YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson601
  恐れを伝染させない言葉−3.受け流すチカラ



心配の言葉にムッとした、
あるいはムッとされた経験はないだろうか?

とくに昨年、
次の読者のような人も多かったのでは‥‥。


<去年、震災のときに>

心配しすぎて
SNS上の友だちを失ったという
先週のカケルさん、
わたしそっくりな経験をしました。

昨年の大震災の時に、ツィッターで。

「心配して声をかけすぎ」て
気付いたらフォロー外されてました。
(泉鈴)


<海外に行ってしまう姪っ子へ>

今回の「恐れを伝染させない言葉」は
いまの私の心境にぴったりです。

姪っこが8月末にカナダに旅立ちます。
今後、彼女が日本を拠点にすることは、
無いと思います。

オババカの私が、
目に入れておきたいと自慢している可愛い姪っこが、
遠い海外に、しかもずっと行ってしまう。
想像しただけで、淋しさに泣けてきますし、
心配で心配で仕方ありません。

実は彼女が海外の大学を受けると聞いた時、
私は反対しました。
「良く分からない学校より、きちんとした日本の大学を」
「海外で人に尽くすというが、
 日本にだって困っている人はたくさんいる」

ですが、
あの受験のときと今とでは、
自分の気持ちが違ってきています。

なにが違うか?

姪っこへの絶対的信頼感です。
彼女には苦難を乗り越える力があると確信しています。
苦難が起こることが不幸ではなく、
苦難に負けることが不幸。

笑顔で「大好きだよ、行ってらっしゃい!」
と見送ろうと決めました。
(るう)


<重くて重くて重くて>

私は、やみくもな心配で
がんじがらめにされた事があります。

物心ついた頃に病気をし、軽い障害が残りました。

障害はちよっとした不便であって
悲しんだり哀れんだりする類いのものでは決してない。
でも、母にはそれが理解できなかった。

親孝行って二つあると思います。
一つは、成績がいいとか、大会で優勝したとかいう親孝行。

なにも取り柄のない自分にできることといえば、
警察のご厄介にならないとか、借金をしないとか、
寝込まない、など最低限の心配をかけないこと。
借金とかで心配をかけてる兄弟がいるので、
せめてものそれが自分に出来る親孝行だと思ってました。
でも母に、

「障害がある、それだけで心配で心配で心配で、
 どれだけ心配かければ気が済むんだ」

と言われました。
そう言われた時に私の中で崩れるものがありました。
さすがに、母の心配とは、もう付き合えないと感じました。
以来接触を絶って2年になります。

この2年の私の精神状態は凄く安定しています。
年老いた親が気にならないわけではありませんが、
接触したら、また同じ事の繰り返しかと思うと
2年もたつのにまだ怖いです。

過度の心配は重くて重くて重くて。
(初メ)


<心配されても嬉しくないです>

心配されるのがキライでした。
亡くなった祖父は、心配を口で言うのではなく、
先回りして世話を焼く人で、
そんなふうに世話を焼かれるのが大キライでした。

今、職場の同僚に、先回りして世話を焼く人がいて、
もうちょっとほっとけばいいのにと、苦手です。

心配ってのは、
あんまりするもんじゃないと思ってるんです。

「だいじょうぶじゃないけど、こうしたいからやってる」

ってこと、人は多いですよね。
そこを心配しても、あまり意味がないな、と思います。

「信じる、祈る」

そんな気持ちに変えたほうがいいんだなと思います。
相手の心配するひまがあったら自分の心配しろ、
って言うくらい、
自分の仕事に没頭するとか、自分の趣味に没頭するとか、
が大事なのかな。
(じむしぃ)



私は最近、初めてピアスをあけた。
何をどうやったらいいかわからなかったけど、

「先にそれをやった手近な人に、安易に聞く、
 ということをしなかった。」

手近な経験者といえば、
ネットの口コミなどがあるが、
私には、コワい経験があるのだ。

数年前、
美容院に行ったときに、
ちいさなハゲが1つ見つかった。

1センチに満たない円形脱毛症で、
美容師さんは、
「気にしなかったら3ヶ月で治るよ」
と言ってくれたのだけど、
人生で初めてのことだったので、
どうしよう、どうしよう、とオタオタした。

で、ネットを検索して経験談を拾い読みしてしまったのだ。

いまから思えば、
良心的な書き込みをしている人も、もちろん
多数いた。

でも、
「最初は一か所だったのがどんどん増え‥‥」とか、
「1年経っても、2年経っても治らず‥‥」とか、
恐怖心をそのまま吐き出すような書き込みも多々あり、
不安にかりたてられて、
どんどん読み進めていくうちに、

私は次々と恐れに感染していき、
体の芯、いや、心の芯まで
恐怖にとりつかれてしまったのだ。

いまも、あのいやーな恐怖を思い出すと、
体の芯が冷たくなり、全身に嫌悪感が走る。

「いかん! こんなことをしていては
 よけい髪に悪い。」

と私は気持ちをなんとか切り替え、
キッパリとネットを見るのをやめた。

そしたらほんとに3ヶ月ちょっとで治ってしまった。

以来、私は、
なにか新しいことに挑むとき、
「まずネット」とか、「まず身近な人に聞く」
というのを絶対しないように、心がけている。

ネットの口コミとか、
身近な経験者が悪いということでは決してない。
私のほうに欠けていたのだ。

「恐れを受け流すチカラ」が。

現在アメリカにいる
読者はこういう。


<恐れもブロックできる文化>

18歳から単身渡米し、
十数年間の海外生活をしています。
「伝達方法」は「お国がら」もあるんだなと
再確認しています。

私も、日本人の友人とは、
「頑張って」や「気をつけて」という言葉をよく使います。
とても抽象的ですよね。

こちらで現地の人との会話では、
屋外イベントに行く友人には、
必ず「楽しんできてね」といいますね。

そして最後に「水分補給をしっかりね」とか、
「帽子をかぶっていった方がいいよ」
等の言葉が自然と続くと思います。

時には「すーっごい暑くなるみたいよ〜」とか言って
脅かしたりしますが、結局、

「暑さ対策していくから大丈夫よ」

的な楽観的な答えが返ってくることが多いように思います。
人の言葉にそれほど影響を受けないんでしょうね。

人は人。自分は自分。個人を確立させている。

日本人は
集団や「輪」を大事にする文化の中で育っているから、
周りの人の意見に影響を受けやすい傾向にあるのかな。
(Aska)


<恐れを受け流すチカラ>

「気をつけて」と言ってしまうのは、
その人のことを思うがゆえに。

それと同時に、自分の心を落ち着かせるために
「気をつけて」と言っているような気がします。

「気をつけて」と言うと、
「気をつけて行ってきてくれるはず」という
祈りや願いのようなものが心の中に出てきて、
なんだか心配から解放されるような気になるのです。

先日もパパと息子が2人で出かけるとき
わたしは「気をつけて」と言っていました。
本人たちは浮かれて「は〜い」と返事しただけでしたが、
わたしは「気をつけて、
楽しんで帰ってきてくれますように」と
祈りに近い心境で彼らの後ろ姿を見送り、
その後、彼らが元気に帰るまで
「心配」から解放されていました。

恐怖を伝染させるかどうかは、
その言葉を受け取る側の心意気次第なのかもしれません。

恐怖の心を周りに配り、恐怖から解放される。
恐怖の心を配られた側は、
それを受け流し、気にもとめない。

そうやって心を健康に保つのも、
悪くないのかもしれません。
(utana)


<客観的な事実を基に>

自分が不安になって、
大変ね、頑張ってねと、悪い予想を連ねてしまう私。

客観的な事実を基にした、
いい予想を伝えられるようになりたい。

自分の経験や、不安という
バイアスがかからない現状認識ができるよう、
フラットな状態で日々の出来事を受け止めたいです。
(ひと それぞれ)



読者たちが言うように、
どんなに心配の言葉をかけられたとしても、
脅されても、

「それを恐れなければいい」のだ。

あなたはあなた、私は私。
私はちゃんとしてるから大丈夫! と。

なのに、私も含め、多くの人にはなぜ、
「恐れを受け流すチカラ」がないんだろう?

今回ピアスをあけるのにあたって、
まず私がしたのは、

「専門家の書いたものを1冊通して読む。」

ということだ。
専門家の定義は、私にとって2つ。

●体系的な知識を持っていること。
●臨床経験が豊富であること。

ピアスの場合は、ピアスを研究している
研究者とか、お医者さん。

同じお医者さんでも、
研究ばかりして患者に接していないと困るので、
いまも現場で、
たくさんの人にピアスをあけたり、
炎症をおこした人を治したり、経験が豊富な人だ。

で、たった1冊でも、
専門家の書いたものを熟読すると、
驚くほど恐怖心がなくなる。

読む前は、ネットのピアストラブルの写真、
耳中が真っ赤に晴れ上がった人など、
コワくて、コワくて、
とてもじゃないけど見られなかったものが、

お医者さんの書いたものを読んだ後は、

「あ、この人は、金属アレルギーだな」
「あ、たしかに、こんな短いピアスだと耳にめりこむな」
というふうに、
原因と結果、症状と対策が、
素人ながらも浮かんでくるので、
恐くないし、むしろ、向学心さえもって直視できる。

「ピアスを夏場あけるとコワいよー」
と、たとえ脅されたとしても、

「だいじょうぶ。
 夏場は避けるという風評はたしかにあるけど、
 私の行く病院では、夏場は関係ないと言っているから、
 とりあえず、お医者さんの言葉のほうを信じてみる。」

と受け流せる。

思うに、
ネットなどの口コミの知識は、断片、断片なのだ。

また、体験というものは、
強烈で、まぎれもないから、
「当事者だから正しい」と、
自分のレアな経験を、
万人に押し付けてしまうということが起こりやすい。

一方で、専門家の知識は、
「原因がこうだから、結果がこう、
 ピアスの歴史がこのように流れてきて、
 今がこなっている」
というように、体系的だ。

だから、たとえ一冊でも、
自分で考えたり、違和感を持ったり、判断していくための
基盤ができる。

で、
ネットの口コミや、身のまわりの友だちなどの
経験者の話は、

1冊読んだ後に、見聞きすると、
とてもおもしろく聞けて、役立つのだ。

王道というか、標準レベルのことが
ひとおおりわかったうえで見聞きできるので、

「これはデマだ。」
「これは調べずにいい加減なことを言っている。」
「これは、お医者さんも知らない裏ワザだ。
 いいことを教えてもらった。」

王道を押さえたうえでの、多様性、
というところで読めて役に立つ。

私にとって、
恐れを受け流すチカラとは、
まず、必要最低限の
体系的な知識の基盤をつくることからだ。

あなたにとって、
過剰な心配や、恐れからくるよけいなおせっかいを
「受け流すチカラ」は、
どこからきているだろうか?

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-08-29-WED
YAMADA
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