おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson583 仕事の選択 9 「ありのままのあなたでよし! とは、 あなたは、だれに言われたら満足ですか?」 大反響の「ありのままって何」につづき、 きょうは、上記の問い1つにしぼって、 読者メールを紹介したい。 結果から言うと、「自分」という答えがいちばん多かった。 今回も、あえて私のコメントはそえず、 読者メールだけを、一気に紹介します! 読者のメール、すごい! です。 <だれに言われれば満足か?> 最後に行き着いたのは「自分」でした。 自分が心から納得しているのなら、 「ありのまま」は、 他人が一人として認めないことであっても、 認めてほしいとすら思わないのでは。 (Y.Y) <その先へ自分をつないでいくこと> 私は9歳の時に 一生付き合っていかなければならない疾病に罹患し、 高校生の時に障害者の認定を受けました。 残念ながら、 発症から20数年経った今でもなお、 私は自分の疾患を受け入れることができていない、 ということを認めざるを得ません。 20代の中ごろまでは、 病気のことを言い訳にしたくなくて、 なんとか普通の人と同じ土俵に立ちたくて、 弱音や愚痴は人前では言わないように、してきました。 「全然大丈夫」「平気」「問題ない」。 差し伸べられる手はできる限り笑顔で振り払い、 しんどい顔は見せずに、 それでもどうしても出来ないことや 諦めざるを得ないことは、 「最初から気にしていない」を装ってきました。 普通の子が普通にしていることを、 私がやろうとするだけで、やってくる、 「手伝おうか?」「大丈夫?」 「偉いね、頑張っているね」 は、私にとって、 「あなたは私たちの土俵にはあがれないのよ」 と振り落とされる言葉のように聞こえて、 どうしても素直に受け取れなかった。 普通に高校に行って、大学に行って、 障害者にやさしい県や市の障害福祉課が 斡旋してくれるような職場ではなく、 死にものぐるいで就職活動をして、 そこそこの大手企業に就職して、 フルタイムで普通の社員と同じように働いて、 残業も出張もして、 それでも「普通の健康な人」に敵わない現実を見ながら、 なんとか同じ土俵でいたいと、 カラダにもココロにも無理を強いて、 言わば自分の身体的な欠陥をできる限り 「無かったこと」にしよう、 いかに「なんてことはない」様に過ごすかを 至上命題としてきたのです。 だけどそのやり方は、 20代半ば頃には閾値を超えてしまって、 どうにもこうにも回せなくなった。 カラダの「しんどい」もココロの「しんどい」も、 誰かに救ってほしくて仕方が無くなった。 でも誰かに助けを求めるやり方は、 9歳の時に封印してしまったから、 どうやっていいか分からなかった。 しかも往生際の悪いことに、 「分かるよ」と言われても 「随分頑張ってきたね」と言われても、 どこかで「分かられてたまるか」と思っている自分もいた。 「分かって」と「分かってたまるか」の狭間で 勝手にこんがらがっていた。 五体満足ではない分、 ココロだけは人一倍強いという自負があった私のココロが、 あっという間に愚図愚図に崩れました。 底辺の底辺をのろのろと這うような20代後半を 過ごしながら、 少しずつ、いかに自分が 自分自身のカラダを拒否し続けながら生きてきたか、 そのことがどれほどの歪を生んできたのか、 ということに目を向けることができるようになりました。 それはずっと誰にも言わずにきた 自分自身のカラダに対する憎しみに近いほどの感情を、 ずっと笑い飛ばしてきた沢山の悔しさや哀しさを、 どろどろとした自分のもっとも醜い内面を、 自分以外の誰かに手のひらに、 ぽとりぽとりと落とすことができるように なってからでした。 その汚いどろりとしたものを、 受けて止めくれる人が本当はちゃんといたんだ、 ということに気づいてからでした。 ずっと聞こえないふりをしてきた、ココロの声に やっと自分で耳を傾けてあげることが できるようになりました。 この面倒くさいカラダを抱えて生きていく ということへの哀しさや、 自分の意思のコントロール下にない身体機能への憤りや、 諦めなければならない沢山のことへの悔しさを、 そういう想いを持っているという弱っかしな自分を、 「病気に負けずに普通の人と同じように生きているよ!」 なんて薄ら綺麗な自分でマスクせずに、 受け止めることができるようになってきました。 ここで問題発生です。 20数年も付き合ってきながら、 未だに自分の病気を受け入れられないという、 弱い自分を受け入れることはできました。 でも、やっぱり 病気のカラダを受け入れることができないのです。 うっかりすれば、 「あぁ私も○○ができるカラダだったらなぁ」 「せめてこれができたらなぁ」 「健康だったらなぁ」 と絶対に叶わぬ願いが頭に浮かぶし、 随分とカラダに無理をさせているなと分かっていても、 行きたいところに行きたいし、 好きな人たちと一緒に笑っていたいのです。 ココロの声に耳を傾けることができても、 カラダの声に耳を傾けることが相変わらずできません。 そうすると、ココロの声もカラダの声も 無視し続けていた頃よりも、より一層、 ねじれている感じがするのです。 カラダの声を大事にすれば、ココロが不満を言う。 ココロの声を大事にすれば、カラダが悲鳴をあげる。 だけど「私」という人間は ココロとカラダの両方でできていて、 どちらかを切り捨てることができません。 どこで折り合いを付けたらいいのか、 全く分からなくなりました。 ここで唐突に「選択」について 私が思っていることを書きます。 「選択」には2種類あると思うのです。 1つは、未だ手にしていない複数のものから、 どれを手にするかと選び取る選択。 もう1つは、既に手にしているもののうち、 どれを手放すかと腹を括る選択。 そして人を悩ませる「選択」の多くは、 後者ではなかろうかと。 おそらく今までのこのコラムで登場した多くの方々が語る、 身を切るような、尊厳やアイデンティティを揺るがすような 「選択」というのは、 何かを「選び取った」ように見えるけれども、 本当は「何を手放すか」という覚悟を決めた、 その結果自ずと手の中に入ってきた、 という類の選択ではないかと思うのです。 そして「受け入れる」という行為にも、 近しい意味合いがあるのではないかなと思います。 何かを手放さざるを得ない、 そういう事実や事象を目の前にして、その腹を括る、 そしてその向こう側へ自分を繋げていく、という作業。 「ありのまま」の自分は、 おそらく誰にとっても綺麗なだけではないはずです。 怠け者だったり底意地が悪かったり 浅はかだったり流されやすかったり。 そのことを認識すること自体は、 実は結構多くの方ができているのではないか。 難しいのは、そのことありきで、 そこからその向こう側へ自分を繋げていく、ということ。 認識して、はい、私はそういう人間でした、ちゃんちゃん。 これは、「受け入れる」ではなくて 「諦める」という行為なのだと思うのです。 字が書けない生徒に対して、 「なんで中学生にもなってこの字が書けないの?!」 と怒鳴るような行為を、 私は今まで自分のカラダに対してしてきたと思います。 これは書けないことへの拒絶であり 自己否定や歪みを生むばかりでした。 字が書けない生徒に対して、 「そうなの。字が書けないのね。よく分かったよ。」 はい、おしまい。 これが、今の私のカラダに対する態度です。 ありのままを受け入れているように見せながら、 体よく諦めているだけなのです。 その先には、何もありません。 強い見栄を張っていたココロを手放して、 弱い自分のココロをこの先へなんとか繋いでいく、 ということはできそうなのに、 機能不全な自分のカラダにはその向こう側を見いだせない。 その理由は、やはり手放す腹を括る前に、 カラダがどんどん勝手に 機能を手放していってしまうからではないか、 と思ったりしています。(言い訳かな。。。) ありのままでよし、と誰が受け入れてくれたら満足なのか。 私の場合はこれはもう自分でしかない、と思います。 言ってみれば私のありのままのカラダを、 既に周囲の方々は私以上に受け入れてくれています。 無理しなくていいんだよ、 しんどかったら休んでいいんだよ、 できないことは頼んでいいんだよ、 それは恥ずかしいことでも申し訳ないことでもないんだよ。 私のありのままの心身状況を誰よりも把握していながら、 ありのままのカラダを誰よりも受け入れられていないのは、 私です。 自分の「ありのまま」を どれほど他人が受け入れてくれたとしても、 「ありのまま」のその先へ自分を連れて行けるのは、 おそらく自分でしかないのです。 (もちろん、他者からの承認も その大切な道しるべのひとつです。) 手放す腹を括ること、括った先に、何かを選び取ること、 そしてその先へと自分を繋いでいくこと。 弱っかしの私には、 まだまだ遠く遠くの灯台の灯りのようで、 なかなか手が届きません。 でも、舵を握っているのは自分であると、 灯台の灯りを捉えるのはこの目であると、 そのことだけはしっかり分かっているつもりです。 ちなみに、 「手放さないですむように助けるのが医療」 「手放す腹を括るお手伝いをするのが福祉」 「その先で何かを選び取るお手伝いをするのが教育」 というのが、その全てを享受してきた私の見解です。 最後までお付き合い下さりありがとうございました。 (M.M) <夫に> 私は「夫」に言われたい。 すこしでも努力して認められたくて、 どんなに頑張っても それ以上に要求されるからです。 でも私には無理なんです。 いやそれ以上に頑張っても きりがないくらい、上を望んでいるのです。 それができないと、人間性を否定され無視されます。 ありのままでいいと、認めてほしい。 ただそれだけで心が軽くなり、 明日への希望になります (ヤブ) <夫に> 「ありのまま」を受け入れてくれる人は夫です。 昨年、乳がんを患ったのですが、 胸を摘出されたり、 抗がん剤治療で髪が抜けおちたりした私のことを 「ありのまま」受け入れてくれていることに感激しました。 私にとっての夫のような存在を だれかに求めるのはごく自然だと思います。 でも、私が治療中気分が悪くても、 そのままの気持ちで夫にあたるべきではありません。 お互いに努力している部分も含めて 「ありのままを生きる」とか「受け入れる」とか 言えるのではないでしょうか。 (ゆでこたまご) <家族に> 「なりたい自分」に向かって頑張れなくなってしまい、 頑張れない自分、イライラしてる自分、 欠点だらけの自分に気が付いて、 自分ですら嫌な自分から、 他人が離れていってしまうのではないかというときに、 一緒に立ち止まってくれる人、 振り返って気にかけてくれる人。 いま、私をありのままでみとめてくれるのは、 家族です。 でもそれは私が生まれ育った、与えられた家族です。 ありのままを認めてくれる家族をつくってくれた 父と母にとても感謝しています。 (coco) <尊敬する人に信じてほしい> 誰かにありのままでいいと言ってほしい時は、 自分に自信のない時です。 自分が自分のよさを見失ってる時に 誰かにそれを肯定してもらえると 自信を取り戻すことができます。 自分が薄々よくないと思っていることで、 誰かに「そのままでいい」と言われたら、 反対に「そのままじゃよくない!」と 強く思うのではないでしょうか。 例えば食べ過ぎてお腹が出てきたので ダイエットしてお腹をへっこめたいけど 努力するのはしんどいなぁと思ってる時に、 友達や家族に「そのままでいいじゃん」と言われたら、 「いや、よくない!」という気持ちになって ダイエットを始めるような気がします。 もし自分が尊敬している人からそう言われたら、 「自分はこれ以上よくならないと思われているんだ」 と思ってショックを受けると思います。 私は自分が信頼し尊敬している人から 今の自分のよさを認めてほしい、 そして未来の自分の可能性を信じてほしいと思います。 (SANO) <たがいに> 相手の「ありのまま」を認めようとするなら、 自分自身の「ありのまま」を引っ込めてはならない。 自分の価値観を脇に置いて、ただ容認だけするのは、 自分にも相手にも本当には向き合っていません。 それに、「相手を認めること」を優先するあまりに 自分の感じ方を押さえこめば、必ず無理が生じるし、 どうしても認めきれない部分が残るでしょう。 相手に向かってまっすぐに 「ありのままの私」を表出することは、 それだけで、 目の前の相手をそのまま受け入れている 状態だと思うのです。 (M.W.) <弱みをすべて書き出した> 昨年、自分の無価値感に苛まれ、 今まで自分で見ないように見ないようにして封印してきた 私のダメダメな部分、コンプレックスに感じていること、 他人に悟られないようにひたすら隠し続けてきた 自分の弱みをすべて書き出してみました。 これはものすごく勇気のいる作業でした。 そして、それを正面から見つめ、 まるで他人の悩み相談に答えるかのように、 「いいんです。そういう部分があるからこそ、 そういう経験をしたからこそ、 こういう視点も持てるようになった。」 などと、すべてを肯定し励ます言葉を続けて書くと、 自分の中の膿みを出し切ったように、スッキリしました。 ダメな部分も含めて、 ありのままの自分を正直に受け入れられた時、 体がフニャフニャになるほど癒され、泣けてきました。 そして、今まで、どんな人に褒められた時よりも、 嬉しくて、強くなれた気がしました。 そして、友人づきあいも、 自分の弱みをさらけだして、 それでもお互い敬意を持てるような友人を 大切に思えるようになりました。 他人から認めてもらわなくても、 自分でありのままの自分を認めることが 大事なんだと思います。 その「在る」状態がベースとなって、 「で、今、私には何ができる?」と、 生き方を考えるスタート地点に立てるのだと思います。 (プリムラ) <GOODも、BADも> ありのまま、 〜でいいんだよ、の、いい、は、 GOODではなくて、現状認識的なOKなんじゃないか、 そして、 〜でいいんだよ、と他人から言われたい人は、 GOODだと思ってそうな気がします。 そうすると、認めてと叫ぶ人は、BADと言われたと、 本当は誰もBADと言ってなくても、かんちがいするのかも。 私の場合は、 自分で自分をある程度客観的に見れるように努めてから、 GOODもBADも、あるっちゃあるよ、OK、 と自分を認められるようになり、楽になりました。 私にとって一番認めて欲しい他人は、 客観視した自分でした。 それが無いうちは誰に何を言われても、 認められてない気がしていました。 今は逆に、認められてないなと感じる人がいても 仕方ないと、違う形で頑張ろう、 ダメならダメでいいや、と思えるし、 認めてくれてる人が沢山いたことにも気づけたし。 (はにここ) <変わりつづけること> 「ありのまま」でいるためには、 「変わらなければ」ならない。 人は「そのまま」、つまりずーっと同じ状態のままだと、 ありのままで居続けることはできない。 昔、ある貴族が言ったそうです。 一大事件が起きて自分たちの地位が危ぶまれたとき、 「我々は、変わろう。 変わらなければ、貴族で居続けることはできない」と。 巷のカップ麺やスナック菓子、ロングセラー商品は、 絶えず変化を続けてるってご存知ですか? 味が一切変わらないと、 客にだんだんと「不味くなった」という評価をされ、 売上げが落ちていくそうです。 自然界の生物もだいたい全てそうでしょ。 強いもの? 賢いもの?、そんなもの生き残れないのです。 生き残るのは、変わるもの。 環境に合わせて自分を変化させられるもの、 これが生き残るのです。人も同じ。 ありのまま、の自分を維持するには、 どうでもいいようなところは 自ら進んで変えてかなきゃいけない。 変えれば変えるほど「ありのまま」に近づいていく。 少なくとも離れることはないし、 時々「あ、ここだ」って思える。 (NAL-DRAY) <庭を手入れし続けるように> 「ありのまま」を認めるのは最終的には自分であり、 その基準は「他人の幸福を素直に喜べる状態」 「人を傷つけたり、嫌味や皮肉を言ったり ばかにすることで楽になるということ (それには自虐的な感情を含む)をしなくてもいい状態」 であることだと思っています。 自己が完結してこころが自足できる状態になっていれば、 他人の幸福をねたんだり、嫌味を言う必要はないからです。 「ありのまま」を維持することは大変だけど楽しい。 心に皮肉が湧きあがったとき、 「どうしてそのような感情が湧きあがったのか」 「どうすれば自然に、そのような良くない感情が 湧きあがらないようになるか」 自問自答することで、 自分のこころのメンテナンスができる。 手入れを怠ったら雑草が生えてくるけれど、 ちゃんと手入れをしたら 美しい状態を保つ庭園のような感じです。 手入れをしているうちに、それ自体が苦痛でなくなって、 「ここは日当たりが悪いけど、 その分日陰に強い植物をたくさん植えたら かっこいい庭になるぞ」とか 「変な形の庭だけど、味わいがあるから、 アピールポイントにしよう」とか 自分のことなのに新しい発見をしたり、 素直な愛着を感じたりするのです。 メンテナンスの方法は人それぞれ、 出来上がる庭も人それぞれ。 バラ園もあればギボウシ園もあり。 それが、「ありのまま」。 共通しているのは適切な方法で こまめに手入れしないといけないということ。 愚痴を言わないとやっていられないだけの状態が 「ありのまま」だとは思いません。 誰にだって雑草だらけの庭になる 負のポテンシャルのようなものがありますが、 それがあなた、わたしそのもの、 「ありのまま」だとは思いたくありません。 こっそり匿名でつぶやかれる愚痴や悪口、 弱音のようなものが本音って誰が決めたの? (K.K.) <弱った自分と向き合って> 人間が他者との関係性の中でしか 生きられない存在である以上、 「ありのままの自分」で生きるというのは 原理的に不可能のような気がします。 (生まれてすぐの母親からのフルサポートが 必要な一時期を除いて) たとえプライベートであっても、 子供に小言を言うのは「親」の役割ですし、 ロマンチックな気分にさせるのは「恋人」の役割ですし、 関係性によってその都度、 役割を適切に演じることこそが、 人間が生きていく唯一の手段であり、 人間性を基礎付けているものだと思います。 ですから、 「ありのままのあなたでよし」と、誰に言われたいか? ですが、 そういうことを言われたくなる、 自分の心の有り様を見つめることが、 まずは大切なような気がします。 他人から無条件で肯定されたいと思うほどに 落ち込んでいる、もしくは弱っている自分と 向き合う必要があると思うのです。 また、「ありのままのあなたでよし」と言ってくる人間 というのも、中にはそう言われたら喜ぶほど 相手は落ち込んでいる、と見越して言っている 不届き者がいる可能性もあると思いますし、 個人的には、そういう台詞を言う人間は 信用しないようにしています。 誤解していただきたくないのですが、 「自分の思ったように生きる」、 「自分の思ったことを言う、やる」 というのを実践する人や、 人にそういう生き方を進める人には 100%賛同しています。 ただ、他者と関わった瞬間に、 人間はありのままではいられなくなるのでは。 (デロリ) <具体的な良いところを認めて> ありのままを認めて欲しいと思うとき、 誰より、認めて欲しい本人自身が、 「このままではいけない」 と思っているんじゃないでしょうか。 でもどうしていいかわからない、 その苦しさに向き合えていないんだと思います。 そういう人には、ただ肯定して認めるのではなく、 具体的な、その人の良いところを認めることが 必要だと思います。 ぼんやりとした、ただ耳触りのいい言葉は、 かえって猜疑心を産みます。 誰より自分自身が、 「ありのままでいい」と心から思えたら、 明日がくるのが待ち遠しいような、 前へ生きる生き方が出来るのだと思います。 (マチコ) <スタートとゴール> 少なくとも、自分が「いまの自分で、とりあえず良し」と と思えることが、満足へのスタート地点なんだと思います。 自分のことを、自分が分かって欲しい通りに分かって くれる人がいて、その人が「ありのままの君で良し!」と 言ってくれたら、満足できる。 でも、それはきっと、限りなく奇跡に近いことで、 そこに1リでも近づき、自分という人間への理解の シンクロ率を1%でも高めるために、伝えること、 表現することに、これからも自分は挑戦し続けて行くの だろうな、と感じています。 (ひげおやじ) <よし! と言葉はいらない> 基本的に人は分かり合えません。 「あなた」と「わたし」は絶対的に違います。 「ありのままでいい」というのは そういう覚悟が背後にある言葉。 「私とは絶対的に違うあなた」を 先に認めることができている、 そういう「あなた」に「ありのままでいい」と 言ってもらうことの得難さを知っていてほしい。 無自覚でかまわないから。 絶対的に違う人々が集っているこの世界のすばらしさ。 分かり合えないから伝え合いつながろうする 切なさとすばらしさを認めた瞬間から 「ありのまま」とは何ぞやと考えられるようになる と思っています。 というわけで「ありのままでいい」は、 私は言葉ではいらないです。 周りに誰かが居続けてくれることそのものが 私に「ありのままでいい」と伝えてくれている表れだから。 ‥‥と受け取れるアンテナ感度を上げていけるよう 日々、がんばり中です。 私自身は「ありのままでいい」を伝えるために、 「あなた」の存在と力を信じて接するようになれることを 日々、切に願ってます。 なかなかに難しい。 でも、一生をかけて取り組み続けたいテーマです。 Being−人のありよう Doing−人としてのふるまい Beingに対しては「ありのままでいい」ことを 言葉にするしないにかかわらず伝えていきたいですね。 Doingは、やはり「よりよいやりかた」を 誰かに教え育んであげたいし、 私自身も教えを育んで、 たぶんこれからも ここではないどこかへ 進むのだと思います。 (moriko) <全否定されたように> 中学校で非常勤講師をしております。 「ありのままのあなたで、よし!」と、 だれに言われたら、満足か? 私は、誰に言われても満足しないと思います。 なぜなら、私自身が 「ありのままでよし」なんて思っていないからです。 ダメな自分を痛烈に感じているのは自分だし、 それをどうにかしたいと一番本気で思っているのは 自分です。 (でも、どうやって改善したらいいのかわからない、 あるいはわかっているけれど、 うまく実行できないから苦しむのです。) だから、誰かに「ありのままのあなたでいいよ」と 言われても、 私はその言葉を信じる(そう言ってくれた人が 本心でそう思っていると信じる)ことは できないと思います。 そう思う一方で、 「ありのままの自分」を受け止めて欲しい、 という気持ちもあります。 「認める」というよりは、「受け止める」です。 「ありのままを認める」、 つまり「そのままでOK」というのではなく、 「現状をキャッチして(受け止めて)」、 その上で、教育を考えてくれたら‥‥と思います。 別の言い方をすると、「今の自分をマイナスではなく、 ゼロの状態として見て欲しい」ということです。 見る側が想定していた「ゼロ」よりも マイナス側だったとしても、 現状を「ゼロと見なして」くれたら、だいぶ救われます。 「ここ(ゼロ)からプラスになるように頑張ろう!」 という前向きな気持ちになれると思うのです。 ズーニー先生がおっしゃるように、 実際の教育現場では、 多くの生徒は「ゼロ」の状態では 来てくれないのだと思います。 ゼロまで持って行くのもひと苦労です。 でも、そのゼロはあくまで教師が 一方的に想定したゼロです。 生徒は、いきなり「あなたはマイナス状態!」 と言われたと感じ、 悲しい思いをするのではないでしょうか。 どんなマイナスでもそこを「ゼロ」と見なし、 そこから前進できるように考えていく。 そういうことができる教師になりたい、と思いました。 個々の「できない」に対して、 「あなたはダメね」という言い方で評価され続けた人は、 個々の「できない」に対する批判を個々のものではなく、 まるで人格(全部)が否定されたように 感じるようになってしまう。 だがら、誰かがある事柄に対して批判・助言していても、 それをまるで自分がまるごと否定されたかのように感じてしまい、「ありのままの自分を認めてほしい」 という発言につながるのではないでしょうか。 そうすると、批判・助言した人とされた人との間に すれ違いが生じて、 前者は「えっ、何? ありのまま??」と 聞き返したくなるのだと思います。 「ありのままの自分を認めてほしい」と言う人の中には、 その言葉通り「現状を認め、 それ以上を要求しないで欲しい」 と思っている人もいるかもしれません。 でも多くの人は、 「今の自分の『足りない』を責めるのはやめてほしい。 ここからどうすれば良いのか、 ポジティブに前進する方向を一緒に考えてほしい。」 と思っているのではないでしょうか。 誰でも、学びたい、もっと良くなりたい、 できるようになりたい、 と欲しているものだと、私は考えています。 「死にたい」と思っている人ほど、 本気で「生きたい」と思っている、という話を聞きます。 「ありのままの自分を認めてほしい」と言う人ほど、 本当は「今の自分を変えたい」と 思っているのかもしれません。 「変わりたいのに、変われない。誰か助けて‥‥」 という悲痛な叫びのように、私には聞こえます。 (金時豆子) <ひとは「自分」を生きてゆくのだから> 四月は新しい環境で、 場所慣れ・人慣れできない緊張でいっぱい。 厚い殻を着込んだり、 ニヤニヤ笑いのペルソナをかぶったり。 安心できれば、徐々に氷のように溶けていくけれども。 でも、本当は慣れ親しんだ毎日ですら、変化の中にいる。 毎日毎日、慣れない一日の中に飛び込んでいるのだと、 覚悟しておくことも必要ではないか。 日々の新しい波に、 緊張して固まると溺れてしまう。 力を抜いて、水に浮かんで波に乗る。 そのように柔軟に、しなやかにいきたい。 もちろん人に承認されたい。 つながって、認め合いたい。 でも、相手も流動的であり、昨日の彼・彼女ではない。 だからこそ、厳格で常識的な自分、 盲目的に甘えさせる自分、 駄々っ子のように自由な自分が、 「よし!」と言ってくれれば、私は「よし!」。 100%「よし!」でなくても、 4〜6割良ければ「よし!」。 (赤点でなければ、合格) 100%毎日が「よし!」なんてありえないと思えば、 気が楽になります。 たとえ、まわりに理解者がいなくても、 客観的・多角的に考えた結果、 「お天道様に恥ずかしいことはしていない」 ならば、自分ぐらいは、「よし!」と言ってあげようよ、 と言いたいです。 ヨガでは、心臓のあたりに神様がいると教わるそうです。 胸に手を当てて、やましくなければ「よし!」 間違ったら、ごまかさない、謝る、忘れない。 いつか償う。 そうすれば、少なくとも「心が折れて」うつになったり、 依存に溺れることは防げるのではないでしょうか。 「よし!」は、自己承認とか、自己肯定とかいうのかしら。 きっと目がキラキラしているとき。 ワクワクドキドキしているとき。 ドーナツの穴のように空っぽな自分の内面を見つめるより、 出来ること、役に立つことをやってみる。 感謝されなくても、 自分がスカっとすればいいじゃないですか。 掃除だろうが、ごみ捨てだろうが、笑顔や挨拶だろうが。 うらやまない、ねたまない。 人それぞれ、その人なりの苦悩はつきもの。 荷物は違うかもしれないけれど、 誰もが何かを背負っている。 誰とも比べられない。 ひとは「自分」をいきてゆくのだから (往年の名曲の一節です。 どなたかタイトルを教えてください。) (人それぞれ) <足にあう靴、道にあう靴> 自分の足に合う靴と、道に合う靴、 二つの靴があるように思います。 道に合う靴を履くと、道との摩擦が抑えられ、 その道を滑る様に進むことができますが、 足に合わなければ、いずれ足に負担がきます。 一方、足に合う靴は、 足に負担をかけずに歩くことができますが、 靴が道にあわないと、道に合う靴の様には進めません。 だけど心を満たして歩くことはできます。 もし親しい人が、 靴が合わない痛みで動けなくなっているのなら、 「その靴を脱いで、足に合う靴を履けばいい。」 と伝えたいです。 あるがままに生きるという精神療法がありますが、 「足に合った靴で歩けばいい。」 ということではないかと思います。 だけどもし、 足に合わない靴をもう脱いでいて、 それでも動けないというのなら、 「もう動かなくていい。」とは言えません。 それは無関心だと思うから。 ありのままの自分とは、その足ではないかと思います。 自分の足がどんなに不器用な足でも、 それはもう仕方がないことです。 認めてもらっても嬉しくはないし、 むしろ自分が止まってしまう気がします。 それよりも、 不器用な足で何とか前へ向おうとしていることを、 親しい人には、 分かっていてほしいと思います。 (Sarah) <全ては自分の心が決める> 現状維持の「ありのまま」も、 前向きな「ありのまま」も、 どちらも自分の気持ちを 他人に代弁して欲しいだけなんじゃないかと思います。 ツラくて愚痴をこぼした時の「ありのまま」では、 同情やケツを切り上げて欲しい。 常識に逆行したり不安だけども、 自分の考えに基づいて出した ポジティブな「ありのまま」では、 誰かに背中を押して欲しい。 自分自身が「ありのままでよし!」と胸を張って言えれば 本当は満足なんだと思うのですが、 人ってそんな強くないから皆に支えられてこそ 生きていけるんだと思います。 私は「ありのまま」の自分でいるため、 昨年の秋に離婚し、今週に会社を辞めます。 人との関わりで見えてくる自分、 自分の気持ちを感じて見えてくる自分。 全てを受け入れて自分らしい人生を歩みます。 周りの皆に背中を押されて心は揺るがなくなりました。 今までは車関係の仕事をしてましたが、 これからは高齢者介護の道に進みます。 仕事とは?自分とは?他人とは?生きるとは? 今までの経験から導き出した「選択」でした。 他人の「ありのまま」を受け入れて、 自分の「ありのまま」を変化させていく。 今、人生で一番ワクワクしてます! (U-ZO) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2012-04-11-WED
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