YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson606
      人の品  − 3.砂の金



自分の人生を降りてしまう人と
降りない人の差は、
紙一枚のわずかではないか?

私が書き始めて3年経つまでは、
やめようとは一度も思わなかったけれど、
力の最後の一滴がつき、
もう続けられないのではと思ったことは
何度かある。

不思議なことに、

そんなときどうしてか、必ず1通、
読者から腹にしみわたるメールが届いた。

1通に支えられて私はここにいる。

そう書いた先週のコラムに、
こんなおたよりをいただいた。


<砂金すくい>

「人生を降りるも降りないも紙一重」

ズーニーさんは、
必ず届く「偶然の一通」によって踏みとどまれた
と仰っていましたね。
それを読んだ時、ふと頭浮かんだのは、

“砂金すくい”でした。

砂金の出そうな川に目星をつけ、
砂を掘り起こして、
流水で洗いながら砂金を選別する。

熟練者でも1日がかりで得られる金の量はわずかで、
割に合わないことが多いと聞きます。

自分を生きることと、砂金すくいは似ている。

どろどろな砂の中から
微量に含まれる金をすくい取る涙ぐましさとか、
諦めかけた時に偶然
見つけたかったものがあらわれることとか。

なぜ、諦めかけた時に偶然が必ず起こるのか。

仮説ですが、無意識に
偶然が起こりそうな所を探しに行くのかなと思います。

ズーニーさんは、「偶然の一通」の不思議について
考えたことはありますか?
(ひとみ)


<四角い空>

先週の“紙一重”のメール、
とても共感できました。

過去にどうしようもない男性とばかりつきあったので
隣で眠る男の寝顔を見ながら
「このまま首を絞めて殺してやりたい」と
衝動的に思ったことが何度もあります。

ギリギリの所で踏みとどまれたので
今、私はここにいます。

子供の頃、すぐ近くに刑務所がありました。

住宅街の傍の刑務所なので
塀の周りは犬の散歩や子供の遊び場や
ジョギングコースにもなっています。

塀の中からはスポーツ大会の様な歓声が
年に数回聞こえるくらいで
いつもとても静かでした。

軽い刑の人ばかりなのか
草むしりなどで塀から出て来られる日もあるようで
近所で受刑者と顔を合わせたことがありました。
塀にボールをあてて一人遊ぶ私を
優しい顔で見て転がったボールを返してくれていたのを
今でもしっかり覚えています。

あのおじさん達と自分が見ている空は
同じでちゃんと繋がっているのに
あの人達には四角い空しか見えないんだと思いました。
犯罪を犯したらきっと
偏食が酷かった私は自由を奪われるだけでなく
嫌いなものばかり食べさせられて
あの塀から出てこれないのは嫌だなと
子供だった私の胸に刻まれました。

隣に寝ている恋人を殺そうと思った時に

小さい頃のことがふと、思い出されて
こんな奴の為に不味いものを食べて
四角い空を見るのはごめんだと思いました。
そんな気持ちがきっと私を
犯罪者にしなかっただけなのかも知れません。

テレビのニュースで殺人事件が報じられた時に
もちろん、欲や憎しみだけの悪意の塊の事件もあれば
「がんばってきたのに疲れたんだな」と思うような
救いようのないこともあります。

例えば家族の介護を献身的にやってきた人が
ある日疲れて手をかけてしまったとか。

いろんなことで困り果てて一家で心中をしようとしたとか。

献身的に尽くしてきた優しい人が
一瞬のことで犯罪者になってしまう。

誰かが助けようとしてくれている声も聞こえず
命を絶つ以外の方法もあるはずなのに
それさえも見失ってしまう“一瞬の隙”は
日常にいくらでも潜んでいそうに思います。

善人が悪人に変わる時
大きな波に呑み込まれ犯罪に巻き込まれてしまう時
一生懸命生きてきた人がある日
自分を捨ててしまうことも
色々考えると普通のことのように思えます。

だからこそたった一通のメールや
たった一冊の本の一行など

会ったことのない人に
私も何度も何度も今まで救われてきました。
(れん)



たった半年あわないうちに、
同一人物かと疑うほどに品を失った友人。
(くわしくはLesson604「人の品」に)

後日、私はまた、友人のマンションをたずねた。
友人のいちばんの親友を伴って。

私ら3人は、ほんとに仲が良くて
こうして3人いっしょに部屋にいれば、
いつもは、うるさいほどに、ふざけあい、話しまくった。

けれども、そのときばかりは、
言葉がまったく出てこない。

ほんとは、友人が変わり果てた事情を聞きだしたり
しなければならないのはわかっている。

でも、ひと言話すたびに、
友人のリアクションが、以前とは別人である。
そのことに肝が冷えて、何も言えない。

日も暮れて、3人で夕ごはんを食べに行くことにした。

お店に行くまでの道で、
いくつか細い路地を見かけた。

「友人が、この細い路地に飲み込まれて、
 二度と帰ってこないんじゃないか。」

そんな感覚に何度か襲われた。

友人の後ろ姿が、どこかこの世のもので無いようで、
恐ろしく哀しかった。

私ら3人は、「いま」話さなきゃならないことは、
なにひとつ話せなかった。
当然、未来は語れない。

唯一、口をついて出てくるのが昔の話だ。

それも、なぜか、たわいのないことばかり。
ばかやって、大笑いしたことばかり思い出されて、
そのときばかりは、3人とも声を出して笑った。

読者のひとみさんは、問う。
「諦めかけた時になぜ偶然が必ず起こるのか?」

もちろん、
崖っぷちにいる人は、嗅覚が鋭くなるから、
というような説明はできる。

腹がいっぱいなら、
三軒さきで魚を焼いている匂いさえ
気づかないかもしれない。

腹がすいて、もう、食べなければ死ぬほど
追いつめられていたなら、
1キロ離れたところで、パンを焼く匂いさえ
嗅ぎつけるかもしれない。

私も、平穏なときには見過ごしてしまうような、
読者のまごころに、崖っぷちだからこそ、
敏感になり、気づくことができたのだとも言える。

でも、ここで、1つ問題がある。

そのときメールが1通もこなかったら?

つまり、1キロ先にも、2キロ先にも、
いや100キロ先にも、
1個も、なんの食べ物もなかったら?

いくらこちらが、追いつめられて、
嗅覚が研ぎ澄まされていても、救われようがないのだ。

私にはなぜ偶然の1通があり、
友人にはなぜ偶然は起きなかったのか?

私は思う、

「そこには理不尽なまでに理由はない」と。

れんさんの言葉を借りれば、
土壇場で1通が届くことも、
土壇場なのに1通も届かないことも、
この世の中には「普通のこと」として、
どんどん起きているなと思う。

私が、偶然の1通に支えられてきた3年間も、
たとえば、
「私がそれまで読者を励まそうとしてきたから、
 窮地に励まされるのだ」というような、
ついつい理由づけをしたくなる。

それは、つらいときに自分を鼓舞するのに
とても都合のいい理由づけだ。

けれど、私と同等どころか、私より優れた書き手が
世の中にはごろごろいて、
私よりずっと読者の役に立っているのに、
窮地で、なんの救いも得られず、
闇に向かった人もいる。

災害のようなものだ。

災害が起きれば、それまで、
身を削って人の役に立ってきた人が一瞬で
亡くなられることもあり、
とんでもない極悪人が生き残ることもある。
極悪人だからといって死ぬこともあり、
善人が奇跡的に助かることもあり、
そこは、無差別におこりうる。

もちろん、自分を研ぎ澄ましたり、
諦めないという強い意志があれば、
自分を降りない可能性は高まるけれど、

最後の最後のところで偶然が起きるか、起きないか、
そこは無作為だ。

私たちは、それくらい、はかない存在だと思う。

はかないからこそ、
自分が、偶然出くわした1通はかけがえなく、
自分も、だれかの偶然を起こすかもしれない存在として、
日々をちゃんと生きなければ、と思う。

例の友人が、
いまどうしているか?

友人は、いま元気にしている。

時間がかかったけれども、
まわりの支えもあって、徐々に自分を取り戻し、
いまは、自分の家庭もあり元気にしている。

あの日、3人で夕ごはんを食べたとき、

何をなしたとか、すごい仕事をしたとか、
そんな意義ある話でなく、

昔、ただただ、たわいのないバカをやって、
ただただ無邪気に笑い転げた時間ばかりが思い出され、
私たち3人は、そのときだけは、
声をあげて笑った。

もしかすると、その瞬間が、
友人にとって、たくさんの砂の中に見つけた金、
だったかもしれない。


読者のおたよりをいくつか紹介して今日は終わりたい。


時折、「存在感がある」という
コメントをもらいます。

みんながいつも自分らしくあれるわけではない。
僕自身にも、不遇、とまで行かなくても、
役割を演じなければならなかった時期がありました。

そのとき、その役割に合う姿に「変身」しながらも、
変身スーツの内側から、素の自分を滲み出すことに
挑戦し続けた。

もし、僕が何かしらの「品」のようなものをまとえている
としたら、変身スーツの中でびっしょりとかいた汗が
光になったんだ、と思います。
(ひげおやじ)


ほんとうに言い訳の多い人間です。

昨日、2013年の東京マラソンの抽選結果がきました。
マラソンはその人の性格が出るといいます。
今度こそ、言い訳をしない走りをします。

好きなものを手放さない
そう決めたら、いつかわたしにも品が備わると信じて。
(キムコ)


「どーでもいい」
品を無くす魔法の言葉。

「カンケーないし」「べつにー(どうだっていい)」
自分じゃなくなるから人の目を気にしなくなる。
人の目を気にしないからモラルだって気にしなくていい。

「どーでもいい」は無力感の表れ。
何故「どーでもいい」と言ってしまうほどの
無力感に囚われるのだろう。
(みろく)


ダメな自分だと思った途端に、
自堕落になるように思います。

セルフネグレクト。
自己養育放棄。

先週の、留守宅にお金を置いて行ったお母様。

搾取されてると、はたからは見えても、
与えていたんでしょうね、お金を。愛を。
人生の先輩にはやられっぱなしだ。

今日を、私を、丁寧に生きよう。
できれば笑っていよう。
(ひと、それぞれ)


人の品、
ズルイことをしない人かなと思いました。

自分だけ、目先の利益というか、ちっちゃな欲に流されず、
こう生きよう、こうでありたいと思う自分に、
真っ向取り組んでいる人。

また、あしたも元気で職場に行けそうです。
(じむしぃ)


品とは何なのか。
人が見ている場所でも、
お天道様しかみていない場所でも
自分を偽らない人かなと思います。

もし偽っても、落とし前をつける人。
言い訳しない人。
卑怯な真似はしない人。

皆さんのメールに出てくる品のある方達は、
諦めなくてはいけない状況にいるからこそ、
どうでもいい余分な物がないから
品が生まれたのかなとも思いました。
(りんご)


ズーニーさんが文章講座の女性に「品」を感じたのは、
彼女が自分の手で道を切り拓き、
今なお謙虚に受け止めておられたから、と推測しています。

ドヤ顔で、すごろくの「上がり」を手に入れたように
自ら喋りまくるようなひとに、品は感じません。
そういう“自分プロデュース臭”が、
その女性からは感じられなかったのではないかと
思いました。
(あずき)


私は大学を1浪4留しても卒業出来ず、
「生きる価値なんてない」と思って、
日々、心の片隅に「死にたいという」
という想いを持っていましす(た?)。

自分が生きる事を
他者の評価に委ねていた。

「品」が
「自分自身が発する意志」によって決まる
としたら、気にするべきは
「自分自身の生きる意志」であるんだ
と気づかされました。

今、大学留年時代から働いている
コンビニエンスストアの店員から
新たな歩みが出来ないかと考えています。
(世)


自分を生きるという言葉を考えてみました。
私にとって、自分の家族が健康で、
安心して暮らせる生活基盤を作る為に、
いろんな役割を演じています。

自分らしくとか、自分のあるべき姿、
自己適性とかは考えない。
他人(家族や職場の関係者)に必要な役割を
必要場面で演じて、生きる。

自分を生きるとは、自分の芯=信念を持ち、
その芯が他人の為にも少し役立つ
くらいのものであれば良いと思います。
(タカタカ)


先週ご紹介いただいた、メイです。

お友達は自分を手放そうなんて思っていなかったと思う。
多分、楽になりたかっただけなんじゃないかな。
自分を貫くのにもう疲れちゃっただけ。

圧倒的な力にそのまま流されたほうがラクなときもある。

Sarahさんが最後に書かれていたように
弱さが入り込んでくると、そのままなし崩しに
流されてしまうと思うのです。

そうして自分で考えることも立つこともできなくなり、
自分が消えてしまったのではないかという状況に陥る。

ふと気が付けば、
過去の積み重ねてきた自分に顔を合わせることができなくなる。
「今まで積み重ねてきた自分」と対峙できないから、
自分を見ることをやめる。
自分を見ないから、知らないうちに自分を見失う。

譲っちゃったんですね、弱さに。
それが「自分を降りる」ということなのかなと思いました。

でも、降りたらもう二度と這い上がれないかと言うと、
そんなことないと思うのです。

誰にでもその「一枚の紙」というのは存在していると思うのです。

形も色も何もかも違うから、気付くかどうかも自分次第。
しかもどのタイミングでその一枚を掴むかも人それぞれ。

でもきっとその1枚は、そこにある。

人間はそんなに柔な生き物じゃない。
(メイ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2012-10-03-WED
YAMADA
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