おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson647 「誰かのせいで何かができない」と言わない自立 ー4.ある実像 深刻な親子問題を抱えながらも、 「自分を生きる」人は、 なにがちがうんだろう? きょうは、ある「実像」を紹介したい。 文章表現インストラクターとして、 私がこれまで読んできた生徒作品の中で、 最も強く「自立」を感じた文章だ。 もちろん本人の許可を得て、全文紹介する。 私は、一般の人の、 「一生に、この一作。」と言えるような 文章執筆に、「文章の産婆」として 数えきれないほど立ち会ってきた。 近年、親の、 虐待、過干渉、離婚、不倫、蒸発、借金、病気など、 生徒さんの家庭背景が、 どんどん深刻になるのを目の当たりにしている。 しかし、人間は思った以上にたくましく、 家庭から「一生癒えぬ傷」を負って、 それでも強く自分を生き抜く姿を 文章を通じて、数多く目撃してきた。 そこに希望がある。 しかしどうも、その希望のありようが、 メディアを通して私たちが抱いている 先入観とは違うのだ。 長年の苦しみを親に訴えて、 親がわかってくれて、 親子で抱きあう、という ドラマのようなオチは、 現実として、私はほとんど目にしていない。 にもかかわらず、 かつての自分も含め多くの人が、 「絵に描いたような親子問題の解決、 そしてカタルシス」というカタチに、 とらわれているように思う。 そのため、 「現実に踏み出すチカラを自分が持っていること」に、 なかなか気づけずにいるのではないかと。 親子問題に苦しむ人に、 いま必要なことは、 そこから1歩踏み出して、 自分の道を歩き出す人の実像を、 人によって、考えも、行動も、ありようも、 まったくさまざまな、つまり、 「多様な自立の実像」を知ることではないだろうか。 その意味で、 これから紹介する一つの実像が、 ヒントになれば幸いだ。 次にあげるのは、 社会人の文章講座の卒業課題として、 生徒さんが書かれた文章で、 この年の最優秀賞(山田ズーニー賞)を 受賞した作品だ。 人によってさまざまな感じ方があるので、 私の解説はあえてつけずに、 紹介しよう。 「 復 讐 」 れん いつか私が最期の日を迎えたら 胸を張ってあの人に会いにいくだろう。 そしていじわるく笑ってやろう。 子供の頃からよく夢を見る。 それは楽しい夢や願望が 叶ったものも多かったが 何だか心に引っ掛かっていることも 何度も何度も夢の中で繰り返される。 子供の頃、ある日を境に突然、 父は家の中で暴れた。 小さな弟は母が必死で守り おばあちゃんっ子だった姉は祖母が守った。 私は見事にあまってしまったのか 生身で父のどこにも持っていけない感情を受けた。 小さな体はちょっと叩かれただけで痣や傷になり 蹴られると簡単にぶっ飛んだ。 その夜、布団の中で声を出さずに泣きながら 誰からも守ってもらえないと知り 自分で自分を守らないといけないと悟った。 いつかぜったい強くなって 父を見返してやろうと思った。 泣けば泣くほど父が喜ぶような気がして そんな日が続いても涙が出なくなっていた。 そしてむくむくと育っていったのは 表現方法を知らないゆがんだ 真っ直ぐな心だった。 親は子供を扶養する義務や責任があって 義務教育の間は学校に通わせる義務がある。 何より住民票もこの家にあるのだから どれだけ叩かれても殴られても 学校には行くし、この家を出ていかない。 そんな事を口にするようになってしまった わずか10歳の子供の私を 父はどう思っていたのだろうか。 どこまでがしつけで、どこまでが虐待なのか 子供の早すぎる反抗期なのか。 それを誰も判断してくれない日々を過ごした。 家から表に放り出されても泣きもせず、 叫びもせずに 家の裏に回って祖母を呼べば 簡単にこっそり家に戻れるが 田舎の町で野宿のように、じっと物陰に座り込み 朝を待って普通に玄関から戻ることもあった。 夜の田んぼをてくてく歩き 歌が聞こえる賑やかな店の前や 楽しそうな家族の住む家の前も通った。 車が真横を何十台も通り過ぎたが 誰も話しかけてこないし 子供なのに保護もされない。 私は誰からも「見えない」人間なのかと 生きて、存在しているのかとも 本気で考えたこともあった。 ある時、さんざん殴られたあげく 家から放り出された。 「私の家なんだから絶対に入ってやる」と 玄関のガラスに体当たりし、 ビールをケースごと扉に投げ割って 玄関扉を大破し 血まみれになって玄関に立ち続けた。 近所の優しいおばさんが 顔や手足から血を流す私を見て キャーキャー泣いてくれたので 仕方なく家に入れられた。 その時、「ざまーみろ」と笑っていられた自分が 今、思い出しても恐いと思う。 強くて正義感のあった私は家では大変だったけど 学校では友達も多かった。 弱いものいじめをする『いじめっ子』を泣かすことが 楽しみの一つだった。 どう言えば相手が泣くのかは簡単にわかる。 何より気も強く手も早いので 喧嘩には負ける気がしなかった。 そして一日も休まずに皆勤賞で小学校を出た。 小学校の時から頭の中で考えていたのは 早く家を出て自立したいということだった。 中学を卒業し、少し離れた私立の高校に通った。 私の家のことを知らない人の中で 普通に生きようと思った。 手をあげられることは減ったが 父とは相変わらずうまくいかない。 前にもまして口が立つようになった私に 父はとうとう高校の授業料を止めた。 大学は数年後に自力で行くことも出来るけど 高校はどうしても、普通に卒業したかった。 「ごめんなさい。いい娘になるから授業料を出して」 そんなことは口が裂けても言わない。 授業料に併せて独立資金も必要なので 大学生のふりをして、ホステスのバイトを始めた。 幸いにもややこしいお店ではなかったので 悪い道には入らなかった。 しかし高校生の私に、大人の相手が出来るほどの 話題や話術の持ち合わせはなかった。 若いからと隙をみて 客に身体を触られるのも嫌で 演歌大全集を買って歌をいっぱい覚えた。 幸い歌は得意なほうで、すぐ覚えられたので 接客よりも歌っている時間のほうが増えた。 おかげでお店やお客さんは私を大切にしてくれた。 あと一週間で高校を卒業できると思っていた そんなある日、 バイト先のお店にやってきたのは 教頭先生と生活指導の先生だった。 なぜよりにもよってあの二人がここへ来るのか。 ここまで誰にも頼らずにがんばってきたのに 今さら停学も、もちろん退学も嫌だ。 でもこの場から逃げたくはない。 先生にばれるのも嫌だけど 大学生だと疑わず、信じて働かせてくれている お店にも申し訳ない。 その時の私は着物で髪をアップにしていたくらいで 化粧は薄く、ばれるほうが自然に思えた。 緊張と激しい動悸の為に先生達の顔を 見たらだめだと思うほど 教頭の顔ばかりジロジロ見てしまった。 「あの娘、俺の顔ばかり見てる」そういう教頭に 横についたホステスさんが言ってくれた。 「先生、男前だから若い子でも気になるだけよ。」 日払いでバイト代をもらいながら 雪の日でも原付バイクで働きに来る私を 仕送りしてもらえない、今時珍しい苦学生だと バイト先では皆が思ってくれていた。 心臓の音があんなにはっきり聞こえて 内臓が全部飛び出しそうだったのは あの時が最初で最後だった。 ばれるどころか私は教頭の前で歌まで歌っていた。 緊張で声が震えたので、演歌っぽくなって いつもより「上手い上手い」と 店内の全員から拍手をもらったくらいだった。 無事に高校を卒業できた。 血の繋がっているはずの父は苦手だったからか 他人は私に優しい気がしたので 社会に出ると安心して過ごせた。 働きながら人の何倍も勉強したが いつまでも学べないことが一つあった。 次々と変な男に騙されるのである。 それでも懲りずに「この人こそ運命の人かも」 そう思うが毎回違う。 顔が好みでつきあった人は浮気ばかり、 器がでっかい大らかな人と思った人は 借金まみれで巻き込まれる寸前に逃げた。 優しいと思ったら 酔えば女性を殴る癖がある人だった。 食事に誘われ連いて行ったら 相手は違う目的だったらしく 拒否したら海に捨てられた。 それでも泳ぎが得意だったので 何キロでも泳げる私はすいすい泳いで 何もなかったように戻ってこられた。 寂しさを埋めたくて一人にはなりたくなくて それがわかっているのに又 同じように変な男にひっかかる。 それを話す度に 号泣しながらもちょっと笑う友達を見ていて 我ながら悲劇ではなくて まるで武勇伝のようにも思えてきたから不思議だ。 いろんなことがあったが うなされるように見続ける夢は 子供の頃の寂しかった気持ちや 父のことではない。 酷い目にあった男の夢でもない。 高校が卒業できないかも知れないという あの時の夢ばかりなのだ。 今までに、もっと苦しいことや悲しいことが たくさんあったはずなのに なぜあの時の夢ばかり繰り返し見るのか その答えが探せないでいた。 高校を卒業してから10年以上経ち 通信で大学に通いだした。 その数ヶ月後から もうあの時の夢はぴたっと見なくなった。 自力でがんばって高校を卒業しようとしているのに 高校に行かせてもらえない 卒業させてもらえない あの時私が一番恐かったのは 学校を止めさせられることだった。 誰にも甘えないから 誰にもこの先の私の未来を決めて欲しくなかった。 子供だった私はきっとどんな状況の時でも 未来を信じ 自分自身で切り開こうとしていたのだろう。 それを自分自身で気付かないほど 必死であったんだろう。 それに気付かないほど 必死で信じ、必死で生きていたのだ。 父も年をとった。 そして私もすっかりいい大人になった。 結婚したことも離婚したことも 父にはすべて事後報告ですませた。 それでも口数こそ少ないが まるで何もなかったように 過ごせる時間も少し出来た。 今の私に言えることがあるとすれば 父もきっと悩んでいただろうということ。 父からみれば私は子供の姿をした “悪魔”であり“妖怪”だったのだろう。 普通に食卓を囲んで 学校であったことを話せる 平和な家にただ憧れてきた。 それでもあの家を私は選んで 生まれてきたと思う。 おかげで子供の頃から周りの子より 随分大人で誰より自立心が育った。 両親から溺愛されたり いつも愛情を感じた子供として育っていれば 今の私はきっとないだろう。 家族みんなに愛された子供が 運悪く事故に巻き込まれたり 早死にすることもある。 「お前なんか生まれてこなかったら良かったのに」 そう言いながら父に手をあげられていたからこそ 誰よりもしたたかに生きようと思った。 生まれてこなかったら良かった命ならなおのこと 誰よりも笑い、誰よりも楽しんで生きようと 苦しい時に何度も気持ちを 奮い立たせることが出来た。 そんな私の過去のことなど何も知らず、 今だけを見て 周りには仲間や友達がいて 私を助けようといつでも力をくれる。 かつて誰にも助けてもらえなかった私が 誰かを助けたり支えたりすることも いつだって出来るのだ。 いつか父を見送り 私も最期の時を迎える日が来るだろう。 その時が来たら胸を張って 父に会いに行こう。 この人生を楽しんだことを心から喜び 「ざまぁみろ」と笑ってやる。 それが私の父への復讐。 そして今度生まれ変わったら 又、あの父の娘になってあげてもいい。 私が優しい娘になれるまで 父が優しい父になれるまで いつか素直になれるまで 何度も生まれ変わればいい。 |
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2013-07-31-WED
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