おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson641 理解と表現と創造と 私は、「選択」とは、 用意された2つなら2つの道の、 どっちを選ぶかの問題だと思ってきた。 だが、ここへきてそうではないと、 選択には、小さくともなにか、 それまでの自分の枠組みに無い、 新しいものを「創る」覚悟と気概が要ると、 小さくとも「創る」気概がないと、 どの道を行っても、「妥協」であり、「後退」であり、 「選んだ」ことにはならないんじゃないかと。 選択には「創造力」が要る。 これは、とくにクリエイティブな仕事に就くとか、 個性的に生きる人のことではなく、 ごくごく一般の人の人生に言えることだ。 「創る」ことを覚悟していないと、 どの道を選んでも、「こんなはずじゃなかった」になる。 例えば、定年退職したお父さんが、 家で何もすることなくただただテレビを見るしかなく、 「退職したら、俺は好きなことができると思っていた。 こんなはずじゃなかった‥‥」 東京で長く働いて、 親の老いを期に、ふるさとに戻った人が、 ふるさとで再び生活することに思わぬ苦戦をしいられる。 「慣れ親しんだ故郷と、なんでもわかってくれる家族、 そこへただ戻ると思っていた。 こんなはずじゃなかった‥‥」 私も38歳で独立したときに、 毎日毎日、所在なく、ラチがあかず、 八方塞がりのような3年間があったので、 選択後の「こんなはずじゃなかった」という気持ち、 いまはとてもよくわかる。 退職後のお父さんたちが退職後を生きるために、 親孝行な人が再び故郷を自分のフィールドにするために、 そして、38歳のいい大人であった私が 独立という大胆な決断をし、実行してしまう日までに、 つけておくべきは「創造力」、 もっと言えば、「創る習慣性」だったのだ。 なんであれ、人生で切実に、 「何かを選ばなければならないところまできた」 ということは、自分という枠組みの境界線に来ている。 コツコツ頑張った人は頑張った人で、 昇進という道が用意され、会社で出世するか、 それとも自分の力を信じて会社の外へ飛び出すか、 たとえばそんなカタチで 自分の枠組みの境界線に立たされる。 ダメダメできた人は、 別の意味で、自分の崖っぷちにたたされる。 自分史上ありえないところまでがんばって認めてもらうか、 会社を辞めさせられてしまうか、 いずれにせよ、そこから先は、「未知」。 故郷に戻るといっても、 都会を経て二度目の故郷を生きる自分は未知だし、 住み慣れた家にいる、といっても、 会社に行かないで一日中家にいるというのは、 その人の人生史上で未知だ。 未知=その先は、創らなければ歩めない。 「理解」と「表現」と「創造」と。 私は、人が生きるために、この3つの力が要ると思う。 そして私自身、38歳で独立するまで、 あまりにも、「表現」と「創造」をしてこなかった。 編集者から「書き手」に転向して、 表現しなければ食えない状況になって、 表現して、表現して、5年くらいしてやっと、 自分がそれまでの人生で表現してこなかったことに 気づくことができたし、 また、出版物や、講演や、ワークショップや、番組や、 「創る」ということを、10年以上、コツコツコツコツ 自分の畑から作物をはやすように、 続けた果てに、創る習慣というか、体質ができ、 自分がそれまでの人生で「創造」を してこなかったことに、やっと気づけた。 ただ、救いがあるのは、38歳からでも、 コツコツやればやったで、 表現力も、創造力も、地道においついてくるということだ。 「理解」と「表現」と「創造」と。 学生を見ていても、この3つのバランスがすごくいい人と。 理解力は充分なのに、 「表現」にはほとんど踏み出していない、 どころか、強い恐れや抵抗という スタートライン以前のところで逡巡している人もいる。 「創造」にいたっては、 演劇部などで、日ごろ「創る」ことを しなきゃならない状況でやり慣れている学生と、 暗記と応用のみで、ほとんど「自ら創る習慣」が なかった人とでは、とにかく、 とりかかりまでに恐ろしい差がある。 やり慣れている人はいる人で、 その分高いゴールを目指すので、どちらも大変には 違いないのだけど、慣れている人は、 創造のほうに無駄なくエネルギーを注いでいる。 たとえば「4分間の発表」を1週間後にするとする。 創る習慣がある学生は、 大変ながらも、その「未知の4分を創る」ことを まず、「面白い」と感じる。 そして主題を決め、それを伝える演出を決め、 練習するところを練習し、時間を計り、 ブラッシュアップして、当日、新鮮な発表をする。 一方で、これといって「創る」ことをしてこなかった人は、 「いったい何をするのですか?」 「なぜこんなことをするのですか?」 と質問ばかりしたり、 他の人は何をやっているのかとおうかがいばかりたてたり、 あげく文句を言ったり、気持ちの中で逃げたり、 自分は才能がないと落ち込んだり、 無駄なところにエネルギーがいってしまい、 いっこうに創る頭と手が進んでいない。 私自身も創るに乗り出すとき、 初めはずっとそんな状態だった。 何よりも、フリーランスに転向して、 新しい生き方・働き方を創らなきゃいけないとき、 あまりにも無駄なエネルギーをつかって へとへとだったので、 そういう人を見ると、わがことのようでつらい。 両者の違いは、才能というより、習慣の違い。 「理解」と「表現」と「創造」、 できれば若いうちに、 言葉でも、音楽でも、料理でも、身体でも、 何か1つ手段を見つけ、3つの力の基礎をつけて 習慣化していくといいと思う。 例えば料理なら、料理で、 おいしいものを食べたときに、おいしいと だしとか、素材とか、調理法とかちゃんと「理解」できる。 次に、優しい味とか、 晴れの日とか、テーマに応じて、食材や調理法、調味料で 自分の想いや考えを料理で「表現」できる。 さらに、「創造」。 ゆきづまったときに、料理の分野で、 ささやかでもまったく新しいものを創って、突破できる。 私の場合は「言葉」なので、 言葉で、「理解」「表現」「創造」の3つをやる。 たとえば、新書レベルの3000字くらいの評論文を読んで、 筆者の言わんとすることを、はずさずに「要約」できる、 ここまでが「理解」。 次に読み取った筆者の考えに対して、 ほかならぬ自分自身の「意見」を明らかにして、 「論拠」を筋道立てて説明して、 400字くらいの文章で自分の考えを表現して 読み手を説得できる。 ここまでが「表現」。 さらに、主人公がそうとうにゆきづまっていて 結末部分を隠した小説、 あるいは、問題提起はあるが、 解決への提言部分を隠した評論など、 結末のない文章を読解して、自分で考えて その先の文章が書ける、ここからは「創造」。 「理解」は、学校の勉強で充分できる。 たかだか3000字の文章でも、自分の主観を混ぜず、 筆者の言葉を正しく理解できるようになるまでには、 実にたくさんの「暗記」をしなければならず、 その「暗記」がとても大切だということがわかると思う。 すなわち、単語を覚え、接続詞を覚え、 序論・本論・結論などの文章構造を覚え‥‥。 暗記した項目が一定量を超えると、 大事なものから、些末なもの、など秩序立てて、 言葉を自分の中に取り込むことができる。 現代文のテストは満点を取る覚悟で勉強すれば、 社会に出て、上司の話や、会社の資料、 一生通用する言葉の「理解力」の基礎は手にできると思う。 あとは「表現」と「創造」を、 人まかせにせず、自分で責任を持って、 どんな方法で、どんなペースで継続してやっていくか だと思う。 理解と表現と創造。 「言葉」でこの3つをやるとしたら、 やはり、「書く」ことを抜きにして、 「表現」と「創造」はありえない。 「理解」でさえも、単純に文章を読み流すよりも、 要約という「書く」作業によって、考える筋肉を使う分 理解力は確かなものになる。 ペースを決めて「書く」。 決めたら最低でも「1年」は書きつづける。 シンプルだけど、言葉による 理解、表現、創造のチカラをつける 近道ではないかと私は思う。 言葉で創造したものは、 やがて現実を切り拓くチカラになる。 13年前、フリーランスになった時点では、 まだ、原稿の中の言葉にすぎなかった、 表現教育への私の想いやアイデア、考え、 いまや、大学の講義で、企業研修で、 全国各地でひらくワークショップで現実となっている。 先が見えないなら、 まず、「その先」を言葉で書いて突破する! 創造はそうして、いつからでも、だれでも、 どんな状況からでも、始められると私は思う。 |
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2013-06-19-WED
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