おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson650 「誰かのせいで何かができない」と言わない自立 ー7.自らつかむ 壮絶な親子問題を抱えながらも、 それに負けず、 自分の人生をしっかり生きていく子どもがいる。 そういう人を、私は、文章表現教育を通して 数多く目撃してきた。 7月31日更新分に紹介した 「れんさん」のように。 だから、よく、大人達にたずねられる、 「あれだけ親に苦しめられても、 なぜあんなに強く生きられるんでしょうか? 親とのささいなすれちがいにもめげて、 弱っていってしまう子と、 なにがちがうんでしょうか?」と。 私は、親子問題の研究者ではないし、 文章の指導はできるが、 生徒の人生そのものには、ただ感動し、 打たれっぱなしなので えらそうなことは何も言えない。 でも、自立を感じる人の共通点はある。 「親を切り捨てない。」 という点だ。 これまで述べてきたように、 親子問題の解決に執着するのでなく、 かといって親を切り捨ててしまうでもなく、 なのだ。 れんさんの文章のラスト、 「今度生まれ変わったら 又、あの父の娘になってあげてもいい。」 という一文には、 驚いた人も多いだろう。 実際、私も、読んだ人にたずねられた。 「なぜあんな虐待を受けながら、 こんな“許し”の境地にたどりつけるのか?!」と。 「許し」と言われたとき、私には、 違和感があった。 私には、れんさんをはじめ、 親から酷い扱いを受けてなお 自立している人たちが、 頑張って、克己して、どうにかやっと「許し」の境地に たどりついたというよりは、 もっとナチュラルに、むしろ「当然」として、 「親は親。」と受けとめているように見えて しょうがない。 たとえば、父親から虐待を受け、 シェルターで生活しなければならなかった子が、 それでも、大学合格したとき、 父親に報告に行こうとしたり。 不倫で家を捨てた親が、 不倫相手に捨てられ、病気になってしまったときに、 子が、その親を引き取って世話をしたり。 れんさんの文章を読んだある人が、 「子を捨てる親はあっても、親を捨てる子はいない。」 と言っていたが、 私が文章を通して見てきた現実もまさにそう。 親からひどい扱いを受けても、 「今後一切、親でも子でもない」とか、 「2度と顔を見たくない」とか、そういう 「親捨て」の境地には決していかないのだ。 むしろ恵まれて育った人のほうが、 「今日から親でも子でも‥‥」と声高に、 親への恨みや拒絶を口にしている。 強く反発しながら、強く求めている。 あらためて「自立」とは何か? 以前とりあげた 読者のこの言葉を思いだす。 <押し返さない> 太極拳で、 先生が私の身体を押しました。 私はそのとき、 押し返していたようで、 先生から、ばっと手を離され、 ぐらついてしまいました。 「ほーら、依存している。」 間髪いれず先生から来た言葉は、 さらに、 「押し返してはいけない。 何をされてもただそこにいる。 それが自分で立つということ。」 (リョーコ) れんさんは、押し返さなかった。 だから、自分の足で立つことができ、 「親は親。」という、 動かしようのない事実を、 事実として、当然のように受けとめる ことができたのではないか。 読者は、言う。 <動かせるものを掴め> まず今ここに存在している自分を 受け入れようと思います。 ほらまた人のせいにしていると認めたり、 ほらまた意固地になっていると気づいたり。 ちっとも素直になれないのに甘えそうになる自分。 抱え込んで放さないと思えばすぐ投げ出そうとする自分。 誰のせいでもない、ただそれが今の自分なのだと 受け入れる覚悟をしたいです。 耐え忍んでいた過去の自分を想う時、 どうしようもない気持ちになります。 手を差し伸べて救い出したくなると、 すぐに今の自分が見えなくなり、 存在さえ忘れてしまいます。 だけどその間も今の自分は待っています。 気付いてもらえる時をじっと待ち続けています。 そして気付いてもらえると、 「さぁ行こう」と立ち上がります。 立ち上がってみると分かるのです。 それが過去の自分を救う唯一の方法だと。 過去の自分は動かせない、 だけど今の自分なら動かせる。 動かせないものから手を放し、 動かせるものを掴むことが 自立なのではないかと思います。 (Sarah) 自分で立って歩こうとしたとき、 私たちは、ふいに、強い力で横から押されることがある。 だれかの暴力だったり、過干渉だったり、 悪意だったり。 その力に押し倒されてしまっては自立はできない。 かといって、押し返しては、 結局は作用に身を預け、反作用でやっと 立っている状態になる。 押す力がなくなれば倒れる・ 押し返さない。 これがまずとても大事だ。 だけど、人間は弱く、 横からぐいぐいずっと押し続けられて、 ぐらつかずただ立ち続けるのは難しい。 そこで、Sarahさんの言うように、 別のものを掴みにいくことだ。 私は、先週の読者「36歳男性さん」の、 「依存が下手な人は、自立できない。 人の世話になんかなるもんかで生きていった人の 成れの果てが孤立だ。」 という言葉を重く受け止めた。 私自身、家族には甘ったれても、 外の人間に、頼ったり、依存したりが ものすごく下手なのだ。 そこを頭を切り換えて、 家族以外の人間に、良く依存することを イメージしてみたものの、 プライドが傷つくのが恐くて なんだかできそうな気持ちさえしてこない。 でも、何か「やりたいこと」をやる、 とイメージしてみたら、 できそうにおもえてくるから不思議だ。 たとえば、パーティをやりたい と自分が想ったとする。 じゃあそれに向けて、料理上手なAさんに ここはうまく頼ろうとか、 場の盛り上げは、社交上手なBさんに たすけてもらおうとか。 そんなちょっとしたことでも、 なにか1つ、やりたいことを想い立ち、 それに向けて腰を上げ、行動を起こそうとしたら、 自分にはムリと想っていた、 家族以外の他人への依存が、 どんどんできそうに思えてくる。 自分の小さなやりたいことをまっとうするために、 かわいくきっちりと他者に甘え、お礼もし、 すると、次は、頼った人が私に頼みやすくなるから 頼られもし、 そうしていくうちに、徐々に徐々に、 家族の意外の人に、依存し依存される術も、 支え合える関係性もついてきそうなのだ。 横から押す力が強いほど、 それを押し返さず、自分で立つには、 つかみにいくもの=「やりたいこと」が要る。 れんさんも、 「小学校には皆勤賞で行く」、 「何があっても高校だけは卒業する」、 「働いてお金を貯めて大学にも行きたい」と、 その時期、その時期で、 押し返す代わりに、自分で動かせるものを つかみに行っている。 一生のライフワークのような 壮大な「やりたいこと」を見つけるのは難しいときでも、 ちいさなやりたいことなら見つけてすすめるし、 それもむずかしければ、 たとえば、未成年なら「勉強をがんばる」というように、 「未来のやりたいことのふり幅」を 広げてくれるものをまず、つかみにいくことができる。 なにもやりたいことなくただ「甘えさせて」 と言うのがムリという人も、 たとえば「上の学校に行きたい」「留学したい」 というような「やりたいこと」があれば、 外に向かって声を上げやすいはずだ。 そして、「やりたいこと」がみつかったら、 なにがあっても手放さないこと。 どんな横からの力が加わっても、 どんなにつらくても、ペースをおとしてでも、 コツコツコツコツ続けることだ。 横からの力が強くて、 いま、どうしてもそれがやれないのなら、 未来にできる道を考え、 それに向けてコツコツコツ行動し続ける。 やりたいことを、自分の胸に問い、 腰をあげる、歩き出す、コツコツ歩き続ける。 その先に、自分の足で立つ筋肉も、 支え合える新たな人間関係もついてくる と私は思う。 |
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2013-08-28-WED
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