YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson578  仕事の選択 4


いま、仕事の選択を迫られ、
ズタボロに傷ついて、
「どうして自分だけが!」
「八方ふさがりだ!」
と憤り、迷い、乱れ、
窮地に立っている人がいたら、

「大丈夫! あなたはいま、チャンスにいる!」

と伝えたい。
決して安易な楽観主義や、
ポジティブシンキングで言ってるんじゃない。

「尊厳ある選択」とか、
「自分らしい選択」とか言うと、

多くの人は、「強い人がするもの」と
思っているふしがある。

でも、尊厳ある選択とは、
強い意志があるからできるんじゃない。
選択肢が豊富だからできるんじゃない。
私はむしろ逆のことを考えている。

人生最大の仕事の選択をしたとき、

私はライオンでなく、

怯えて吠える子犬ようだった、
というよりもっと、追いつめられたネズミ、
いやそれとおりこして、

殻からほじくり出されたカタツムリのよう、であった。

限られた選択肢、
それも避けたいほうから数えて1位と2位だけの、
崖っぷちの選択だった。

尊厳ある選択とは、「逆境」でこそできる!
そして、弱いからこそできるのだと私は思う。

これは私の人生においてだけど、

限界突破とか、劇的な変化とか、
そういう選択ができたとき、
常にズタボロのピンチにいた。
順境では、これといって大したものなど選べていない。

「順境では何も選べないんじゃないか?」

とさえ、ふと思うこのごろなのだ。
まずは、読者のこのおたよりを
読んでほしい。


<『仕事の選択3』を読んで>

「私たちの多くは、実は、なにも決めずに進んでいる。」
に共感しました。選択は、
平和なときはしなくても進んでいけますよね。

建築設計事務所に勤務していましたが、
この3月に会社の事業縮小のため
解雇されることになりました。

育児休業中のことで、まさに青天の霹靂でした。
会社の方でも次の就職先を探してもらいましたが、
見付からず、恩師に心当たりを尋ねたところ、
4月から仕事をくれる先が見付かりました。

ひとりで設計事務所を構えていらっしゃる方で、
とても忙しいので、外注先を増やしたいと
思っていらしたとのこと。
勤務していた会社では正社員で社会保険付きだったので、
フリーランスに近い状態になることは
不安で仕方ないのですが、
でも今までできなかった木造の仕事ができます。

わたしは木造が好きなのですが、
建築の世界では鉄筋コンクリート造や鉄骨造が花形で、
建築を仕事にしていきたいなら木造の設計だけでは難しい
と信じていました。だから今まで転職するときには、
木造に限定せず探していました。

赤ん坊を抱えて就職活動することになって、
社会保険や収入の安定には"こだわれない"ことになったら、

木造の設計だけをする道も、選択肢に現れてきて、

藁をも掴む気持ちで、
でも自分で選択したのだと思います。

赤ん坊に何かあったらすぐに保育園にかけつける自由と、
木造とを。

週に何日何時間仕事を請けるのか、
雇用保険には入ってもらえるか等の交渉はこれからです。
年金や健康保険は夫のものに入るのか、
国民年金や国民健康保険に入るのか、
今までは会社で決めてもらっていたことを
全部自分で決める。
緊張します。でも、きっとやりきります。
そして思うことは、

選択肢はいつも天から降ってくる

ということです。
ぎりぎりの逆境のときには、
それが自分にしか選べない形で。

だからそのときに選んだものは、
自分の芯の、譲れないものなのでしょう。
(ちえ)



人は追いつめられたときほど、
深く自分と通じることができる。

たとえば財布にごっそりと300万円あるとき、
尊厳ある選択とか、
自分らしい選択とか言われても
なかなか難しい。

お金がどんどん、どんどん、底をつき、
たった300円しかない、
もうこれが自分の最後の金となったら、

ぜんぶ食費に使う人、
それでも、ほんの一部でも寄付をしようとする人、
電車でいけるところまで行こうとする人、など、

ぎりぎりのところで、
その人が人生で何を大事にしてきたか、
最後になにを望むか、

その人間があぶりだされる。

「選択肢は降って来る。
 ぎりぎりの逆境のときには、自分にしか選べない形で」

という、ちえさんの言葉に深く感じ入る。

強い人間は、
たとえば、金力や権力、能力のある人間は、
ぎりぎりの選択に追い込もうとしても、
金力や権力を行使してかわす道もあるし、
かりに選択に失敗し、放り出されても、
能力があるからどこでもやっていけると思うだろう。

逆境が、逆境にならないというか。

金力や権力というヨロイが守ってくれない、
むき身の弱弱しい人間であるからこそ、
「もしも、会社から放り出されたら
 路頭に迷うかもしれない」
「ここでの選択をまちがうと命取りになりかねない」
と危機感が持て、追い込まれて、
深く、鋭く自分に問う作業をやりぬけるのだと思う。

意志が強いとか、意志が弱いとか、
他人はあれこれいうけれど、

それは後づけで、

私の場合も、会社を辞めるか、残るか、
選択するときは、意志が強いの弱いの
言っている余裕もないほど、

迷って、乱れて、醜くなって、

先輩の家にころがりこんで、
うだうだと決められず、オロオロとうろたえ、
不安になって、揺れて、泣いて、

そのたび、自分の心の底の底があぶりだされ、

最終的には、へとへとになって、
これしかないという選択肢をひとつ握ってしまっていた。

自分と通じてもまだ、弱いので、勇気が出ず、すくんで、
それでもいったん自分と通じてしまった以上、もう、
あともどりもできなくて、

そのようにして、限られた2つの苦しい選択肢から、
最終的に選んだものが、
私の場合は、「会社を辞める」だった。

それが世の大勢とちがっているので、
他人はそれを見て、「ズーニーさんは強い」とか、
「意志が強い」とか、あとから言うだけで、

実際は、弱く、醜く、だからこそ、
命がけの危機感でもって、
自分の本心をあぶりだせたのだと思う。

強い意志があるから、人は選べるんじゃない。
考えることで自分と通じ、選んだものが意志になる。

意志が人を強くする。

深く自分と通じた選択というものは、
たとえその先がうまくいかずとも、
ちょっとや、そっとでは崩れはしない。

そして、ひとたび自分と通じた者にとって、
自分に要るもの要らないものは明白で、
それまで平和なために、
見過ごし、通り過ぎていたことを、
見逃さなくなる。

それは、まさに選択肢が降ってくるかのよう、

逃さずキャッチできるのだと
私は思う。

人事異動や、進退、解雇など、
仕事の選択は、とかく傷つく。

尊厳が傷ついているのだ。無理もない。

でもいま、傷つき人生一番の崖っぷちに
立たされているなら、
まちがいなく、あなたは、
人生ここ一番の自分と深く通じるチャンスにいる!

さいごに、「自分と通じる選択」をした、
3人の読者のメールを紹介して
きょうは終わりたい。


<食えるかどうかより大切なこと>

フリーランスで文章を書く仕事をしています。
どうすれば読んでもらえる価値のある記事を提供できるか。
心と言葉が通じる人と出会えるか。
そのことばかり考えてきました。

収支が赤字になったのは2年前。

昨年はじめてアルバイトをし、気づきました。
こんなにも書くのが好きだった、ということです。

書くことそのものが喜びで、
結果としてお金をもらっていたのだな、と。

あれだけこだわっていた
「原稿料だけで生計を立てる」目標も、
手離してしまえば大したことではなかった。
働くことも喜びだったから。

今思うのは、何かを与えられる人になりたい
ということです。

選択のときに何かの影響を受けたとしても、
決めたのはやっぱり自分。
結果を誰かのせいにしないで済めば、
少し自由になれる気もする。
悩みも迷いも行き詰まりも、なくならないんだろうけれど、
これからも。
(みゆき)


<仕事の質を分けるもの>

デザイン関係のyouです。
わたしはいわゆる「やりたいことを仕事にする」選択を
した人間だと思います。

美大に通ったわけでもなく、絵が得意な訳でもないのに、
グラフィックデザインという仕事に憧れ、
それを諦められず、勉強し、
そして現在はデザイン事務所で
グラフィックデザイナーとして働いています。
そういう選択をした自分について
少しばかりの自負心もあります。
そしてこの仕事に就くまでは、
この仕事はなんて素敵なんだ
(実際に素敵な仕事なのですが)、
と半ば妄信していたところもありました。

本当にやりたいことを仕事にした方なら
共通して経験する思いなのでしょうか。

考えてみれば当たり前の話なのですが、
その職業に就く全ての人が
熱い思いを持ってその職業を選択した訳ではありません。

美術系の学校を出た人ならデザイン関連の職業に就くのは、
自然な流れですし、
本当は画家として生きていきたかったけれども
食べていかなければならないので
デザインの道に進むしかなかったという人も
もちろんいます。

私のような「この仕事で!」と意気込んで仕事に
就く人間は、むしろ少ない方なのかもしれません。
そういうギャップはどこにでもあることだと思います。

ここで重要なのは
「やりたいことを仕事に!」という強い思いが、
その仕事において真っすぐに高いクオリティに
結びつくわけではないということです。

ある程度高いクオリティに行き着くには、
経験というものももちろん必要ですが、
妄信的に好きという思いは時に命取りです。
そしてそのような愛情をあまり持ち合わせていない人が、
より客観的な視点を取り入れた
クオリティの高い仕事をする場合があるのも事実です。

「やりたいことを仕事に」という言葉は
広告的でかっこ良く、
それがまるで一番理想のように思ってしまいがちです。

しかしそれはあらゆる選択肢の中の一つなだけで、

幼い頃から夢見ていた職業というわけでもなくても、
偶然の流れで就いた職業で、
生きていくことを選択することの方が、
人によっては尊い選択だったりします。

そして仕事の質というのは、
その選択に責任を持ち続けている限り、
上がっていくのかもしれない、と最近感じています。

仕事って本当にシンプルです。
仕事は本当にただただ仕事然としています。
それに取り組む人が、その仕事を選択したことに
責任を持っているかいないかで、
生まれるものは大きく違ってきそうです。

「継続は力なり」私がどうしても
大事にしてしまう言葉ですが、
継続することを選択し、それに責任を持ち続けたからこそ
力になるのだろうなと思いました。

「責任」という言葉は重すぎるでしょうか。

でも今の自分にはこの言葉がしっくりきました。
いつか自分の選択に責任を持つことに
耐えられなくなる日も来るかもしれません。

でも今は、自分の選択に責任を持ち続けている限り、
どんどん面白いことが増えていっている気がします。
(you)


<安楽がこれほど退屈とは>

「チームの責任」と「仕事の選択」
どちらも非常に心に突き刺さりました。

私は、学生の時やりたいことはありませんでしたが、
やりたくないことはたくさんありました。

「責任もなくて気楽そうだし、
 苦手な人づきあいもしなくて良いし、
 アフターファイブが充実しそう」
という理由で今の職場を選びました。

また、その中でも、人間関係が穏やかな職場に入るために、
新人研修のときだけ明るい元気な子を演じるなどして、
計画通りに今の職場に入りました。

仕事をするときも、
なんとなく全体の流れが見えてしまう私は、
キーの仕事を見抜き、
やりたくない仕事をやらないためには、
何をやればいいのかわかると、
それを先回りしてやることで責任を回避しつつ、
積極的な子だという評価を得てきました。

「ミナミ」とは反対の生き方です。

そんな風にしてほとんど自分の思い通りになったのですが、
責任のない安楽な地位が
こんなに退屈なことだとは思ってもみませんでした。

要領よく生きていたはずなのに、
本当にとても傷つきました。

毎日会社に行くのが嫌でたまらず、
でも私はその生き方で結局体を壊してしまったので、
必死に会社にしがみついてきました。

でも本当は体を壊したことを言い訳に、
結論を先延ばししていたのだと気付きました。

いえ、本当は気付いていたのだけど、
嫌でずっと目をそむけていたことでした。

今度手術を受けることになり、
しばらく会社をお休みします。
手術をするのはとても恐いことだけど、
それは自分で決めたことなので後悔はありません。

よくよく考えてみたら今まで自分が決めたことで、
後悔したことは何もなかったと思います。

同じように仕事のことも自分で決めたいと思います。

特に放射線技師さんの仕事は
私がやりたかったことを思いださせてくれました。
勇気をくださったみなみさん、
コラムに投稿してくださったみなさん
ありがとうございました。
(長沢アメ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2012-03-07-WED
YAMADA
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