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Lesson592 イカリとむきあう − 3.読者メール紹介 「イカリ」がこみあげても、 ふりまわされないで、 ちゃんと自分でコントロールできて、 自分らしく、かつ、 まわりにも良き隣人としてふるまえる人は、 どんなイカリの乗り越え方をしているのだろうか? 読者からものすごくたくさんの、いいおたよりを いただいている。 とても1回では紹介できないので、 おおきく分けて、きょうは、 「イカリを認める・許す」 方向で、イカリをのりこえている 読者のおたよりに絞って紹介したい。 イカリにおそわれたとき、 ものすごくヒントになるものばかりだ。 <イカリの見方を変えた父の一言> 母はときどき、怒りに支配されます。 「支配される」というのは、 本人がそうしたいと思って怒りを表しているというより、 何か別の「怒り」という存在に、 母がのっとられてしまう、まさにそう見えるからです。 幼い頃から私は、 そんな母の「怒り」がおそろしく できるだけ避けてきました。 そんな母の一番の理解者は、父です。 母は理解者である父に向かって、 時折、激しい「怒り」をぶつけます。 なぜ一番自分を受け入れてくれそうな人物に向かって 「怒り」をあんなにもあらわにするのか、 母がわかりませんでした。 それに付き合い、見放さない父は よっぽど懐の深い人物かと思っていました。 ですが、あるとき、父が言っていました。 「(母は)怒っている間は、 相手が自分のほうを見てくれると、 向きあってくれると思っているんだよ。 自分がさみしいときは、 どう表現したらいいかわからなくて、 それが怒りになっている」 それからは、 母が激しく何かに「怒り」を表しているときは、 そばにいるようにしています。 どう言葉をかけたらいいかはわからないので、 ただ近くにいるだけですが、 「この人はさみしいのかなあ」と考えると、 おそろしさはあまりありません。 (末松) <イカリの正体> イカリとむきあうを読んで、初めてメールします。 随分前、本で、ある言葉に出会って 急に涙がこみ上げてきたことがあります。 おーなり由子さんの“きれいな色とことば”という本の 「いかりのしょうたいはかなしみなんだよ」 という言葉です。 引用文に多少ズレがあるかもしれませんが、 その時、 あーそうか、私が怒っているのは悲しいからなのか と目から鱗でした。 それから、腹が立つとき、私は自分に 何がそんなに悲しいの? と問いかけています。 人にないがしろにされた。 言いたいことが伝わらない。 自分を大切にして貰えなくて悲しい。 分かって貰えないことは悲しい。 こんなに悲しいのは嫌だよね と自分を肯定してあげることで 冷静さを取り戻し、周りにも悲しい気持ちを 素直に伝えられるようになりました。 (aoi) <イカル人は傷ついている> 黒川伊保子さんの『夫婦脳』(新潮文庫)のなかで 息子さんの言っている言葉を思いました。 著者が、雑誌の取材で 「家族との喧嘩の後の気まずい雰囲気、 何とかできないものでしょうか」 という質問を受け、答えがうまく浮かばず、 家に持ち帰り、息子さんに投げかけてみたそうです。 息子さんは、 「そもそも気まずい雰囲気を残すことに問題がある。 なじられたら、理由がどうであれ、 真摯に言い分を聞くべきだよ。 そして、まずは不快な気持ちにさせたことを謝る。 それをせずに言い訳したりするから、 気まずい雰囲気が残るんじゃない?」 と答えます。 息子さんは母である伊保子さんに 「どうして、こうなのよ」となじられれば、必ず、 「あー忙しいハハにこんな小言、 言わせてごめんね、駄目な息子だったね」 などと相手を気遣うことばを返し、 そして、その後にこの事態に至ってしまった理由を 穏やかに話すそうです。 「イカリ」について、 もっとピッタリあてはまると思ったのは、 伊保子さんが息子さんを 「あなたは、コミュニケーションの天才よね」 と褒めた後です。 「言っとくけど、テクニックじゃないよ。 なじる人は傷ついているからね。 まず、ハハの心が、本当に心配なんだよ」 と言ってのけた点です。 「なじる人は傷ついている。 たとえその理由が勘違いであっても、 理不尽な押し付けであっても、 そのことを正す前に、 まずはその傷を癒さなければ‥‥。 言い訳も説得も、その後なのである。」 と続いています。 なじる人は、あなたを頼りにしている。 そして、裏切られ傷ついているのだ、と。 (瞳) 「怒っているときだけは、 相手が自分と向き合ってくれる。」 と読み取った末松さんのお父さまは、 名理解者だ。 そしてその素質は、 娘の末松さんに受け継がれていく。 イカリは、あまりに醜く、小さく、 私はシャチョウサンのイカリを見て、ドン引きしたが、 イカリの正体には、読者のaoiさんが言うように 「孤独」があるように思う。 孤独が存在しない人間などおらず、 イカル人を前に、どんなに絶望的な壁を感じたとしても、 孤独の部分で、それでも、どうにか、わずかに、 相手とつながっていけるんじゃないか、 と思った。 傷がヒリヒリしている人間に、 どんなに正しい良い薬を塗ったって、痛くてとびあがる。 瞳さんの言うように、まず傷を癒すこと、 できなくとも、癒えるのを待つこと、 それが、伝えたいことを伝えるための前提なんだと思う。 次、2通は、自分がイカリに襲われたとき、 考えることで、コツコツとのりこえるおたより。 <かたくなに自分が守っているもの> 怒りの感情は、自分の側に一方的に起きている、 と言えそうです。 怒りを誘発する原因が、 他人の言動にあったとはいえ、 その怒りの感情に振り回され、 いても立ってもいられなくなるのは自分の方です。 なんで、こんなことに怒るのか、と、 自分の程度の低さを、後後に思い知らされます。 そして、振り返り、 どう考えても、自分は正しい、 相手は間違っている という自己の正当性を、繰り返し自分に言い聞かせる、 しかし、それも客観視すれば、 だから、なぜ、自分は怒るのか、 という問いにもブツカル。 いくら自分が正しいからといって、 怒らずとも、相手を説得し、 自分の主張を伝えることも出来るはず、 それが理性的に出来ないがために、 ただ、怒りを伴い、感情を爆発させてしまう。 とても大人げないようにも思います。 「相手の言い分を自分がどう、理解し、認識しているか?」 相手は間違いだ、と、本当に言えることか、どうか。 自分は絶対に正しいと言えるか、どうか。 それでも、小さなつまらないことでも、怒りたくなるのは、 どうしても認めたくない、 自己の内に頑なに守りたいものがあるからだろうと思う。 だから、 「自分は一体何に怒っているのか、 なぜムカついているのか?」 自分の言い分にも冷静に目を向ける。 怒っていては、前に進めないことも百も承知ですから。 そこにはAという意見と Bという意見があるだけなのだから。 怒っている自分の中にある、頑なに守らなければ ならないという自分のこだわり、 あるいは囚われかもしれない、 そういうものを見つけ、気づいていく、 私は、そのように対応していると思います。 (いわた) <代理人が来たら、本人に会いに> 「イカリ」代理人、という表現を とても面白く感じました。 私は、数年前に「イカリ」という代理人が現れた時に、 代理人ではなく、本人を探しに行く事を始めました。 そして、その本人(本当の感情)に出会って、 それを自分で受け入れる事ができるようになってから、 「イカリ」が登場する回数が減ったと自覚しています。 例えば、よくあることですが、 運動会の日に雨だったとか、 間に合うようにうちを出たのに、 電車が止まっていて遅れた、とか 私ではどうにもならない不可抗力の時、 あるいは、 段差がないのに、躓いて転びそうになった時、 なんでこんな所で躓くんだと、 誰のせいにも出来ない時、 やり場のない「イカリ」が出てくる。 でもそこには、本当は 運動会ができなくて「残念だ」という気持ち せっかく間に合うように計画を立てて実行した自分が 「報われない」気持ち、 ここでつまずく自分を「情けない」と思う気持ち、 そんな気持ちが隠されているように思える。 ただ、その気持ちに気付く事ができたら、 自分ではどうにもできない事に怒りを感じるのではなく、 ただ、事実として受け止めて、そこに湧いてきた感情を 「よしよし」とかわいがり、 その上で、じゃあ、どうするよ、 と気持ちを切り替えて行くこともできる。 すると、小さな「イカリ」も ラムネが溶けて行くようになくなる。 「イカリ」の前には、多くは 寂しい、悲しい、残念だ、心配だ‥‥という マイナスの感情が隠れているのではないか。 なぜなら、それを自覚するのは、 自分にとって辛いことだから。 小さな事で「イカル」人は、もしかすると、 とっても感情が豊かなのかもしれませんね。 そう思うと、とてもプライドが高く、 感情を表に出さず、しかし不機嫌さを「イカリ」で表す わが夫の事もかわいらしく見えてきました。 ちょっと旦那の「イカリ」とも うまく付き合ってみようと思います。 (潔子) いわたさんの思考の粘り強さ、 思考の積み重ね方に、とてもリアリティを感じた。 「自分が頑なにこだわり、守ろうとしているものは何か?」 いわたさんは実際に現実のなかでこうして、 コツコツとイカリと向き合いつづけ、 のりこえ続けているのだと思った。 特効薬があるわけでなく、 一度のりこえたらかといって、 また新たなカタチで新たな角度から襲ってくるイカリ。 完全に離脱することなどできないという弱さを知って、 魔法の杖もないことを知って、 いわたさんのように粘り強く思考を積み重ねようと 私は思った。 また、潔子さんの言うように、 代理人が来た以上、本人が必ずおり、 本人はきっと自分に会いたがっているだろうから、 会いに行く、という発想が楽しい。 よしよしと本人を母のようにかわいがり、 でも、かわいがるにはとどまらない、 「では、ここからどうするか?」 と発想を切り替える。 この切り替えこそ、創造性のみせどころであり、 イカリを認め、理解したあと、向かう先だと私は思う。 きょうの最後に、 この「発想のシフト」までをかなり具体的に つっこんで実践している読者のおたよりを 紹介したい。 このおたより、私自身、保存しておいて、 イカッたときに読み返したい。 <発想のシフト、鍛練がいります> むき出しの「イカリ」に触れると、 どうしたらいいのかただ困惑してしまって、 胃に石を飲みこんだような感覚になります。 それで、ふだんから どうすればいいのかを考えているのですが 今のところ、小さな「イカリ」の乗り越え方は 以下のような感じです。 1.自分の「イカリ」を認める こんなつまらないことで‥‥と思えば思うほど、 自分の中の「イカリ」に蓋をしようとしたり、 なかったことにしようとしたり、 正当化しようとしたりするのですが そうすると「イカリ」はもっと主張してきて 身体に出たりするので、 まずは腹を立てていることを自分で認める。 2.パワーゲームを棚上げする 「謝るか、謝ってもらうかだ」とか、 「自分が辞めるか、相手が辞めるかだ」とか、 そういうパワーゲームをいったん棚上げする。 3.検証する 自分が何かおおげさに取り違えをしていないか、 もともと状況や相手に抱いていた悪感情や期待をかぶせて 「イカリ」を増幅させていないか考える。 第三者に話してみるのも一計。 4.ズームアウトしてみる よく考えてみたら、 それはその人の口癖だっただけなのに、 たまたまその日の自分には許せなかった‥‥ というようなことがあるので 「イカリ」にズームインしている視野を少し広げてみる。 「これまではどうだったか」と過去を振り返ってみると、 それが相手のパターンだったり、 自分のパターンだったりということが分かって 腑に落ちることがある。 それが分かると、 「じゃあ、これからどうするか」の ヒントが見えてくることもある。 「相手に謝罪させる」とか そういう短期的なビジョンじゃなくて 「これからどう付き合っていくか」という うまくやるための長期的ビジョン。 5.受け取ることから、差し出すことへの発想のシフト 腹を立てている時は誰でも貧困な発想に陥りやすい。 「〜してくれ」と相手に期待(要求)ばかりしてしまう。 そうではなくて、相手と向かい合う時、 「まだ自分にもできることがあるかも」 と感じられることに ゆるやかにシフトしていけるかどうか。 受け取ることから、差し出すことへの発想のシフト。 実は、誰かに腹を立てることは簡単だけれど、 この発想のシフトはなかなか難しいですよね。 それが「イカリと向き合う」の1に書いてあった 問いと思考、工夫のベクトルを切り替える訓練で、 「イカリ」は、「つくる」に変えていける! ってことなのかなぁ、と。 私もこんなことを自分に言い聞かせないと いけない身であり、まだまだ修行中です。 (上田・病院職員、41才女性) |
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2012-06-20-WED
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