おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson636 自分のサイズをとり戻す 人は大なり小なり、 自分に幻想を持っている。 どうしたら等身大になれるのか? 連休、8年ぶりに、私は引っ越しをした。 自分の持ち物を、 1から10までぜーんぶ! 白日のもとにさらけ出して、 仕分け、処分し、整理する作業は、 とてもつらかった。 すごーく落ちた。 なぜなら「モノ」はごまかしようがない。 8年間の自分の暮らしぶりがなんであったか、 8年の生き方、ひととなりまで、 物証という、あまりにも客観的な、動かぬ証拠で 見せつけられてしまったからだ。 欠点に気づいて落ち込んでいるとか、 そういうことではない。 「自分の全容を知るコワさ」、 仕事にたとえて言えば、 「あなたは仕事が遅い」と、 欠点を指摘されるのもツライけど、 でも、それとはちがい、 10年なら10年分の自分の働きが、 もしも数字で正確に見せられたとしたらどうだろう? 「あなたは、 あの時のあの仕事で何十万、 この時のこの成果で何百万、 合計で何千万、会社に儲けをもたらしました。 経費は、何百万使い、 給料として、何千万支払われ、 教育費や福利厚生でこれだけあなたに費やし、 差し引きすると、この10年、 結局あなたが会社にもたらした儲けは○○万円です」 そんなふうにもしも自分の働きの全容をさらされたら、 そのほうが、恐いんじゃないだろうか。 自分のたかが知れてしまう恐れ。 引っ越しで自分を見てしまう恐さはそれに似ている。 まず面食らったのは、 「捨てた服」の多さ。 真剣に自分の心に問い、 本当に残したい服だけを選んだら、 ぞっくりと、ほとんどなくなってしまって、 1割しか残らなかった。 私は、10着あれば9着の、愛せない服と、 何年も暮らしていたことになる。 服には気を使っていた。 自分らしい服装にこだわってきた。 でもそれは「つもり」にすぎなかった。 自分に対する幻想だと、 捨てられた服たちが動かぬ証拠となって訴えていた。 「改めて胸に問うたら9割がゴミ、 そんな人間が、どの口で、 服には気を使っていた、なんて言えるの?」 なぜこうなったのだろう? 探す手間をほんのちょっとさぼった。 20代のときのように、 一日中街を歩き回って1着の服を探すとか、 全部試着して、入念にシルエットを チェックしてから買うとか、 いまは忙しいからできないからと、 寸法チェックもそこそこに通販で注文し、 とどいた服が、 「ちょっと思ってた色味とちがう」とか、 「ちょっとおおきいかも」とか、 「なんかちがうな」と思っても、 「ま、いいか」でやりすごした。 それが8年つもりつもったとき、 愛せないワードローブと化し、 洋服選びの筋肉の、ある部分がたるんでしまっていた。 同じところにあぐらをかいて、 同じ生活を続けていると、 自分でも全く気づかぬまま、 同じところで手を抜きつづけるようなことが起こる。 意識できないくらいのわずかなラク、 それが積もり積もって、 やがて自分の本意と現実が、大きく乖離してしまう。 愛せない、それゆえ新居につれてはいけない服たちを、 それでも捨てるのには、ずいぶん心の体力が要った。 ひとつひとつに想い出があり情が湧く、 うらめしそうにこちらをみている服もある。 私は、殺し屋のような残忍さで、ばっさりと、 まだ命のある服たちを、ゴミ袋につっこみ、 地階のゴミ捨て場に持って行って、 この手で息の根を断つ。 地階のゴミ捨て場と、3階の自分の部屋、 服たちを葬る往復は、何度も何度も続き、 そのたびに、懐かしさと残忍さに 心はぎったんばったんした。 そんなふうに、服、本、CD、食器、小物‥‥と、 つぎつぎに自分の正体を見、 次々にツケを支払っていったが、 なんといっても、つらかったのが「書類」の整理で。 やりかけて途中やめにしていた仕事が 3つもみつかったこと、 これにはとことん、 ひと晩立ち直れないほど落ち込んだ。 自分のたかが本当に知れたと思った。 この3つに、どんなカタチにせよ、この先、 自分で落とし前をつけないと、自分は自分を信頼しない。 それだけははっきりわかった。 きのう、 私は、浅草寺 → 豪徳寺 → 明治神宮をまわっていた。 信心深いのではない。 私には宗教はない。 引っ越しで出てきた、もうひとつのツケを支払うためだ。 荷物を整理していたら、 「お守り」が10個以上も出てきたのだ。 その多さもさることながら、 捨てるのにびびっている自分にもまたへこんだ。 「自分には宗教はない、などと言いながら、 旅先で、まるでおみやげでも買うように、 お守りを買い、 苦しいときの神頼みで、こういうものに力を借り、 自分はなんて中途ハンパなんだろう」 きちんと信仰している人は、 願いがかなったら、御礼参りに行ったり、 古いお守りは、お焚きあげしてもらったり、 ちゃんと最後まで責任を持って、 「お守り」を買い、所有している。 私は、そういう責任も、感謝もせず、 都合のいいところだけつまんで、 いざ捨てるとなったら、 災いが降りかからないか、 結局、自分のことしか考えていない。 そんな自分にがっかりだった。 人生の一時期でも、 これらのものに頼り、力をもらったのなら、 せめて最後くらいは、 この物たちのことを考えて、 この物たちの流儀で、処分してはどうか。 調べたり考えたりしたすえ、 神社のものは神社へ、 寺のものは寺へ、 両方をまぜないで返納する。 もちろん寺や神社も生業としてやっているのだから、 相応のお金を添えて返納すると決めた。 いただいた招き猫だけは、 小指の先ほどの、まっしろなかわいい招き猫で、 お焚きあげにさえ出す気がせず困っていた。 かといって、事情があって持っているのもつらい。 そこで、調べて、もとの豪徳寺に 招き猫専用の、返納所があることを知った。 明るく、きれいな場所で、 たくさんの招き猫たちがにぎやかに並んでいた。 同じ小さい猫がいるところへ、 そっとお返しすると、 招き猫は、なかまがたくさんできて嬉しそうだった。 今回引っ越しで処分をした物の中で、 もっとも物も、私も、本意にかなった結着だった。 お守りの結着に半日がかり、 この忙しいときに何をしてるのだという思いもあったが、 「いやこういうことをおろそかにしてきたからこそ、 自分の行いのツケを 支払わざるをえなくなってしまっているのだ。 これからは、こういうことを ひとつひとつきちんとやって、 自分の行いへの落とし前をつけていくのだ」 とやりきった。 そのようにして、 引っ越し業者の手を借りる部分はもちろんありはしたが、 最終的には、すべての自分の持ち物を、 どのひとつも他人まかせにせず、 段ボールごとしまい込むような不透明もせず、 全部、一回この手にとり、 自分で考えて、捨てるか、残すか、 残すならどこにどう置くかを決め、 すべてのモノに結着をつけた。 すべての持ち物を通して、自分の全容を見ることも、 一緒に暮らしてきた愛せないものの息の根を断つのも、 それらを抱え込んだ自分の習慣を否定することも、 ほんとうに、落ち込むし、根気の要る作業だったが、 落ち込むたびに、自分の幻想を修正、修正! 考え、決め、動くたび、 どんどん自分という人間の実寸を確認し、ズレが吹き飛び、 等身大になっていけた!!! 引っ越しの中で唯一見た光は、自分の本だ。 荷物に詰めたものの中には、 前のひっこしにはなかった、たくさんの自作があった。 そのうちのいくつかの表紙は外国の言葉で書かれており、 自分の仕事が海を渡った、 それが引っ越しで見た光だった。 ちょっとラクをして後回しにしたり、 見なきゃいけないんだけど見ぬふりして 押し入れに隠したり、 ブラックボックスに、 都合よくポイポイ放り込んでしまった都合の悪いもの、 人は、いつかそれを自分の手で引き取り、 落とし前をつけなきゃいけないときがくる。 つらいけど、ひとつひとつ コツコツと自分の手で後始末をつけていこう。 その先にあるのは、 心から愛せるものたちと、 本意に沿って動ける等身大の自分、 きらきらした新しい生活をこの手で創っていけるのだ。 |
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2013-05-15-WED
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