YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson582  仕事の選択 8


「ありのままって何ですか?」

先週の問いかけに、
ものすごーーい!!! 数のおたよりをありがとう。

「ありのまま」への関心の高さに驚いた!
しかも質がいい!

とても1回では紹介しきれないおたより、
すくなくとも2〜3回に分ける必要があるので、
急遽予定を変えて、今週は、
「ありのままって、あなたにとって何ですか?」
の問いに絞って、おたよりを紹介する。

残るもう1つ問い、
「だれに、よしと言われたら満足か?」や、
「医療・福祉・教育におけるありのままのポジション」、
そして「私自身の見解」は、次週以降にわけて紹介したい。

では、さっそく読者メールを、
あえて今回は私のコメントはつけていない。

一気にお読みいただき、
あなたがいちばん響く「ありのまま」のツボを
探す手立てとしてほしい。


<自分のすべて>

はぁぁぁ、おもしろい。

「ありのままの自分」って、
そもそもちゃんと考えたことなかったかもなぁ。

ありのままの自分を認めてほしい、なんて
無意識下では思ってても、
意識上にはのぼらなかった。

ありのままの自分とは、自分のすべて。

「自分のすべてを認められる」という、
宇宙的肯定はそもそも
現実にありえるのでしょうか?

ありえるとすれば、
生まれた直後の赤ちゃんの一時代ではないか。
その一時代のみに許される、巨大な特権。

保育という時代から、
「自分のすべてを認めてほしい」

という欲求は、無意味ともいえそう。
(あおい28)


<わからない自分>

「ありのまま」、
考えれば考えるほど曖昧で、複雑で、
結論が出ませんでした。

ひょっとしたら、この
「考えれば考えるほど、曖昧で、複雑である」
という状態が、
私にとっての「ありのまま」
という言葉の定義なんじゃないか。

「考えれば考えるほど、曖昧で、複雑である」
という状態を、私達は通常別の言葉で表している。

それは、「わからない」という言葉です。

「『ありのまま』であるところの『自分』」とは、
 即ち「『わからない』という状態であるところの
 『自分』」。
(佳代)


<保留にされた部分>

私にとっての「ありのまま」認めてほしい自分は、
「ナシかもしれない」と思う自分です。

それは、正義、善、陽といった言葉とは対照的な、
陰の部分、弱い、ブラック担当の自分。

かといって、そこをひきはがされると、
偽善な感じがします。

「ありのまま」を認めてほしいと思うとき、それは
正論で押し切られようとしているとき、
あるいは、どうしても陽の方を向けない自分であるとき、
ブラック担当の自分がぐいっとひっぱるのではないか
と思います。

ただ、今捨てるでもなく、受け入れるでもなく、

保留になった「ありのまま」が、
認めてほしくて声をあげているような気がします。

自分でそのブラックを日の下にさらして、
向き合う事ができたら、ありのままの自分は、
まさに自分と「同化」するか、
あるいは「成仏」して消えていくように思います。
(Y.Y)


<ピラミッドの土台>

自分で自分をそのまま認めたいです。
もうじき50才になる身ですが、
それでもときどき「ありのままでいい」と
思えなくなるときがたまにあります。

こどもの頃、
両親が不仲で、
私のちょっとした一言から諍いが始まることも多く、
余計なことは言ってはいけない、
自分はここに居ていいのか、といつも不安でした。

自分なりに努力した結果、
今では、イベントの司会もするし、
コンサートで演奏もするし、
小さな頃の私とは違います。

でも、心が弱ると、小さな頃の私になるんです。

「やっぱり私はだめ」という
恐怖にも似たような不安な気持ちでいっぱいになって、
「ありのままでいい」なんてとても思えない。

自分というものは、
生まれてきたときから今に至るまでの
積み重ねだと思います。

なぜか、ピラミッドの形が思い浮かぶのですが、

「ありのままでいい」という
自分を認める感覚がピラミッドの底辺を形造っていて、
その上に、その後の人生のあれこれ
が積み上がっていくというようなイメージです。

自分をしっかりと支える地盤のようなものが底辺にあれば、
つまり、無意識の領域に
「ありのままでいい」という基盤があると、
その後の人生の出来事でダメージを受けたときに、
その出来事で受けたダメージだけを修復するだけで
済むのでは無いかと想像するのです。

私は、自分を認める感覚を、
あとから補修して支えているのですが、
どうも完全ではないらしく、
何かあると地盤の方も影響を受けてくずれてしまい、
「ああ、また、底辺までくずれた」
と思うことがあります。
(いずみ.A)


<現実の自分に向き合う勇気>

ありのままの自分と
自分が仲良くすることかもしれない。

今までは「胸が痛い‥‥。」というときも、
考えないようにしてもっと頑張らなければと
自分を叱咤激励してきました。
最近はそんなとき

「悲しいんじゃないの?
 あ、そうだね、悲しいんだね。
 でもそんなこと考えてはいけないって
 感情をいつも消してるよね」

と感情さんに話しかけてみます。
そして、悲しむことをオッケーにしたら
世界が、開いて見えてくるのです。

人には、こうありたい、という自分と、
現実の自分というものがあります。

こうありたい自分に、
人は向かっていこうとしていると思います、

でも理想の自分と比べると、
現実の自分なんて、ここがだめ、あそこもだめ‥‥。

ありのままでいい、ということは、
そのありのままの、現実の自分を見つめ、
自分ときちんと向き合う勇気を持つことだと思います。

こうありたい理想の自分と、現実の自分が、
重なっている部分と、遠い部分があります。

理想の自分と現実の自分の距離があまりに遠く、
現実の自分をなし、とまでしてしまうと、
生きるという日々の営みさえ、
とても苦しくなるものだと思います。

理想の自分だけでなく、
現実の自分をしっかりと見つめてください。
(京都市在住 きら星ちゃん)


<いま自分は家にいる>

「ありのまま」って
「今この自分」とか
「今ここに在る自分」という気がします。

「自分で思っている自分」
あるいは「自分で思っていた自分」を
ありのまま、と思ってしまうと
間違ってしまうのではないでしょうか?

過去から未来に続く一本線を引いて、
その途中にいるのが今の自分
と考えるのは違うのではないか。

私達は今いるところから、
自分が行きたいな、と思える未来へ
すっと自分の望むように道を描く力など持っていない。

実際は次の瞬間にどこにいるのか、
どんな環境におかれているのかなんて
誰にもわからないはずです。
瞬間瞬間の点々の上を移動しているだけのように思います。

ひとつひとつの点に置かれている自分、
それがありのままの自分だと私は思っています。

「ここから未来へ続く道のどこかにいるはずの自分」

にとらわれすぎると、
「いるはずの自分」でない今の自分を
「ありのままの自分」というふうに
すりかえてしまうのかもしれません。

予定を立てることで、
未来へ直線を引いているような気になりますが、
実際は自分で引いた直線からあまり外れないように、
ピョンピョンと点から点へと移動している、
というのが私のイメージです。

5分後に家を出るはずが、来客のために遅れてしまう、

そんなことがよくあります。
「家を出ているはずなのに、まだ出ていない自分」
に執着せずに、
「今家にいる自分」と思うこと。

「来客のせいでまだ家を出ていない自分」と思うより、
ただ「今自分は家にいる」と思うことのほうが
自由があります。

私はその時々の点上で、次の点へと向かう行動をしてきた、
その結果今ここにいる。
その行動を決めたのは、誰でもない私です。

他人の介入や予期せぬ出来事、
いいことも悪いことも含めて、
それ自体がありのままだと思います。

「いるはずの自分でない今の自分=ありのままの自分」

を誰かに認めて欲しいと思っている人は
「今ここにいる自分」にまだ出会っていないか、
ありのままの自分を自分で認めていないのだと思います。
(いずみ.H)


<明るいほうへ繋がるなにか>

「ありのまま」ということが、良いことというか、
何かしら明るい方向へ繋がるのは確かだと思います。

自分がこれまで仕事においても、人生においても
尊敬してきた人たちは、みんな「ありのまま」の自分で、
人に、人生に接しており、
それが自然と信頼に繋がっていました。

しかしそのような人たちが
「ありのままの自分を認めてくれ」と
これ見よがしに周囲に訴えていた記憶は一切ありません。

常に現状の自分に満足せず、
目の前にあるほんの小さな山も見逃さずに
越えていこうとしており、
その山を越えていく過程に
その人の「ありのままさ」がありました。

そしてその都度「ありのままさの幅」を
増やしていっていました。

「ありのままでいい」という言葉は、
確かにかけられるとほっとしますし
自分の居場所が認められたような心地よさは
あるかもしれません。

しかしその言葉は
「ありのままの自分を認めてくれ」と強く主張する人たちに
向けられる言葉としては、
特に仕事の面ではやはり適さないと思います。

その人たちの言う「ありのまま自分」は
「もうこれ以上変える必要の無い自分」
「変化への対応に煩わされない自分」なのであって、
「ありのままさ」が増えることはありません。

もし自分が今「ありのままのあなたでよし!」と言われると、
なんだかほっとする反面、
「本当に? 本当にこのままで?」と少し疑わしく思い、
逆に不安を感じます。

それはきっと自分が「ありのままさ」の幅を
まだこれからも広げていくべき段階なのだと思いますし、
人はきっと誰でも「ありのままさ」が
認められるべき時期が、自分から言わなくても
自ずとやってくるのではないかと思うのです。
(デザイン関係 you)


<わたしはこうです>

一人ひとり捉え方が違うであろうことを百も承知で、
私にとっての「ありのまま」を言えば、
これが30余年変わり続けています。

人に対する甘えが大いにあった若い頃、
「ありのままで、いい」というのは、
「努力しようとしない甘えた姿勢」に見えました。

しかし仕事の責任が増えるにつれ、
徐々にそのイメージが変わり、
言葉に出すことも減っていました。
前とは、まったく違う意味にとらえています。

いま「ありのまま」ってどんなだろうと思い、感じるのは、

「自分のなかで方向性を定め、
 すべて結果も引き受けると腹を括り、
 日々生きていく、いまの自分そのもの」

「考え、納得して受け入れた自分の状況」

「問題にぶつかったとき立ち返る位置」のようです。

「平常心」「自然体」にも近いように思います。

他の人と違うかもしれませんが、こうです。
(碧石)


<自分の度量を見極める>

ありのままとは、自分の度量を正確に自分で見極めること。

自分の度量が分からずに
プライドや見栄で飾った自分を見せしまうと、
思わぬバッシングを受けることがある。

自分の度量を知らないという「無自覚」と、
自分自身を知ろうとしない「甘え」が原因なのに、
他者から受けたバッシングをことさら大きく
ネット上などで吐露する(愚痴る)。
なので、「甘え」が寄りかかった『ありのまま』というのは
人によっては、嫌悪を感じるのではないのでしょうか。

自分の度量を見極めようとする力を持っていれば、
他者からの期待やプレッシャーを
自身の糧にできると思います。

私が思う自分の度量というのは、
何ができるのか・できないのか、
何を知っているのか・知らないのかを
自分が分かっていること思います。

そのときの年齢、生活環境、社会状況によって
度量は変わるので、
『自分の度量を正確に自分で見極めること。』は、
一生の課題だと思ってます。

時には心が疲れて、甘えたり愚痴りたいときもありますが、
自分を見極めていれば、
誰に今の自分の心情をわかってもらえるか、
(ネット上ではなく)相手を選んで伝えたり、
自身で処理をできると思います。
(iwata)


<感情に素直である>

子どもでも、大人でも、
喜怒哀楽がはっきりと出ている人は、
ありのままであるように見えます。

反対に、いつもニコニコばかり、
あるいはムッとしているように見える人だと、
本来もっているはずの
豊かな感情を押し殺しているようにも見えます。

自分の感情に素直であること(出せること)が、
ありのままと言う風にとらえています。
(のりたろう)


<正直>

私にとっての「ありのまま」とは
自分の気持ちに正直であること。
(潔子)


<地点>

「ありのまま」というのは、
自分のゴール地点ではなく、スタート地点だと思います。

自分で自分の「ありのまま」を受け入れるということは、
自分のスタートラインに立つということなのでは
ないでしょうか。
(kooomet)


<許す>

産婦人科医(研修中)をしているトミィといいます。
私は、「ありのまま」は現在地だと思います。
だから、それを認めてあげることがスタートだと思います。

「ありのまま」を認めることは、自分が自分であることを、
良いところも悪いところも含めて、許すことだと思います。

そこからどうしたいのかは、
自分の現在地を許してから考えればいいと思います。
この考えは、潔子さんの考えに似ているかもしれません。
(トミィ)


<「ありのまま」とは自分で決めること>

「ありのままでいいけど、
 そのままでいいとは思わない。」

まさにそうだよなあ、と納得しきりでした。

しかし、なぜこの言葉が、
他で使われる「ありのまま」に当てはまりづらいのか。

それは、
「ありのまま」の言葉自体に対する解釈が、
各々異なるから、だと個人的には思う。
(乱暴にいうと、正しく使われていない、
と言っていいかもしれない)

「ありのまま」には、
“状態”と“変化”という2つの意味があり、
本来の「ありのまま」とは、状態を示すだけである。
(厳密な意味ということではなく、
あくまで私はそう思う、ということです)

つまり「ありのまま」は、
“どんな状態のあなたも認める”、ということであり、
変化しなくていい、とはならないのだ。

しかし、
変化まで含んでしまって使われる場合が多く、
しかもそれは、変化しなくて良いという意味が
多分に含まれる。

「ありのまま」が何らの違和感だったり、
何か理想論に聞こえてしまうのは、

「ありのまま」の言葉自体に
“変化しないのを良しとする”
という意味が感じ取れるからだと思います。

「医療・福祉・教育」などの社会は全て、
(自分が相手に対して)何らかの変化を与えること、
で成り立っています。

本質的には“変化”を促す「医療・福祉・教育」において、
“変化”を求めない「ありのまま」を使おうとするから、
使い勝手が悪く感じるのではないでしょうか。

さらに言うのであれば、

そもそも社会は、
状態の「ありのまま」を認めた上で、
存在していることが分かります。
医療も福祉も教育も、普通の人もみんな。

福祉なんてまさにそうですね。

つまり、もう既に社会の在り方そのものが、
前提として「ありのまま」を認めていた、
ということに気づけるかどうか、

誰かに「ありのまま」を認めてもらいたい、
という気持ちが既に勘違いであり、
実はもう認められていた、と感じられるか。

このような視点があってもいいのかな、と
僕は思います。

どんな状態のあなたも、既に認められており、
変化は自分で起こすしかない。

「ありのまま」とは、何か。

他人に認めてもらうものではなく、
自分が自分を認め、自分で決めること。

これに尽きるのではないだろうか。
(テラ)



ここで、もう1度、ズーニーです。
あなたの響くツボはどこだったろうか?

たくさんでできた「ありのまま」について、
次回はまとめることをせず、それよりも先に、
残るもう1つの問い、

「ありのままのあなたでよし! とは、
 あなたは、だれに言われたら満足ですか?」

についての、読者の考察を紹介したい。
それではまた来週、水曜日!

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-04-04-WED
YAMADA
戻る