YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson593
  イカリとむきあう − 4.反応の暴力



「人のイカリをもろに浴びたあと、
 なぜ、内臓が固まるような、
 重苦しい負担を感じるのだろう?」

私も以前、中年男性の、理不尽なイカリを
もろに浴びてしまったことがある。

その人は、自分を正当化しようとしてうまくいかず、
他人のせいにしようとし、
それもうまくいかないとなると、
キレて、ことをうやむやにし、
問題と向き合うことから逃げようとした。

しまったな、と思ったのは、
泣く赤ん坊を親があやして鎮めようとするように、
私は、とっさに、
その人を、褒めたり、理解の言葉を注いだりして、
イカリを鎮めようとしてしまった。

すると、その瞬間は、おさまるが、
またイカリ、
また私が、認めたり感謝したりして鎮め、
をくりかえすうちに、

だんだんむこうが、味をしめて、
イカって「褒め言葉」を要求しているな、と
みえすけるようになってきた。

そうなるともう、その人が、怒れば怒るほど、
そのたびに、どんどん
小さく、醜く、卑怯で、不恰好に見えていく。

私は、気を配るのがばからしくなった。
そのときの私の気持ちは、

「ただただ、わずらわしいだけ」

だった。
友だちとか、仕事仲間とか、家族とか、
大切な人なら話は別だけど、
さして付き合いもない人だ。

ケンカをする気力さえ、1ミリもない。

「カンケイを断つなら断て、
 帰るなら帰れ、
 こんなおじさんに怒られても、
 痛くも、恐くもない」
とはおもったが、

さりとて、ケンカする価値もないと感じる人と、
あとあとしこりを残すことになったら、
そっちのほうがよけい面倒だ。
もう一回会うのも、うんざりだ。

相手がそれなりに私のことを大事に思って
くださっていることは、はしばしに伝わってきたので、

どん引きしていく気力をふりしぼって、

相手に理解の言葉をかけ、
なんとかとりなして、その場を去った。
完全に、「忍耐と奉仕」だった。

そのあとだった。

おかしなことに、
帰る道々、胃と腸のあたりが、
セメントづけされたように重い。

夕飯の時間になったが、食欲さえわかない。

「相手が、大切な人にならわかる。
 でも、小さい・かっこわるい・とるにたりない、
 どうでもいい、と思う相手が怒ったからといって、
 なぜ、自分はダメージを受けているのだろう?」

これが長いこと、解けない謎だった。

ところが先日、
親に殴られても志を曲げなかった生徒さんが、
「理由のない暴力なんてコワくない」
と言っているのを聞いて、
はっ、と気づいた。

相手がだれであれ、殴られれば、痛い。

「イカリは、反応の暴力なのだ。」

リアクションにもいろいろある。

たとえば手。
抱きしめるリアクションもあるし、
背中をなでるリアクションもある、

けれど、「手を出したらおしまい」なのだ。

言葉によるリアクションにも、
相手を受け止める言葉、
相手に反発する言葉、いろいろある。

けれど、「言葉の暴力」は、相手を打ちのめす。

同様に、相手の言動に対して、
こちらからなげかえす「感情」にも、
笑う、悲しむ、喜ぶ、やきもちを焼くなど、
さまざまリアクションがあるが、

感情のなかで、
いや、ひげおやじさんの言葉を借りると、
「反応」のなかで、イカリだけは、別。

「イカリは、反応の暴力なのだ。」

好きな人に殴られたら痛い。
でも、どうでもいい相手だったら痛くないかというと
そうではなく、だれに殴られたって、
イタイものはイタイ。

同様に、イカリを浴びたら、それがだれのものであれ、
人はダメージを受ける。

だから卑怯な人はイカリを使う。

手の反応だったら、

抱きしめようとしたら、
相手も自分のことを好きだったら喜んでもらえる。
でも、相手が自分のことを嫌いだったら、
抱きしめようとしたら、引かれる。

言葉だったら、

好意を伝える言葉をかけて、
相手も自分を好きだったら喜んでもらえる。
でも、相手が自分のことを嫌いだったら響かない。

無視されるかもしれないし、それがいちばん傷つく。

つまり、手振り、言葉、感情、
さまざまなリアクションをしても、
それらは、相手が自分をどう思っているかによって、
伝わり方も、響き方もちがう。

でも、暴力だけは、
相手が自分を好いていようが、嫌っていようが、
ダメージという影響を行使するのだ。

相手によって、暴力の持つ意味はちがうけど、
「痛い」という体感は、与えられる。

どんなに自分を疎ましく思っている相手にも、
すくなくとも無視だけはされない。

だから、卑怯な人間が、イカルことで、
有無も言わさず、人に影響していこうとする。

三人の読者は、こう見る。

<僕の中心が壊された>

僕は音響の仕事をしていて、
数多くのアーティストと関わってきました。
自分が好きなアーティストと
直接仕事で接することもあります。

大御所アーティストSさんもそのひとりでした。

僕は大ファンで、
毎回コンサートに顔を出し、
アルバムもすべて持っていて、
ラジオ番組まで録音して聞いていたほどです。
作者も作品も好きだったのです。

ついにSさんと直接関わることになり、
最も重要な部分を任されたのです。

僕はワクワクしたり、
不安になったりというよりも、
その職務を全うする事だけに集中していました。
そういう時に限って相次ぐトラブルに見舞われました。

少し時間がかかってしまった事もあり、
Sさんがこちらに向かって歩いてきて、
「何をやってるんだ! さっさとやれ!」と。

そしてしばらくして音に対しての注文にきました。
「しっかりやれ! ばーか!」と言われ、
「なんでこんな奴にやらせてるんだ! 他の奴を呼べ!」
とさんざん罵倒されました。

僕にも30年のキャリアがあり、
僕を呼びたいというアーティストも数多くいましたが、
ここではすでに人格否定です。
しかも大好きな人に「ばーか!」と言われ続けました。

そんな自分のプライドはどうでもよくって、
ただただその現場を無事におわらせることだけに集中して、
その日は終わりました。

自分のアイデンティティの中心を壊された感じがしました。

家に戻り、SさんのすべてのCDやビデオ、
雑誌や秘蔵のライブ録音のテープなどすべてを捨てました。

そして、スタッフの人格否定もまかり通ってしまう
いびつな世界に違和感を覚えます。
(oshow)


<キレるときにも計算がある>

人がイカリをつい表現する、
それは相手に対する甘えがある場合だと思います。

イライラして、針が振りきれるといいますが、
やはり人間はそんな瞬間も
計算しているのではないでしょうか?

シャチョウさんも、自分より偉い人の前で
同じように切れられたでしょうか?

甘えられる環境や相手だから
切れるに任せたのではないでしょうか。
(Qタロー)


<イカリは連鎖する>

私の職場はまさに「イカリ」の真っ只中です。
私自身を含め10人は「イカリ」に振り回されています。

「人の失敗が楽しい」と言い放ち、
人の気に入らないことばかりを口にする人がいます。

その人の発言ですべての人が振り回され
良いものも悪くにしか見えない環境にまでなっていると。

ひとつの「イカリ」が伝染し
私自身に小さい「イカリ」が
じわじわ浸透してきていているのを
感じた時はいい結果は出ないなと感じたほどです。

何故その人はそうなんだろう、
何故そうなってしまったのだろうと考えた時、

その人が一番自分の失敗を怖がり
人の顔色を見て
行動していることがわかりました。

人の事が気になって
「イカリ」でしか表現できなくなった時は、
自分の自信のなさを表現していると思ったのです。

それと同時に「イカリ」をぶつけられてきた人は
「イカリ」でしか表現できないのではないかとも
思えました。

私自身を振り返れば、
相手に不満があって「イカリ」を抱えている時は
やはりその点に自分が自信がないのと
「して欲しい」の気持ちが
ものすごく強い事に気がつきます。

周りに流され「イカリ」に便乗した時は
そこに自分の意見は存在しません。

「イカリ」に対して「イカリ」で対応するため
伝染していくのですが、
それを自分の所で止めようと試みた人は
膨大なストレスに押しつぶされ
自分もその中に入った方がラクという
選択をする人も中にはいます。

よって悪循環を避けられないのですが、

「イカリ」からは「イカリ」しか生まれないので
やはり対処方法としては
自分の所で「イカリ」をストップする覚悟のある人が
いないとこのままだと感じます。

「イカリ」に振り回されている人に言いたい。
「もう、やめましょう」と。

自分に問いかけたい。
「自分は大丈夫?」と。
(S)



先週までの、
母のように「イカリ」に寄り添う、理解の視点にくらべ、
今週は、議論が戻ったと感じる人もいるかもしれない。

でも、このシリーズの出口に向かう前に、
私自身が、どうしても、
イカリに対する「他人の目」を焼き付けておきたかった。

「イカリは一発でおしまい」

なのだ。
oshowさんのことを、
「たった一回の仕事で我慢がない」という人が
いたとしたら、私はそうは思わない。
一回で充分だ。

イカリは無形の反応だが、
これが、一発殴った、殴られただったらどうだろうか。

それで職を失った人も珍しくない。

イカリを爆発しても関係が切れなかったという人は、
Qタローさんの言うように、相手に「甘え」ているのだ。

少なくとも、
「赤の他人は、一発殴ったらおしまい」、
と心得ておくほうが、
いまの社会の実情には即しているのではないか。

イカリは一度で、信頼を壊すのに充分だ。

なぜなら、これまでの関係が濃かろうが、薄かろうが、
築いてきたものが多かろうが少なかろうが、
暴力のように一瞬で相手にダメージを与えてしまうからだ。

イカルとき、

「そこに、相手という人間への尊敬はあるか?」

「それで、仕事を失ってもいいか、
 関係を断たれていいか?」

「イカリが、連鎖されていくが、それでほんとにいいか?」

たいていのことはイカらなくてもできるし、
イカらないほうがうまくいく。

先週までは母のように優しく、
きょうは赤の他人の目から厳しく
イカリを見てきた。

来週は、イカリから自由になる道を考えたい。

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2012-06-27-WED
YAMADA
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