YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson633 傷つけないでと言う前に
         − 3.創造こそ自然


たった一回なにかあっただけで、
それでだめになってしまう世の中は
硬直していてツライなあ。

世の中にも、自分にも「弾力」が欲しい。

二度と会うもんか! と腹を立てても、また会ってる。
大嫌いだと切っても、また話したくなる。
信用ならん! と一度は疑っても、なお信じている。
そういう弾力がほしい。

このコラムで度々「怒り」について書いているのも、
決して、怒る人間を排除するためではない。

弾力を持つためだ。

「Lesson631 傷つけないでと言う前に」や、
「Lesson590 イカリとむきあう」シリーズを
経て、私は、
ほんとうに怒る場面で立ち止まることが多くなった。

「人にやってもらおうとするから、怒るんだ」

という心の声が聞こえてくる。
つづけて、
依存して人にやってもらっていたものを、
いったん自分に取り戻す、つまり、

「主語を自分に取り戻せ」と。

「自分で創ってみない?」

「自分にはできる!」

「そっちのほうが面白そう!」だと。

そんなふうに、ついつい創る方を選び、
結果的に怒らないことが増えてしまった。

これは我慢とはぜんぜん別のベクトルで、
やってみると実に自然で、
あたりまえのことだ。

こうなってふりかえると、
よく怒ってきた私が、
いかに甘ったれて生きてきたか、
まざまざと見えてきて恥ずかしい。

家族で、よく怒るのは私と父だ。
母や姉は怒らない。

末っ子である私は、
つくづく依存の強い人間だった。

私が怒っている間に、
母と姉が創っていたのだ。
ごはんにしても、生活そのものも。

幸せだったのだ、自分は。

怒って、まわりにやってもらって、
その幸せに気づきもせず、怒っていた。
愛されていた。そのことにも気づかず、
なんと愚かしい人間だったかと思う。

だから最近は、「怒る人」を見ると、
甘えや依存が見え透けて、

「自分も怒っているとき、
 相手やまわりから、こんなふうに見えていたのか」

穴があったら入りたいような気分になる。
同時に怒っている人を、切り捨てられない気持ちが湧く。

かつて自分がそうだったように、
いま怒っている人も、いつからでもリスタートできる。

いま、私が怒る人にちょっとかわいげを感じ始めたように、
人も、社会も、怒る人を排除してしまうのでなく、
厳しくも人間的に接していける。

自分にも、社会にも、そんな弾力を持つために、
私は、怒りについて、ここで書いている。

きょうは、「怒るか、創るか?」で、
実際に創るを選んだ読者たちのメールを
紹介したい。

「創るを選んだものの、
 具体的にどう一歩を踏み出せばいいの?」

というときに参考になる。

そして、弾力をもつために効くメールだ!


<叱るよりも、創る>

子どもは、
大人に比べて、
言葉が思うように伝わらない分、
「創る」という行為が
とても大事になってくるような気がします。

先日友人宅へ子どもと遊びに行った時のこと。

りんごジュースかブドウジュースどちらか1本を
あけて飲もうということになり、

友人の子は「りんごジュース」、
うちの子は「ブドウジュース」、
じゃんけんすると、友人の子が勝ち、
りんごジュースに決まりました。

しかし、ブドウがあきらめきれないうちの子は、
「やだ、ブドウジュースを飲む!」と聞きません。
じゃんけんしたことや、1本しか開けられないことを
説明しても全然ダメ。
さてどうしたものか、、、と考えた挙句、

「じゃぁさ、りんごジュースを
 ブドウジュースだと思って飲んでみたら?
 きっとブドウの味がすると思うよ〜」

と子どもに伝えてみました。
すると!
絶対にブドウ!!! と言っていた子が、

「りんごジュース飲む〜」

と、あっさりブドウジュースをあきらめたのです。
その後、

「魔法かけてあげるね〜ブドウになるよ〜」

などと子どもとやりとりしながら、
2人ともおいしそうにりんごジュースを飲みました。

ラチのあかない状況を打破してくためには、
一辺倒のことではなく、
ウィットに富んでいて、
相手がくすっと笑ってスッと呑んでくれるような、
そんなことを瞬時に創る必要があります。

それはわたしの中では、毎日の積み重ねで、
もはや反射神経的なものになってきています。

創造力というと大袈裟ですが、やはり「創る力」です。

どうやってそれが身に着いてきたんだろうと考えると、
行きつくところは「絵本」。
子どもと一緒に読む絵本から、
「創る」ことを学んでいると思います。

ファンタジーの世界には
たくさんの「創る力」があふれています。
子どもも、とてもファンタジックな生き物。
大人もガチガチの頭を溶かして、
ファンタジックに生きてみると、
少しは気持ちがラクに、
楽しく生きられるのかなぁと思います。
(utana)


<表現して創る>

2週間前に、婚約中の彼に向けて
地雷メールを送ってしまいました。

積り積もった寂しさから送ってしまいました。

「私のことに気づいて!」SOSを彼になげかける思いと、
今後の生活を送るにあったても
この状態をウヤムヤにしたままではいけない、
少しずつでもいいから解決しておこうという思いから
投げかけました。

だから、メールを送ったあとは、
初めて思っていることを言えたってなっていました。

彼から返ってきた返事は
「この関係を白紙に戻そう」ということでした。

最初は、何で私の気持ちわかってくれないの?
って思いましたが、
今、改めて思うと、私のやり方は間違っていましたよね。

怒る! にしてしまって、
創る! ことができなかったんですもの。

私は、自分に甘え、彼にも甘えていました。
手遅れだったかもしれませんが、
そこはなぜか私も俄然やる気がでてきて
(表現はおかしいかもしれませんが。。。)
このままではいけないという思いから、
謝罪と感謝の言葉を伝えています。

顔を見て話したかったので、
今週の土曜日に会う予定にしています。
あと2・3日の間で、
私の言葉がどこまで彼に伝わるかわかりませんが

彼への本当の愛が確認できたいいタイミングだと
実感しています

私は、これからの2人で歩んでいく人生で、
今きづけたことは本当によかったと思っています。

彼はどういう答えを出すかは、今の私にはわかりません。
たとえそれが、本当の別れになってしまっても、
ここで言っておけばよかったという後悔だけは
したくないので。

これからの人生において、
あの地雷メールは私には必要だったのだと思います。

彼を傷つけてしまったことは、
申し訳なく思っていますが
早かれ遅かれ、水面下にあったものは、
浮き上がってきますものね。

不器用ですが、私の今表現できる力で
ありったけの言葉で彼に想いを伝えます。
(どり)


<創るべきものがわかった>

昨晩、6歳年の離れた妹と口論になりました。

妹からの大声の奇襲を受けたので、
思わず怒りがこみ上げてきました。
でも次の瞬間は
冷静に妹を諭そうと努力している自分がいました。

何度か言葉のやり取りがありましたが、
妹と私の感情が同じ着地点を見つけられず、
私はドアを閉めてしまいました。
Lesson631にあった

「相手とどんな関係を作りたいか?」

「それなんだよな〜。」と
自分に問いかけていました。

妹とは同居していますが、
お互い心を開いた会話をすることができず
ギスギスしています。

なぜ、こんな兄弟仲になってしまったのか、
私には思い当たる節が見つかりませんが、
きっと些細なことの積み重ねで
妹を傷つけてきてしまっていたのかなと思っています。

妹との関係を改善したいと思いつつ、
未だ「創る」に踏み出せていない自分がいます。

他者だと、冷たくされても、受け入れられなくても
自分はまだまだ「創れる」と勇めます。

でも家族は、
冷たくされたくないし、拒絶されたくないという
弱さみたいなものが現れるんだと実感しました。

他者との関係作りを振り返りながら今、
私は家族との関係作りの方法を
見つけられていないのかもしれないと感じています。

メールを書いているうちに
自分の感じていることが整理でき始めました。

私は妹との関係を改善するんじゃなく、
家族との関係作りの方法を
少しずつ創っていこうと思います。

肩の力を抜いて
できるだけ柔らかに創っていけたらいいな。
(めぐそん)


<ともに創る>

先週の読者メールを拝見して、
先週離婚を選択した友人夫婦と
自分たちのこれからに思いを馳せました。

まだ小学校に上がる前の二人の子供を持つ友人夫婦。

奥さんが
「あなたと一緒にいる気持ちを持て無くなった。
 そして好きな人が出来た」
とご主人に告げ、離婚することになったと、
そのご主人から私たちに報告が有りました。

日本人同士で海外で結婚し、
生活しているところまでは私たちと同じ。

でも子供を持つ若い彼らは、
経済的な問題を乗り越える術や
コミュニケーションの術を身に着ける間も無く、
何故別れることになったのか話し合うこともなく、
離婚を選択しました。

勿論夫婦にしか分からないことも沢山あるのでしょう。
でも日本を離れて、夫婦二人で力を合わせて
家庭を築こうと決意したのに、
本当に残念なことだなぁ、と思いました。

そして私たち夫婦も何を心掛けたら、
こういう寂しい結末にならずに済むのだろう、
と考えています。

私たちには子供は居ませんが、
主人が数年前に脱サラし、最近店を始めました。
私自身も会社勤めをしているので、
ずっと一緒に手伝うという訳にはいきませんが、
従業員の退職に伴い、人手が足りなくなったので、
最近は出来るだけ店を手伝うようになりました。

売り上げを挙げる為に、基本路線は有っても、
常に新しいメニューやコンセプトなど
色々なことを考え続けねばなりません。

体力的にはきつくても、一緒に店に立ち、
お客さんの反応や層を見ながら、
こんなのはどうだろう、あんなこともやってみては、
と一緒に考えている毎日です。

あくまで店の主役は主人ですが、
稼ぎも含めて彼が自分で自分を誇れる場所を作る為に、
自分に出来ることを考えて、

ある時は実際に手伝い、
ある時は知合いに紹介し、
ある時は色々なアイディアも貰いつつ一緒に考える。

こういう手探りでも何かを“創る”場所が出来たことは、
私たち夫婦にとって、
具体的に思いを共有することにも繋がり、
それが間柄をもっと近くすることに
繋がるような気がしています。
(kaorihk)


<自然であること>

子供の頃、
枕元にお菓子の本を置いて寝ていました。
布団に入って本をめくりながら、

「今度は何を作ろう」

と思いめぐらし、
それが決まると作り方を読み込んで、
頭の中でシュミレーションします。
材料や道具をどうするかを考えて見通しが立つと、

「その次は何を作ろう」

と本を眺めながら眠りました。
ボロボロになったその本が今も手元にあります。
あの頃にも抱えきれない想いがありました。

だけど作りたかった。きっと創りたかった。

私の中にも困難に生き生きする異分子がいます。
もう一つ弱気な分子もいて、
二つの分子は混ざり合うことはなく、

困難を前に、どちらを取るのか選択を迫られます。

怒りや不満や、あてどもない不安で
心が埋め尽くされれば、
何かが生まれる余地さえ無くなってしまう。

一方で「創ろう」へ向かえば、
知らず知らずに自分が無心になっている。

とらわれていたものが視界から消え、
そこに創造の余地が生まれる。

その余地を異分子がしっかりと見据えている。

「これから」は見えるものではなく、
創るものなのだと気付く。

そして創るのか創らないのかは、
自分の選択なのだと知るのです。

アスファルトの隙間に咲いているスミレ、
根本まで切られても顔を出す木の芽、
「植物はすごいなぁ」と思うけれど、
人の中にも異分子がいて、いつも創り続けようとする。

創造こそ、自然なのかもしれません。
(Sarah)


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2013-04-17-WED
YAMADA
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