おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson585 仕事の選択 11 きょうは、 文章表現教育における「ありのまま」について、 私自身の考えを述べてみたい。 文章表現教育において、 「ありのまま」はスタートラインだ。 スタートであって、ゴールではない。 でも、逆に言えば、 「ありのまま」が無いとスタートラインにも立てないから、 そうとうに重要だ。 本来、わたしの「ありのまま」の定義を 明らかにすべきだが、 ここでは、あえて、 「ありのまま=X(エックス)」、として進める。 これから文章を伸ばそうとする生徒に、 まず求められるのは、 ものごとを「ありのままに見る目」だ。 この逆が、いわゆる「斜に構えた生徒」。 先日も、そんな生徒に出逢った。 (プライバシー保護のため設定を変えて話そう。) 地方の大学に、半日の、 就活セミナー講師で行ったときのことだ。 一人の女子学生が、 一時間以上も、ハデに遅刻してきた。 かりに名前を、「ナナメさん」と呼ぼう。 ナナメさんは、 コミュニケーションがとりづらかった。 まっすぐ私を見ようとしない。 私の言葉も、まっすぐ入っていかない。 口先だけは、 「はいはい、はいはい」「わかりました」 と調子のよい言葉だけが、即答で返ってくる。 でも、そこに気持ちがはいってない。 「ほんとうにわかってるの?」 と私が顔をのぞきこもうとすると、 さっ、と身を固くし、防備というのか、 「それ以上私に踏み込むな。 私はこれ以上、私を出す気などない」 という無言のバリアを全身に漂わせる。 その様子は、ひと言で言って、 「情報の正直な読み書きができない。」 人の話も、見聞きすることも、出来事も、 ありのままに、見・聞き、 そこで自分が感じたことを、 かっこつけたり、卑下したり、隠したりせず、 ありのままに、表情に出し・話し・書く、 ということが、正直な読み書きとすれば、 ナナメさんは、ものごとを斜に構えて見て、 表面的、部分的に受け取り、 自分も、一部分や上っ面しか出さないという様子だった。 「ナナメさんだけは、 どーしても、なにをやっても、 いっこうに、引き出せない。 かわされてしまって、手ごたえがなくて」 と、その大学のキャリアセンターの ベテラン職員の男性も消耗していた。 やりたいことが見つからないなら見つからないと 苦しみを訴えてくれれば、それはそれで、 指導のやりようがある。 けど、ナナメさんは、やりたいことはと聞かれれば、 すらすら言う。 しかし、いっこうに気持ちがこもっていないので、 質問して本意をさぐろうとすると、 その場しのぎで、言うことをコロコロ変え、 わかったわかった、やりゃあいいんだろ、 という態度で、かわしてしまうそうだ、 「ものごとをありのままに見ることができない。」 当然、そこには、ナナメさんの、 「自分自身を見る目」も含まれる。 こんな状態で、 偉い先生の話を説いて聞かせても、 文章を書かせても、 添削して、文章を削ったり組み替えたりしても、 いっこうに、「はじまらない」のだ。 こんなとき、「教育」はなおさない。 「治す」のは医療だ。 医療は、例えばカウンセリングなどを通して、 ナナメさんがなぜ、人と正面から向き合わないのか? 心にもないことを言い続けるのか? と、 まさに、ナナメさんが、「ありのままの自分」を 受け入れられない原因、 他人が怖い、自己肯定感が低い、家庭環境、 トラウマなどの理由をつきとめ、 PTSDなど、名づけられる場合は名前をつけ、 必要があれば、投薬なり、治療なりして、「なおす」にむかう。 「福祉」であれば、もし、PTSDなどの名前がわかれば、 家庭や、地域や、学校などで、人々の理解・協力を仰ぎ、 コミュニケーションに不具合があるままに、ありのままに、 偏見をもたれず過ごせるように支援する。 「教育」は、「鍛える」というアプローチをする。 私がその日、ナナメさんに行ったのは、 いつもとかわらぬ、文章を書くためのトレーニングだ。 他の学生たちと一緒に、なにひとつ特別扱いせず行った。 まずは、就活のエントリーシートを書くために欠かせない、 「自己理解」「仕事への理解」 「業界をめぐる社会背景への理解」 を引き出すための問いをこちらで用意し、 学生どうし、2人1組でペアを組んで、 インタビュー形式で、たがいに引き出しあっていく。 ナナメさんの表情が変わる瞬間が、 すくなくとも2回あった。 1回目は、ナナメさんが思わぬ本音をもらしたときだ。 ナナメさんは、たしかに斜に構えた態度で ワークに臨んでいたが、大人よりも、 同じ学生同士のほうが、緊張がやわらぐようだった。 それに、人間、答えやすい小さな質問から、 過去、現在、未来へと、順序だてて、 20問くらい、細かく聞いて、引き出していくと、 常に常に、心にもないことを言い続けるほうが難しく、 つい、本音が出てしまうことがある。 その瞬間、相手の学生が、真摯に、身を乗り出して 聞いてくれ、ナナメさんも表情がちがってきた。 また、ナナメさんが、質問する側にまわったときは、 相手の学生が、ナナメさんに心をひらいて 正直な答えを返し続けてくれることに、 感じるものがあったようだ。 そんなふうに、問いによって、自分に深く問いかけ、 引き出し、整理し、考えて、書く、というワークを、 何段階かにわけて、ステップアップしながら、 淡々とやっていった。 各ワークの節目・節目では、 学生全員がひとりずつ発表するシーンがあったが、 ほかの学生が、 正直で実のある表現をする姿や、 うまくいえなくて恥ずかしくても、 それでも勇気を出して自分の考えを伝える姿に、 ナナメさんも、徐々に引き込まれていた。 ナナメさんが発表するときには、 他の学生たちが、真剣なまなざしで、 一生懸命聞いてくれ、聞き終わったら拍手をくれたことに、 かたくなな態度がほぐれていった。 最終発表では、 当日のワークでずっと考えてきた、 「私が将来やりたい仕事」について、1600字くらいに、 あらく下書きした上で、 さらにそれを300字以内に要約して発表してもらった。 制限時間との闘いのなかでものを書くと、 執着も飛んでしまい、人はそうそう、嘘が書けないものだ。 とくに、長く書いた文章を、ぎゅっと縮めるとき、 思わぬ本心が表れることがある。 学生たちの最終発表は、 自分らしい実感があり、かつ、 社会に通じる説得力を兼ね備え、すばらしかった。 ナナメさんの発表に、はっ! とする瞬間があった。 その人の本心と、言葉がぴたっと通じる瞬間は、 たとえささやかなことを言っていても、 なぜか、場に通じ、本人にも、聞いている人にも、 ぐっとくるのだが、 まさにそういう瞬間が、ナナメさんの発表の中にあった。 まだまだぎこちなかったけど、 たしかにそのくだりには、彼女の正直な想いが表われ、 場にいる学生とも私とも通じ合ったと私は感じた。 キャリアセンターのベテラン職員で、 彼女とこの半年向き合ってきた男性は、 それを聞きながら、男泣きしていた。 ワークショップのあとも、その職員は、 「いやあ! ナナメさんがああなるとは! あそこまでいくとは!」 と、駅に私を送る道すがら、繰り返し繰り返し言い、 そのたびに感じ入っていた。 教育は、なおさない。 テレビドラマなら、 松岡修造さんみたいに熱い先生が登場し、 斜に構えて世の中や自分を見る生徒を、 愛情を込めてひっぱたき、 生徒の両肩を持って、強く揺さぶりながら、 「どうしておまえは、気づかないんだ! ありのままのおまえは素晴らしい! なぜ自信を持って世の中と向き合わないんだ! 俺は、ありのままのおまえが丸ごと大好きだ!」 と心に訴えて、生徒を変える。 けれど、私は、この領域は、 親や、友人、「家族」の領分のように思う。 愛情のこもった説得で、かりに生徒が、 「変わろう!」と強く改心したとしても、 具体的にどうするかわからなければとまどう。 精神論で心は変わっても、 そうふるまう筋肉が育っていない。 逆に、ものごとをありのままにみる術(すべ)と 筋トレがあれば、 つまり、過去、現在、未来へ、社会へ、と 細かく、視座を変えながら、問いを立てて ものごとを多角的にみる技術や、 自分のより本心に近い考えを引き出す方法を知り、 恥ずかしくても、勇気を持って表現する トレーニングを積んで、筋肉がつけば、 自分をとりまく情報の読み書きも変わってくると思う。 文章表現教育において、 「ありのまま=X」が重要になってくるとき、 「生徒が、Xに正直な表現ができているかどうか」 が問題なのであって、 Xそのものを取り沙汰するのではないような気がする。 生徒が、Xに正直な表現をしてきたとき、 それがどんなに社会常識を破るものであっても、 受け止め、正しく深く読解し、理解を返す。 その勇気を認め、尊重する、 ということが大切だ。 生徒が、Xに正直な表現ができないとき、 より正直な内面を引き出す技術を教え、 正直に表現してもいいと思える 教師との信頼関係をつくり、 たがいに心をひらきあっていける生徒同士の環境を ととのえ、コツコツトレーニングして、 できるように導いていく。 生徒が、Xに正直な表現ができないとき、 生徒の、「ありのまま=X」自体に、 やたらと踏み込んだり、 なぜできないかの原因を探ろうとしたり、 さらけ出せと強要したり、 ましてや、X全容をつかもうとしたり、 受け止めようとすることは、 そもそも無理なのではないだろうか。 私の授業では、生徒が、 それこそ、親にも、親友にも、 人生でだれにも言えなかった自分の内面を表現し、 そのことで、自分自身のありのままと通じ、 受け入れ、解放されることが、たびたびある。 でもそれは、あくまで、 最も書きたいものを表現するトレーニングの過程で 自然に出てきたことだ。 そこで私は、生徒の文章は受け止めるが、 その生徒の「ありのまま=X」がわかったとも思わないし、 だから僭越で、「ありのままのあなたでいい」などという 権利も資格もない。 そもそも、「ありのまま=X」は、深遠で、多面的、 たとえ親でも、長年つれそった夫婦でも、 本人さえも、つかみきれないものだと私は思う。 教師である私は、 「ありのまま=X」を、把握はできなくても、信じる。 この人の「ありのまま=X」のなかに、 必ず表現して人に通じさせる意味のあるものが 潜んでいると、ここは信じるしかない。 その上で、まずは、 かっこつけたり、すりかえたり、見栄をはったり、 卑下したり、自分を偽ったりせず、 なるべく、自分自身の感覚として、 自分自身に正直な文章表現ができるようにサポートする。 ここがスタートラインのスタートである。 けれども、かっこつけない自分を出せても、 はだかになれても、まだ、生徒さんは、 ありのままの自分に満足しない。 「自分以上でもないが、自分以下でもない表現」、 生徒さんが、「ありのまま=X」に照らしてみて、 虚勢をはらず、かといって、 実力が充分に発揮できなかったということもなく、 そのとき持てる、自分の経験、知識、能力に ふさわしい、 「自己ベストの文章を書く。」 ここで初めて納得する。 まずは、正直になれることへ、 それから自己ベストの表現へ。 文章表現のスタートラインにおける ありのままは、 ジャッジするのは本人であり、 そこにナビゲートすることが教師だと私は考える。 正直、かつ、自己ベストの文章を書く。 これが、文章表現における ありのままのスタートラインに立つことであり、 でも、これはスタートに過ぎないと私は考える。 |
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2012-04-25-WED
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