おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson618 友は恋よりうつろいやすく 4 友情について、 たぶん、私が今日言いたいのは、 「ヒエラルキーなんてぶっとばせ!」 ということなのだと思う。 小さいこどものころは、 ただ近所というだけで、 みんないっしょくたになって遊んでいた。 私とTちゃんもそうだった。 それが中学にあがる前後くらいから 差がつきはじめ、 幼児体型から、少女、そして大人の女性へと 見た目がどんどん変化していく時期に、 Tちゃんは手足がすくすく、長く伸び、 スラリとしたモデルのような体型になっていった。 中高のころは、同質の人どうしがつるむ。 スター的な女の子は、やっぱり、 スタイル抜群で、運動神経も、 顔もいい女の子どうし群れていて、 気がつくとTちゃんは、そのトップグループにおり、 めっちゃ、近寄りがたい存在になった。 認めたくはなかったが、 そのモテモテチームを頂点に、 女子グループのヒエラルキーがあり、 どうも昭和体型の私は、格差をつけられてたようだ。 どうも、自分の中に、 そのころ刷り込まれてしまった 悪しきモノサシ、 「人は、自分とつりあいのとれた者とつるむ。」 「人には、魅力ある者から無い者へと、段々がある。」 「ゆえに友だちの階層は私の階層である。」 というような、捨てたつもりの考えが、 どこか心の片隅に、まだ巣食っていて、 ともだちに袖にされれば、 必要以上の悩み、つまり、 「自分は、その人より段々の劣る人間なのだろうか?」 「人には段々があるのだろうか?」 「自分は変わらなきゃいけないのか?」 など、おとなになってからもかなり長いこと、 邪念を生んでいたように思う。 「ただこの人間が好き」という純粋な 気持ちで向かえばいいのに、邪魔していた。 それがこのところ、あきらかに変わってきた。 まず読者のメールを読んでほしい。 <一人になること> 今回「失友」というテーマの中で使われている “暗い海に漕ぎ出す一艘の舟”という言葉に ぴったりだと思う歌があります。 宝塚歌劇団で上演された「エリザベート」 「夜のボート」という歌です。 その歌詞には、 二隻のボートが、 近づくのだけれども、ただすれ違うだけで、 それぞれのゴールを目指すようすが 歌われています。 一人乗りのボートにはもちろん一人しか乗れません。 あまりに近づけば 互いのオールがぶつかり進路を邪魔してしまう。 会社や学校など 大きなゴールを共に目指す船はあっても 自分自身のゴールを設定した時点で 人は自分だけのボートを作り上げ 漕ぎ出す勇気をもたねばならないのかもしれません。 私は今宝塚歌劇団の衣装係を目指しています。 このゴールを決めた時から共に進む船はなく 自分だけのボートで一人きりです。 でも進む中で、 灯りを貸してくれた舟 地図のよみ方をお知えてくれた舟 時には先導してくれる舟もあり 私は確実に夢に近づいている実感があります。 一人になることと 一人にされることは違います。 意思をもって選んだ自由を得た私は 一人でも心すがすがしく 道行く中で出会う人とその縁を 大切にしていきたいと思っています。 (aiki) <友情は永遠か> 先週の弘美さんと同じく、私も花を育てています。 今はパンジーとアリッサムが咲いています。 咲いてくれるのは春までの限られた期間ですが、 例え本物と違わない造花があったとしても、 やっぱり一瞬一瞬を咲く花を育てていたいです。 友情の花は永遠のものか、 それとも限りがあるものなのか、 きっぱり答えることはできませんが、 永遠は求めるものではなく、 成るものではないかと感じつつあります。 友情に永遠を求めようとすると、 私は永遠に甘えそうになります。 そして途端に寂しくなります。 友情が離れていく時よりも寂しく感じます。 それは友情を造花にしたくないからかもしれません。 枯れると分かっていても、 一瞬一瞬を咲かせていたいのだと思います。 亡くなった先輩は、何も言えない私に、 優しい花を咲かせて見せてくれました。 最近になってやっと、 先輩が残した種を咲かせることができました。 先輩が咲かせくれた花には及びませんでしたが、 前よりも先輩と近づいた様な気持ちがしています。 友情が永遠に成る時があるとすれば、 時間や距離にとらわれなくなれた時 なのではないかと思います。 花は役割を終えると枯れるけれど、 種として始まっていて。 終わったようで始まっていて。 私ができることは、その種を握り、 土を肥やし続けることだと 思っているところです。 (Sarah) <国籍も文化もカンケイなく> 夫についてロンドンで暮らしはじめました。 こっちにきてすぐに、同年代の友達が、 二人いっぺんにできました。 三人でよく遊んでいて、とっても楽しいのですが、 なんだかもやもやしたものがあったのです。 私のもやもやは、彼女たちのうちの一人に対して。 二人が私抜きで楽しそうにしている時、 彼女が最初にもう一人の子にメールをしてそれから 私にくれる時、そんな時だったのです。 彼女は私を拒否するわけでもないし、 話すし遊びにも誘ってくれる。 でも、その比重が少し違っていたことが、 私のもやもやになっていたんですね。 好きな人。その通りだなぁと思いました。 二人とも大好きですが、 むしろ彼女は、私をもっと好きになってほしかったひと、 というべきか‥‥同性ですが(笑)。 そして、 そのことを考えてる自分を振り返ってみて、 驚きました。 それは、 私(日本人)と、イタリアの子とスペインの子なのです。 人間同士が惹きあうかどうかに、 国籍や文化は関係ないのだと、 改めて気づきました。 どれだけ長く近くにいても どうも近くなれない日本人もいるし、 出会って一週間後には 二人で一緒にご飯を食べて、遊びに行って、 本当に単純な英語で笑いあえる エストニアの子もいるのです。 よくしゃべる人が人を惹きつけるのかというと そうでもない。 共通の趣味や年齢も全く関係がない。 きっとタイミングと お互いの距離感がぴったり合った時、 一人の人間と人間が、 お互い心地よくいられるのですね。 そして、私たち仲良し三人の関係も 国をまたぎながら変わっていき、 近すぎれば良いというものでもないし、 遠くてもお互いの距離感が合う時もあれば、 また合わなくなるときも時もある。 それはとても自然なことなのだと思いました。 一度でもぴったりと惹きあった人はまさに一期一会。 たとえ離れても、宝物です。 (さんご) 私が、中高時代に学校にあった 女子グループのヒエラルキーの亡霊から 脱却できたのは、 表現教育の生徒さんが、そんなもん、ぶっとばして どんどん人とつながっていくからだ。 言葉、行動、表情‥‥ 何も表現しなければ、 ただ見た目とか、年齢とか、学歴とか、 外側の条件でどんどんくくられ、輪切りにされ、 序列化されてしまう。 でも表現教育では、 文章なら文章で、学生も、社会人も、 深い内面を表現するので、 そうした条件をとっぱらって、 友情が花咲いていく。 見た目でひとくくりにされるんじゃなくて、 深い想いを表現して、 地下水で通じ合う。 「表現された想いは多様なのりしろを持つ。」 「のりしろで多様な人間とつながれる。」 「表現された想いには序列はない。」 人はモノサシに並ばない。 これが表現教育で私が見てきた世界だ。 たとえば太っている子が。 ダイエットしてきれいになって トップグループの、かねてから憧れていた女の子と 友だちになる、 なんて考えはあってもいいとおもうけど、 痩せて綺麗になっても、憧れの女の子との間に 友情が咲かなかったらどうするのだろう? 逆に、憧れの女の子が、以前の自分より はるかに太った、見た目のださーい子のことを 猛烈に好きになって親友になったとしたらどうだろう? 人は見た目では測れない。 表現教育では、つねにつねに、 人人が、外見を大きく裏切った表現をするから それは断言できる! マツコデラックスが、 テレビに映るために痩せていたとしたら 「適応」だけど、 彼女は、しゃべって、個性を表現して、 あの体型のまんま、 テレビに出る人間は細くなければならないという 常識をぶちやぶって、 自分の体系を「通用」させた。 友情の花への道も、 表現して、自分を通用させていく行き方がある。 友だちに嫌われたり、離れられたりはつらいけど、 それでも、 「自分を貫け! そして表現しろ!」 と私は思う。 |
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2012-12-26-WED
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