おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson613 あなたには表現力がある −2.表現する側へ だいすきな音楽だけど、 このところ妙な気持ちになる。 ライブのDVDを繰り返し見たり、 ユーチューブで一般人のカヴァー演奏を 次から次へと検索して見たり、 パソコンのこっちで、 ひとしきり、のったあと、 すーっと虚しくなる。 「いつまで画面のこっち側で、 指をくわえて、眺めているつもり? 音楽は一生、消費するだけでいいの?」 そんな「問い」がつきあげてくる。 私は音楽は1ミリも何にもできない。 ただ姉が音楽をやるので、 幼いころからずーっと、憧れだけは くすぶり続けている。 姉のピアノの稽古にくっついていき、 ドア越しに、聴音のやり取りを聴いて育った。 音が変わるたびに、 場の空気が変わっていく。 こども心に、「あそこは世界がちがう」と感じていた。 もちろん趣味で、だけど、 いつか、なにか、楽器ひとつくらいは、 ひけるようになりたい、と思いつつ、 「いつか、なにか」で、 なんにもせず、 結局ここまできてしまった。 「一生、表現は消費する側でいいのか?」 これは、会社を辞めて、次の進路が見つからない自分に、 問いかけていた問いでもある。 講演は、聞く側、 本は、読む側、 映画は、見る側、 で一生終わってしまって、ほんとにいいの? そして、2000年5月17日、 初めて山田ズーニーとして このコラムを書いた日、 あれが、生まれてはじめて、 書く側に挑んだ日だった。 まるで、真っ暗な底の見えない谷に、 まっさかさまに飛び降りるような感覚だった。 決してオーバーじゃない。 これでも、まだ、言葉が足りない。 底の深さは、 表現する側と、消費する側の溝の深さ、 表現する側にまわってくる人は、 いったん谷に落ちて、 それからはいあがってくる。 それはプロ・アマ問わず、 学生の必死の表現を見ていてそう思う。 表現する側にまわろうとしたとたん、 深い絶望がおとずれる。 消費する側でいたとき、クリックひとつで、 音でも、映像でも、文章でも、 次々と豊かなものが手に入った。 他者の表現したものが、即座に心を満たし、 長年、言いたくても言えなかったことをスッキリと代弁し、 解放してくれる。 自分まで豊かな人間になったようにさえ思える。 ところが表現者にまわったとたん、 自分が享受してきた表現は、 一生かかっても追い付けず、 自分では、ほんのわずかな想いさえ表現できず、 「あんなに数々の素晴らしい表現を見て、 感動してきたのに、 なんでこれしきのことができないのか」 途方にくれる。 基礎をつけて、筋肉をつけて、 習慣つけて、技を磨いて、 コツコツコツコツ長い月日を経て、 どうにかこうにか、1歩進む。 ライブで、目の前で音楽を聴いてると、 音楽をやるほうと、聴く側の距離は数メートル、 でも、数メートルの向こう側にいくのが どれだけしんどいかわかるから、 私は、いま音楽に手を出せずにいるんだろうなあ。 でも、しんどくても、私は一度も 自分から書くのをやめたい、と思ったことはない。 ばあさんになっても書きつづけたい。 なぜだろう? 痛みのあとに歓びがある、とか、 努力の先に自由がある、とか、 書くことで、だれに出逢ったとか、何を得たとか、 たしかにそうなのだが、 それらは、ぜんぶ結果、 あとからついて来たものだ。 私をはじめ、多くのなにか表現する人たちが、 苦しくてもつづけたいと想い、 むしろその過程を愉しんでるように見えるのは なぜだろう? 読者メールを2通、まず、 読んでほしい。 <表現するだけで> 心理セラピストの仕事をしていて思うことは、 「人は誰でも感じていることを話をしたい」 ということ。 でも、 「聴いてもらえない」 「わかってもらえない」 「理解してもらえない」 という経験をしてきて、 表現をすることをあきらめてしまったということ。 聴いてくれる人がいるなら、人は話したいのです。 話に耳を傾けているとポツポツと話をしてくれる。 今まで誰にも話したことがない話をしてくれる。 泣いたり笑ったり怒ったり感情が動いていく。 すると、その人本来の魅力がでてきて輝いてくるのです。 もうそれは感動的な瞬間です。 表現をするだけで人は変わるし、 未来も見えてくるのですよね。 文章に書く、人に話をする。 その自己表現をすると 社会に対して貢献したい意欲がでてくる人が多い。 表現をすると行動をしたくなるんでしょうね。 話したことがその人のライフワークになっていっています。 感じていることを表現し行動していく。 表現って無限の可能性を持っていますね! (まあちゃん) <3分の表現者> 職業訓練校に通いだし、 毎日順番に3分スピーチを行っています。 それぞれが、切実な思いや状況を話しています。 話す内容と言葉、姿が、 誠実さや一生懸命な姿、 大変だったんだろうな〜とか、頑張っていた姿が たった3分ですが、とっても伝わってきて、 毎日、感動させていただいている感じです。 茶化す人がいたり、やる気の無い方がいるのではと 思っていましたが、 とてもそんな雰囲気ではないのを感じています。 姿勢を正したくなって、中途半端では あの場に立ちたくない、立てないそんな感じです。 3分スピーチ、意義を軽く考えていましたが、 確実に、相手に対して親しみを感じたり、 自分を振り返ったり、 新たな世界や、感じ方を知ったり。 効果のすごさに驚いています。 (hotaru) 表現の谷をはい上がれない日々でも、 自分はなぜ表現をつづけたいと思ったか? 誤解を恐れずに言うと、 不思議に自分を好きと感じ続けられたからだ。 「うぬぼれ」とは全然違う、 なにしろ、表現しはじめたばかりのころは、 作品はトホホで、とてもじゃないが、うぬぼれられない。 そうではなく、たぶん、この感覚に近い。 「表現しようと一心に挑んでいる人をみると、 人は自然に、わがことのように応援したくなる。」 表現力のワークショップをひらいていると、 全国どこへ行っても、高校生も、大学生も、社会人も、 一心に表現しようと挑んでいる人をみると、 不慣れでも、下手でも、言葉が詰まっても、 いやそういうときほどよけいに、 聞いている人たちが、我がことのように、 がんばれ、がんばれ、表現よ出てこい、と とついつい必死で応援してしまう。 hotaruさんも、 訓練校で、だれひとり茶化すことなく、 3分スピーチをものすごく神妙に聞いている様子を 伝えているが、まさにそんな感じで、 他人にたいしても応援せずにはいられないのだ。 自分が自分にたいしても、自然に応援したくなる。 まあちゃんの言うように、 表現しはじめると、自分がどんどんあぶりだされ、 人や社会に感謝が生まれ、 とにかくいい意味で予定不調和な日々、 自分にあきることがない。 不慣れで、無様で、 38歳にもなって、赤子のようにとまどい、 それでも命がけみたいにして、 表現しようとする自分を、 あきれつつも、人生史上最もおもろいと 無意識に応援してしまっていた。 私はまだ、音楽へ一歩も踏み出せないでいる。 踏み出すのも大変だろうし、 やりはじめたら、おそろしく面倒で、 自分の動きの鈍さ、覚えの悪さに、 また七転八倒するんだろう、と 書き手にまわった経験から、そこはリアルな予測がつく。 でもまたきっと、 かけねない好意はわきあがってくる。 そこもリアルに予測できる。 そう思うと楽しそうだなあ! 不慣れでも無様でも、一心に表現に挑む人を、 人は応援せずにはいられないのだから。 さいごに3人の読者メールを 紹介して終わろう。 <直感をストレートに> 私の町には、美術を専門とする高校があります。 あるキッカケでその高校の先生に校内を 案内してもらいました。 3年生は今ちょうど卒業制作中で、 作品を見て、驚いたのです。 高校生で、これだけの作品が描けるのか、と。 実にストレートに、 「私は、こういうのが好きだ!」と言わんばかりに 見事に自分の「好き」という感覚を 一つの形に練り上げた絵でした。 表現の深みは未熟だとしても、そのセンスのよさは抜群で、 ほれぼれしてしまう絵でした。 もちろん、そこまで表現できるには、 それだけの基礎が必要です。 形を捉えるデッサン力や色彩センス、構図のセンス、 しかし高3ともなると、自分の思いを形にまで表現できる 基礎力もついてきます。その結果でもあるだろうし、 また、互にそのセンスを刺激し合う仲間の存在も 大きいことでしょう。 若さ故に成しうるものでしょうか。 余計なものが一切ない、 直感で感じ取ったものを素直に形にしてあるのです。 よいものには、プロもアマもありません。 よいものがあるだけです。 よいものを見抜く力は、難しく考える大人より、 直感が働く若い人ほど鋭いのかもしれません。 (いわた) <この名にかけて> 幸せだったのは、小学校3年生の1年間、 365日、毎日日記を書く課題があったこと。 先生が朱書きで必ずコメントをくれました。 先生は、私が適当に書き散らかすと、 「お前らしくない、もっと気持ちを入れて」と叱咤する。 でも、「漢字を入れろ」とか、 「字が汚い」とは書かれませんでした。 先生は国語が専門で、書道が上手な方だったのに。 自分の文章は自分自身。 出来不出来よりも、 自分の名前で発表することに腹をくくり、 自分の名に懸けて表現したい。 たとえ、日記であっても。 (ひと、それぞれ) <すでに表現してきたことを認めて> ズーニーさんは、表現を 「するもの」、「せずにはおれないもの」 と書いていましたが、 僕は表現は「しているもの」なんじゃないか、 と思うんです。 というのも、社会の中で自分が認知されている以上は、 自分のやっている事すべて、時には、やっていない事さえ、 周りの人には表現としてとらえられるように思うんです。 面白い事もくだらない事も、腹の立つこともうれしい事も、 ぜんぶひっくるめて表現だと僕は思います。 自分が無意識にやっていること、 例えばちょっとした癖からでも、 人はそのひとの人間性を読みとっています。 しかし、だからといって、 表現のために全てをコントロールするのは 無理があるように思います。 そこで考えを変えて、「すること」ではなく、 既に「していること」に焦点を当てて、 それをただ肯定すればいいんじゃないか。 それが豊かな表現につながるような気がします。 (ケン) 「消費する側か、表現する側か?」 ケンさんの言葉を借りれば、 みんながすでに表現者、 あなたも何かで谷を越えよう! |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2012-11-21-WED
戻る |