YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson598
  くだらないことこそ、ちゃんとやれ。
  − 3.表現者とは



表現者とは、
「自分とのコミュニケーション」を尊び
大切にする人であって、
自己愛が強い人ではない。

自己とのコミュニケーションが円滑・自由なのであり、
それは「自分が好き」というのとは違うし、
ましてや「うぬぼれ」でもない。

と、先日気づき、ストーンと腑に落ちた。

長いこと違和感があったのだ。

表現教育の現場で、
「自分が大好き!」と答える人に。

たしかに、
自己肯定感がひくい日本において、
「自分が嫌い」とうったえる人はとても多く、
嫌いじゃ表現は始まらない。

そういう中で、
「私は自分が大好きです!」と
高らかに言える人は、
個性的に見られるし、実際ウケてもいる。

でも、私は、
「自分が好き」にしろ、
「自分が嫌い」にしろ、

言ったとたんに何かが止まる、
「表現」というのとは違うのではないか、
という気がしていた。

表現者というと、
自己愛が強い人のように思われやすい。

それは例えば、
レディ・ガガさんのような表現者たちが、
ときに驚くほど自分の身を飾り立てることがあったり、
自分を愛せないと自分の表現も愛せない
というような考えが根強くあったりするからだろう。

「表現者なんて大なり小なりみんなナルシストだよ」
というような物言いを私自身、聞いたことがある。

でも、私が表現者に感じるのは、
むしろ、その逆。

レディ・ガガさんに至っては、
自分のことが好きで全身を飾り立てているというよりは、
むしろ、自分の身を投げ出すようにして、
表現しているように思えてしょうがない。

たしかに、
人の顔色をうかがい、人の顔色にあわせ、
自分をひっこめて生きている人にくらべ、
表現者は、人目を気にしない分、
自己愛が強いように思われている。

でもそうじゃない、という感覚を
どう説明していいか、長いこと、もやもやしていた。

先日、

大好きなロックのライブに行った翌朝、
いつもより元気な自分がいるのを感じた。

押さえても生き生き力がわいてくる。
掃除や洗濯などが苦にならない。
その感覚は、

「自分とのコミュニケーションが
 とてもうまくいっている感じ」

たとえて言えば、
もし、ここに夫婦がいたとして、

奥さんは家事や育児に追われ、
もう何年も、自分の好きなことをやっていないとする。

奥さんが好きなスターのコンサートがあり、

でも、家事と育児で身動きが取れず、
あきらめていた、
というようなときに、

旦那さんが、
会社を早めに切り上げて、家事も育児もぜーんぶ、
俺が代わってやるからと、

奥さんを、
心置きなく、好きなスターのコンサートに
行かせてあげたとしたら、

翌朝、

奥さんは、
「ほんとうに命の洗濯ができた、ありがとう」と言い、

旦那さんは、
「いやいや、ひごろは、こちらこそありがとう」と言い、

二人のコミュニケーションがよりうまくいっている。

すると、奥さんも、どんどん元気がわいて、
家事も育児も、苦にならない、
というようなことは、おうおうにしてあると思うが、

自分と自分の間にも、同じことが言えると思う。

私は、最初、
ライブに行くことをあきらめていた。

チケットはとうに、SOLD OUT。

「正価以外のチケットの取引は絶対しない」

と心に決めているため、
ツアーの最終日、しかも日曜のチケットを見つけるのは、
絶望的だった。

にもかかわらず、いつまでも、あきらめきれず、
インターネットをつけては消し、つけては消し、
チケットを探している自分がいた。

こういうとき、人は、無意識に
代用品をあてがおうとするもので、

「こっちのライブなら、いまからでも問題なく買えるよ、
 こっちのライブにいこうよ」

と、ほかのライブのチケットに申し込んで
気を紛らわそうとしてみたりした。

でも、他の対象に向かおうとすればするほど、
いま、自分の心がどこにあるのか、
思い知らされるばかりだった。

「自分は本当に、このライブに行きたいのだな」

自分の本心を受け取ってしまった私は、
とにかく、行って、並ぶ、ことにした。

おばさんがたった一人、
当日券の列に何時間も並んだあげく、入れない、
という絵は、かなり「イタイ」。

でも結局、当日券は手に入った。

並んで待ったあと、
やっと入れたライブの嬉しさは飛び上がるほどで、
ライブ後には、魂が整体されたような、
すがすがしさと活力があった。

翌朝、

奥さんが、旦那さんに、
「きのうは、ありがとう!」というように、

無意識下で、
自分で自分にありがとうと言っていたはずだ。

逆にもし、あそこで、すりかえたり
動かなかったりしたら、

声に出したり、意識したりはしないだろうけど、
水面下で、自分に、

「いつも、そうやって、ぐじぐじと行動しないんだから」

「あーあ、結局そうやって、好きなライブひとつ
 行かせてくれないのね、ワタシ」

と、なじりあったり、小さく失望しあったり、
していかもしれない。

大事なのは、
自分とのコミュニケーションが
きちんととれていることだと思う。

自分が好きであろうと、自分が嫌いであろうと、
どっちでもいいというか、問いはそこではないというか、

自分が好き、嫌いと、
決めつけてしまったとたんに、

それ以上知ろうとするコミュニケーションが
とまってしまう気がするのだ。

好きな人とのコミュニケーションが
必ずしもうまくいくか、というとそうでもなく、
好きすぎて、カンに触ったり、エゴが出たり、
好きゆえに、相手におもねったりして、
かえってうまくいかないことさえある。

一方、仕事などでは、
人間的な好き嫌いとか、相性の良し悪しをこえて、
信頼関係を結んで、ひとつの目標にあたれることがある。

好き嫌いで相手を観ず、
常に謎として、異質な相手と
コミュニケーションをとっていこうとする。

理解と表現のたゆまぬ努力の積み重ねから
信頼関係が生まれている。

表現者もそれに近い。

自分のなかにある想いや考えを、
常に外に通じさせていくのが仕事だから、

他者に通じさせるまえに、
まず自分と通じていることの必要性をよくわかっている。

自分とさえ通じていない表現が、
他に通じるわけがない。

そこで、まず自分とのコミュニケーションを大切にする。

安易に、好き嫌いに着地せず、
常に、謎として、疎通をはかり、
自分とのコミュニケーションを怠らず続けていく。

つまり、自分とのコミュニケーションに堪能なのであって、
自己愛ではない。

これが、日々の、くだらないことも、ちゃんとやる、
に通じていくのだと私は思う。

最後に、きょうも、
日々、たゆまぬ努力で自分との疎通を図る
読者のメールを紹介して終わりたい。


<石をダイヤモンドにするもの>

くだらない、と思って、やってみたけれど、
やっぱりこれはくだらないや、
という直感通りの結果も、もちろんあると思います。
でも、私の経験では、くだらないと思った物事が、
くだらないまま終わったことはありません。

たとえば、ニンテンドーDSの絵心教室というソフト。
所詮ゲームでしょ? と思ってやってみたら、

自分は何を表現したいのか?
どうやってただの鉛筆という機能で表現できるのか?
など、自分自身の思想と技術を問われたように感じ、

昔から工作や美術が苦手で、
手の不器用な私でも、絵に興味を持ったり、

意外にも絵を描くということの
面白さや奥深さを味わうことが出来ました。

ゲームはくだらない。
確かに、それはそうかも知れません。

でも、私にとっては、
ただの息抜きの娯楽であると同時に、
何らかの教えやアドバイスのような存在にもなっています。

くだらないと判断した物事は、
不純で価値のない、ただの石ころのように見えても

実際に手に取り、磨き、加工をしてみたら、

世界でひとつだけの
自分だけの、ダイアモンドのような
物事や経験になるかもしれないと思います。
(あさだい)


<くだらないことなんかひとつもない>

ホントは自分は
誰がなんと言おうがやりたいと思っていたんだけど、
他人のその評価が気になってブレーキをかけていた。

私は、最大の味方である自分の存在を、
あまりにも身近すぎて失念していたんじゃないかと考える。

なにをもってくだらないとするか。
そんな突き詰めたら、
自分が生きてることすら
「くだらない」ことになってしまう。

自分が生きていること、自分の考え、自分の行為、
どれだってひとつも「くだらなくなんかない。」でしょ。
(みろく)


<ちゃんと自分に向き合っている夫>

先日、留学する夫についていくとメールをしたさんごです。
昨日、一足先に夫が日本を発ちました。

その前日の夜。
寝付く直前に夫がぽつりとつぶやきました。

「留学、そういえば夢だったんだよなぁ。」

聞いていた私はじんわり涙が出てきてしまいました。

そうだった。いろいろな準備に追われ、大変で、
そのことを忘れていたなぁ。

行けたら行きたいくらいの気持ちから始まった夫の夢、
でも「くだらないこと=ラク」ではなかったのです。
決まってからの一年半、まさに夫は自分との戦いでした。

夫が、自分にちゃんとむきあって、
くだらないことだけど
その気持ちを大切にしていくと決めたから、
私も何が何でもささえたいと思えました。

それは、もしかしたら私自身が何かしたい!
と思う「わくわく」とはまた違う気持ち、
別次元な気がします。

でも、どちらも私にとって、
とってもとっても大切な気持ちです。
(さんご)


<明日から>

「最大の敵は自分だ」これを聞いてはっとしました。
まさに自分が当てはまっていると感じたからです。

私は2年半前(31歳の時)に脳梗塞になりました。
それで失語症になったのですが、今は回復しつつあります。
今は資料館に勤めています。

私は、これまで
「失語症になったんだから、できなくて当たり前」と、

友人たちは「外部の電話はとれるんじゃないか?」と、
多分、私も外部の電話は取れるのではないかと
思ってたのですが、取りませんでした。

多分、私の「勇気」が足りなかったんだと思います。

ああ、友人たちも認めてくれたのに、
自分が最大の敵になっている、
これをくい止めなくてはならない、と痛感しました。
明日から電話に出てみよう、そう思ってます。
(hibiki)


<日本では何かと問題視されるピアスですが>

読者さんからのお便りで
ピアス、茶髪にチャレンジしている方の
多いことに驚きました。

私は18歳から単身渡米してから
十数年間の海外生活をしています。

ご存知とは思いますが、
アメリカでは生まれたばかりの女の子の赤ちゃんに
ピアスを開ける親が多いです。

中学・高校では好きな色に髪を染めています。

それは着る洋服や、持つカバンで
自分の好みを表現するのと同じ
自己表現の1つの手段のようです。

行動してみると、成功しても失敗しても、
気に入っても、後悔しても
新しい世界が見えそうですね。

私は数ヶ月前にレーザー脱毛を始めました。
息子をお迎えに行く時間が少し遅くなりますが、
自分がやりたかった事、始めてみました。
小さい子供を保育園に預けている母親が美容のために、、、
と思う方もいるでしょうが、
そこはONとOFFの使い分けでカバーです!!

自分自身のケアできているという満足感。
それに女性としてキレイでいる努力をしているという姿勢。
それだけの事だけど、自分に自信がもてたりするから
不思議ですよね。

もっと内面も外見でも自己表現しましょうよ!!
(Aska)


<スタッフのこと、ちゃんとやりたい>

今、中国に駐在して
自動車の新工場の立ち上げ業務をしており、
採用したての現地の若い(24〜5歳)スタッフと
日々仕事をしています。(自身は今年32歳)

立ち上げのためのいわゆる「重要な」ことがら以外に、
「今、自分がやっているべきことか?」
と疑問に思ってしまうような至極基本的な、
あるいは日本人なら常識だろと思うようなことの説明と
指導に日々とても多くの時間と体力を費やしています。

自分の中でも葛藤があって、
「でも今、このスタッフときっちり向き合うのが必要だ!」
「いくらこっちが必死になっても相手は理解すらできず
 空回りなのでは?」
「これって自己満足?」
「自分でやっちゃえば早く帰れるのに、、、」

自分にとって「くだらないこと」は
「期待どおりでない現地スタッフと、
 膨大な時間を体力を使ってつき合っていくこと」
の中に詰まっているんですが、

いろんな言い訳をして、
ちゃんとやりとげたいという意志を
妨害してしまっていたような気がしました。

このコラムのおかげで、
頭がちょっとスッキリしました。
自分の中にいる小姑と
うまいことつき合っていきたいと思います!
(木村@中国吉林省)


<自分に耳を傾けられるようになった>

私は大学時代の後半、うつ病になりました。

厳しい両親のもとで育ち、
幼稚園の時の母と担任の先生との連絡帳にも
『いい子すぎて怖い』
というようなことが書いてありました。

それでも高校時代は部活に没頭し
好きなように過ごせました。
思い返す度にキラキラまぶしく見える思い出です。

しかし、その結果かどうか、大学受験に失敗。
一年間のストイックな浪人生活を経て大学に入りましたが、
高校時代に部活に没頭した苦い経験から
大学では学業に専念しようと決めました。

その途上、実家の家業が倒産しました。
さまざまなものへの喪失感で
自分自身を維持することが難しくなってしまいました。

病気療養で大学は留年、
自分を立て直せないまま就職活動したものの、
就職氷河期真っ只中だったこともあってか
卒業後は正社員になることもままなりませんでした。

でも、今思うと、私は
くだらないことを粗末にしすぎた、と思うのです。
くだらなくないことだけをやろうとしていた、
ともいえます。

浪人時代、大学時代を通して
やるべきこと、あるべき自分の姿を追いかけはしましたが

自分のしたいことに目をつぶることが
「正しい努力のあり方」のように
誤解してしまっていたのだと思います。

浪人時代などは本当に勉強と生活の維持以外のことはせず、
テレビも持たずに勉強ばかりしていました。
大学時代も、部活だサークルだと浮かれる友人を尻目に
「これでいいのだ」と部活にもサークルにも
背を向けていました。
『命を燃や』さないで日々暮らしていたのですね。

でも、、、結果私は精神を病んだのです。

今現在、私は4歳と2歳の子育てに追われています。
大学時代なんかよりよっぽど苦しくて重い
逃れ難いストレスです。

しかしながら、、精神的にははるかに健全です。
あの苦しい精神状態に至ることはありません。

うつ病になった反省を踏まえ、
私は自分に耳を傾けることが
できるようになりました。

大好きなドーナツショップに通ってカフェオレを飲んだり、
倹約を大事にしているようなふりで、
好きなことにお金を使ったり‥‥
(そうは言っても数百円の世界ですが。)

そんなどうでもいいようなことで
いい妻、いい母、いい嫁から
一日数分でも離れる機会を作るようにしています。

「いい」ということが、本来の私を抑圧するということが
病気を通してよくわかったのだと思います。

「よくない」自分の欲求に耳を貸すことが、
自分の味方をしていることになっていると
肌身で感じる日々です。

大学時代に没頭できるなにかと仲間がいたら、
あの喪失感ともう少しうまく
つきあえたのではないだろうか。
自分がストイックと引き換えに手放したもののすべてが、
本当はあの日々を輝かせるカギだったのではないだろうか。

今も「あの頃の自分を無駄ではなかったと思いたい」
という「くだらない」動機でこれを書いています。
(Sabine)


<突き動かされていい!>

私は今40代後半ですが、
あるバンドを好きになりライブに行きだしたのが6年位前、
中学生のときから憧れてたピアスをしたのも同じ頃です。

最近、年が気になって、
ライブに行きにくくなってきました。

「くだらないことこそ、ちゃんとやれ」という言葉に
心がふるふると震えました。

あらためて感じたこと。

それは、自分が好きなこと、やりたいと思うことに
突き動かされていいんだ。
そして、それは、とても幸せなことなんだってことです。

生きる喜びであり、
自分を大切にすることに繋がっていくんですね。
(いのうえ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-08-01-WED
YAMADA
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