は1ミリ、やがて2ミリ、
やがてどんどんひらいてしまって、
どうしようもなくなったときにくる。

本当は、仕事を進めていくのも、人生を歩むのも、
「決め」の連続だ。

「きょう、部長から指示が出た。
 私は、この指示はちがうとおもうし、やりたくないが、
 でも言い返す度胸もないので、
 最終的には、私の臆病さからくる、私の判断で、
 ここは、部長の指示に従うという道を、
 私が選択しよう」

「私は、来年度も、まったくかわらず、
 いまの職場のままだ。
 だれも、ほかの会社に移りたいかとか、
 ほかの仕事に変わりたいかとか、
 ほんとうにいまの仕事のままでいいのかとか、
 いまの給料や条件のままでいいのかとか、
 ほんとうに後悔しないかとか、
 聞いてくれはしない。
 だから、私は、そうした可能性をすべてひととおり、
 自分で考えてみて、充分悩んで、その結果、
 来年度も、この職場で続投する道を自分で決めた」

と、本来なら、節目節目でそのように
「決める」行為をして進んでいくのがベストだが、
私たちは、それがなかなかできないでいる。

日々、小さな、「決め」を自覚的に行っていくことが、
人生ここいちばんの大きな「決め」を、
納得いくものにするんじゃないかと私は思う。

最後に、たくさんいただいたメールから、
読者の選択に関わるものを5通紹介して
きょうは、おわりたい。


<好きなことを他者に向けてできるかどうか>

私は、建築系のデザイン・ディレクタを長年していました。
建物内部意匠のデザイン編集者というような仕事です。

好きなことを仕事にすることで、
自己表現と他者の評価の狭間で悩むということは
作家性のある職業では、誰にでも起こることだと思います。
この問題を、自分の中でどう整合させるかが
課題になっていますが、
私の場合、

「他者のために、
 最適なクオリティを提供することができるか」

を自分に問うことにしています。
このことは、そのワークそのものが好きでないと
できないことだと思っています。
だから、好きなことを仕事にする、ということは
正しい選択であると思います。

おそらくここで問題になるのは、
仕事をするときの意志が、
自分に向いているか、他者に向いているか、
ではないでしょうか。

察するに、
編集者という職業は、
読者の立場に立って雑誌を創るだけでなく
それを創る立場にも立って
最適なクオリティを引き出す
仕事ではないですか。

劇作家は、
演じる役者と
芝居を観る観客の
両方の立場に立って
物語を描く仕事。

工程が複雑だからというより
複数の他者の立場に立って
手間をかけた作業ができるか、できないか、
ではないかと思います。

ズーニーさんが例示されている
Aさん、Bさん、Cさん、Dさんたちは
全て他者に向いて仕事をしている
人たちではないでしょうか。

好きなことを
自分ではなく、他者に向けてできるかどうか。
これが、仕事と好きなことを両立するコツではないかと
思っています。
(GENTO MD.)


<自立に至る道>

グラフィックデザイナーの竜です。
我々の仕事でも、仕事の選択は大きな課題です。
デザインの仕事には下の4つの分類があると思います。

1「面白くて、お金になる仕事」
2「面白いが、お金にならない仕事」
3「面白くないが、お金になる仕事」
4「面白くもなく、お金にもならない仕事」

デザインの仕事は、表現を売る商売なので、
ある程度面白さを内包しています。
「面白いか否か」は、仕事のデザイン的自由度や
クライアントの理解度、デザイン対象となる商品の魅力度
などによって決まります。
後に残る仕事ほど、面白い仕事と言えます。

デザイナーとしてはできることなら、
1のような面白くてお金になる仕事を
したいと願っています。

ただやはりそこは仕事なので、
面白い仕事ばかりがあふれている訳ではありません。
とくに10人以上の社員を抱えるデザイン事務所の場合は
仕事を選り好みしている余裕などなく、
来た仕事は、基本的にはすべて受けます。

そうなると振り返って365日の8割は、
3「面白くないが、お金になる仕事」か
4「面白くもなく、お金にもならない仕事」に
振り回されている現実があります。

先日、地元で有名な
フリーカメラマンの事務所へお邪魔した際に
こんなことを言われました。

「わしは、やりたいようにやれる仕事しかやらん。
 ただそれが出来るのは、個人でやっているからで、
 あんたのとこみたいに何人もスタッフ抱えてたら
 そりゃできんわ」

やりたい仕事しか受けない。
そんなシンプルな選択もフリーならあり得るんだ、と
ずっとサラリーマンデザイナーとして
仕事をしていた自分としては、
軽いカルチャーショックでした。

ただそれをやろうと思えば
一匹狼のように生きるしかない。
でもなかなか簡単な選択ではありません。

群れるメリット、群れないメリット。

群れていれば楽ですし、安全。
仕事はある程度、流してなんぼ。
会社に守られて温々と仕事ができます。

でもそんな環境では
魂の震えるような仕事はできないだろう。
すべての責任が己の肩にのしかかってくる
孤独と重圧に押しつぶされるような環境でこそ、
しっかりと地に足をつけたような
デザインができるんじゃないか‥‥。

それが究極的に「自立」した状態なのではないかと
思ってみたりしています。

学生の頃は社会人になり、給料を稼ぎさえすれば
自立した大人になれると思っていましたが、
まったくの誤解でした。

真の自立に至る道程は、なんて険しいんでしょうか。
(竜)


<私の選択>

まさに今、岐路に立っています。

簡単に経歴を言うと、
20歳で音響会社の社員、
30歳でフリーランスのミキシングエンジニア、
36歳で会社経営、
そして52歳の今、
会社員として組織に入ろうとしています。

飲食店などでアルバイトをしていた頃から
ひとつ決めていたことがあります。
それは「惜しまれて辞める」ということでした。
つまり誰でもいいのではなく、
僕が必要とされるまではやりきることでした。

そしてフリーランスとして活動を始めてからは、
誰でも出来る仕事ではなく、
僕個人が頼まれて呼ばれる仕事だけで
20年以上なんとかやってきました。

いい結果がいい営業と、
そこに特化して、多くのお金を機材につぎ込み、
「これこそ天職!」と思っていたのです。

フリーランスの方はわかると思いますが、
その「天職」にすがって生きているため、
評価が悪かったり、仕事がなくなったりすると、
絶望するのです。

まさにアイデンティティクライシスですよね。

50歳を前に人生が一変して、再婚、
二児を出産というイベントがあり、
現在は生活安定をベースに考え方を変えて、
自分で無くても出来るホールの音響管理の仕事に
就こうとしています。
「小屋付き」という卑下したような表現もされ、
自分も無意識のうちに
「自分は違う」と思っていた領域です。
自分の「尊厳」は失われたのか?
ということを自問自答していました。

ところが、自分よりも
その「尊厳」を大切にしてくれる環境が
会社組織にありました。
30年続けてきたミキシングの技術を発揮してほしい
ということで迎え入れられました。
僕は救われた思いです。
しかもとてもやりがいのある仕事だということもわかり、
卑下した考えは間違っていたことに気づきます。
みんなフリーになればいいのに!
と声高に言ってきた自分が
小屋付きの会社員になることを恥ずかしいとか、
「落ちた」と思うのは人の勝手で、
苦手な経理、経営から解放されて、
しかも大好きな機材の前にいられることは、
不安が解消され、心の平安につながっています。

尊厳はプライドと同じように扱われがちですが、
プライドは他者が介在する感情のように思います。

ずっとそこに左右されていたように今は思います。
「自分が」というエゴが抜けて、
家族のため、社会のためという意識が
長年のフリーの生活の後に芽生えてきました。
子育ても独立も順序が逆な気がしますが、
だからこそ手に入れた心の平安だと思えています。
(ヤマデラ)


<自分の選択ができる条件>

僕は2回転職しています。

1回目の転職の時のこと。
百貨店を回る衣料品のルート営業をやっていました。
入社して間もなくから、会社で理不尽と思うことが続き、
辞めたいと思う気持ちを何度も繰り返すようになりました。
ついに、我慢の我慢の限界がきて、
「もうこの会社にいてもしょうがない」という
ある朝の決心で、辞めるという「選択」をしました。

この時の辞めるという「選択」には、
前に進むという意志が欠けていることに、
後々気付きました。

辞めるという「選択」は、
辞めることを「選択」できる完全な自由の中で
できたものでした。

でも、それは、本当の「選択」ではなく、
過去も現在も未来もないままの「選択」でした。

自由な「選択」をしたにもかかわらず、
その後の転職活動において、
僕は前に進むという「選択」のために、
見つめ切れていなかった過去を、
もう一度深く見つめることを強いられました。

そして、2回目の転職のこと。
僕はIT企業で営業をしていました。

自分の勤めていた会社の理念も、
一緒に仕事をしている仲間も、とても気に入っていました。

でも、ある日突然、
会社の事業再編とともに
自分の居場所がなくなることを告げられました。
自分が仕事を「選択」する幅が急に狭くなり、
「選択」するための時間の制約も受けることになりました。

僕はこの時のことを忘れません。

それは酷い仕打ちにあったという感情ではなく、
次への「選択」までの限られた時間の中に、
自分の想い、人の言葉、その時の周囲の光景などなど、
あらゆるものが凝縮した記憶の固まりとして
残っているからです。

この制約の中で、僕は次の仕事を「選択」しました。

それが今の仕事です。
僕は1回目の転職の時とは違い、「選択」をしたと思っています。
その後これで良かったのかと思うこともあります。
でも、間違いなく「選択」をしたと思うのです。

なぜでしょうか?

「仕事の選択」を読みながら、
自由な中で何かを「選択」することは実は大変難しく、
ある制約条件の中にあってこそ、
自分の「選択」が出来るのではないかと、改めて思ったわけです。
(鈴木)


<不思議なほど、怖くない>

以前、コラムで紹介してもらった「れん」です。
私はこの春、
6年がんばってきた
老人ホームのホーム長の仕事を辞めます。

理由はズーニーさんに誉めてもらい、
作家を目指そうと思ったわけではなく
それが本当に私のやりたい仕事なのか、
私でないといけない仕事なのかと震災の後、
ずーっと問い続けてきて、やっと結論が出たからです。

会社が求める数字ばかりの管理職像と、
私がなりたいものとは、どんどんずれてきて
このままではだめだと悩み続けていた所に、
あの震災がきて
自分しか出来ないこと、自分のやりたいことを
見つめなおしました。

ズーニーさんの言葉を借り
「このままでは正に尊厳を守れない」。
そんな思いが渦巻いて
そろそろ辞めようと思ったのがこの夏で
そしてこの秋、自分のその気持ちに
覚悟が決まった感じです。
そして私も他の方と同じでわかっています。
決して甘くないかも知れないこと。
いいことばかりあるとは限らないこと。
それでも自分で選んで一歩を踏み出そうと決めたことも。

ところが不思議なほど、怖くないのです。

お給料も肩書も優しい素直な仲間も失うものも多いのに
手に入れるものも多い気がして、
何だか楽しみでもあるのです。
先の予定なんて何も立ってないのに
今までなら次のことを決めてからの転職だったのに
本当に何も決めていないのに。
肝が据わるというのはこういう事をいうんでしょうね。
そんな覚悟のような決意で今、私はいっぱいです。

何かを決断する時って誰もが同じなんですね。
「自分の責任は自分でとる」
「自分が選んだこと」
そんな気持ちでいる人が
このコラムに登場する読者に何人もいることが
とても心強くて嬉しいです。

近頃のにわか「絆」ブームも
ちょっとどうかと思っていたので
個人一人一人がきちんと自立して初めて
繋がりや絆が強化されると思うので
決してよっかかったり、
お互いに傷を舐めあったりするのではないと
しっかり確信出来ました。

今年は思いつくことを全部やってがんばってみます。
(れん)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-02-29-WED
YAMADA
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