YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson655
  「照れてる」の一言で済まされてきた私たちへ


先日、静岡の大学で、
集中講義の最終日、学生60名全員が、
素晴らしい発表をした。

3日間の文章表現トレーニングの集大成として、
書き上げた文章を、全員が全員の前で
読み上げる。

実感と説得力、独創性ある内容ももちろんだが、

その態度の素晴らしさ!

だれ一人として、
物怖じしたり、なげやりな態度をとる人はいなかった。

文章を書いた本人が、本人として、
紛れもなく、いま、ここ、に立ち、

自分の声で、自分の体で、
自作の文章を伝えていた。

存在から、静かな自信が香り立っていた。

声に人格があった。

目にチカラがあった。

美しかった。

この日、学生全員が、
だれ一人脱落することなく
見事に伝えきった陰には、
このワークショップ形式の授業を
牽引した、「1人の女子学生」の存在があった。

自分の想いや考えを
人前で表現することについて、

この女子学生から私が学んだことを
きょうはお伝えしたい。

日本人は、「恥ずかしがり屋さん」に寛容だ。

これは、いいことなんだろうか?

正面切って、ありがとうと言えなくても、
自分の考えを人前で話せなくて逃げてしまっても、
嬉しい気持ちが出せなくて、
逆にぶっきらぼうな態度で、周囲を傷つけてしまっても、

「照れてるのよ」

と、だれかのフォロー、たった一言で、
済まされてしまう節がある。

済まされるどころか、
むしろ、人間的にかわいい、
美徳だ、魅力だ、とされる。

ドラマや映画では、
自分の想いをいっこうに表現しない、口下手な
そのせいで周囲と衝突を繰り返す親父たちが、
ずいぶん魅力的に描かれてきた。

そんなせいか、
時代は変わり、自分の想いや考えを
きちんと人前で伝えなきゃ
どうにもならない世の中になっても、
自分の想いを人前で表現することを
習ってこなかった日本人である私たち、
何歳になっても、シャイを公言してはばからない人が多い。

しかし、表現教育の現場に立ち続けてきた私は、
だんだんと、違和感が募ってきた。

いったい私たち、何歳まで、
「照れ屋」で済ますつもりだろう?

それは、町内のことを決める大事な会議で、
自分たちが当事者として、
意見を述べなきゃならないのに、
マイクが回ってきたら、手でイヤイヤをして、
尻込みし、おばさんたちが、マイクの
なすりあいをしているときに。

また、私より、背も高く、体格も良く、
聡明で、海外経験など視野も広く、
素晴らしい内容の文章を書きあげた若者が、
ただ恥ずかしい、
それだけの理由で、うつむいて、
目もうつろ、なげやりで、聞き取れないような声で、
吐き捨てるように棒読みして、
せっかくの素晴らしい文章を台無しにするときに。

かく言う私も、
恥ずかしがり屋であり、人見知りなのだ。
それじゃ仕事にならないから、
仕事のときは、トップギアに入れて、
人前で表現するが、

気を抜くと、とんでもなくシャイな側面が表れて、
人の目も見れないときがあり、
自分でも幻滅する。

「かわいい」なんてとても思えない。
「照れてる」と言い訳しても済まされはしない。
なんとも言えない感情がわきあがってくるのを、
これまで私はうまく表現できなかった。

先日、静岡で、

ワークショップを牽引するようにして、
学生たちの、照れずに表現する気を引き出した
「女子学生」も、もとは、と言えば、私たちと同様、
表現することがニガテだったという。

彼女は、スポーツチームに所属していて、
例えば、ファインプレーをしたときなどに、
恥ずかしがって、嬉しさを表せない、
目立たないようにほんのちょっぴりしか喜べない、
そんな女の子だった。
そんな状態をコーチは、大変厳しく叱った。

チームワークを結ぶには、
お互い警戒して閉じているままではだめだ。
「あいつは何を考えているかわからない」
チームになってしまう。
コーチは、彼女に、もっと自分を出して、通じ合う
ことが必要と考えたのだろう。

しかし、彼女は、表現できず、苦手意識を強め、
壁にぶつかり、悩んだ。

そんな彼女の悩みを聞いた人が、
ミュージカルに出てみないかと誘った。

引っ込み思案の彼女が、練習して、
人前に立ち、表現をやりきって、
拍手を浴びたとき、大きな変化が訪れた。
彼女は悟った。

「恥ずかしがっている自分を見せるほうが、
 恥ずかしい。」

彼女はわかったのだ。
自分の想いや、考えを、人前できちんと表現しなければ
ならないときに、照れて、ひっこんで、もじもじと、
恥ずかしがっている自分の姿を、人に見られる方が
よっぽど恥ずかしいと。

彼女はそのときを境に変わった。

事実、集中講義のワークショップでも、
まったく物おじせず、まっすぐに立ち、
自分の考えを表現した。

目にチカラがあり、まっすぐに人を見る。
どんなシーンでも、必ず、自分として、
人に対して言葉を伝えた。
立ち姿がとても美しく、
彼女が堂々と表現する姿が、
まわりの学生にも、静かに、確実に、伝染していった。

「恥ずかしがっている自分を見せるほうが、
 恥ずかしい。」

初日に、まだうつむいたり、
ぼそぼそと、自分がどこにいるのか、
だれに向けて言葉を発しているのか、
わからないほど照れていた学生たちも、
この女子学生の言葉と姿勢には
感じるものがあったのだろう。

恥ずかしさは相変わらずあるけれども、
それでも、恥ずかしがる自分の姿を
そのまま見せるのではなく、
恥ずかしくても精一杯表現する姿を見せよう、
と、周囲の学生たちが変わっていった。

そして集中講義の最終日、
恥ずかしがる幼い学生は、だれ一人としていなかった。
全員が、声と体に自信を漂わせ、
胸を揺さぶる発表をした。

長年学生を見てきたスタッフも、
初日とは別人かと疑うほどに、
大人になった学生たちがいた。

「恥ずかしがっている自分を見せるほうが、
 よっぽど、恥ずかしい。」

これは、長年私が表現教育の現場で見てきて
言葉にできなかった想いだ。

女子学生の、この言葉を聞いた瞬間、
積年のもやもやが、すっと解放されるように思った。

伝えなきゃ伝わらない時代に、
いい歳をして充分内面も育っているのに、
その良い内面を死蔵するようにして、恥ずかしがって
現実から引っ込んでいる姿を、
私は、恥ずかしいと、ずっと思ってきたのだ。

「恥ずかしがっている自分を見せるほうが、
 よっぽど、恥ずかしい。」

そして、この言葉を、私は私につきつける。

表現の講師をしているというのに、
ここ一番の緊張の場面では、
生徒の目さえ見れないときがある。
なんとなく、「照れてる」の一言で、
なんとなくこれまで、そんな自分を甘やかしてきたけれど、
もう甘やかさない。

かわいいとか、美徳だとか、とても思えない。
自分で自分が恥ずかしいから。

恥ずかしさがこみあげる局面では、
それでも、必死で、現実とコミットし、
何とか伝えようとする自分の姿を前に出していきたい。
必死な丸裸の自分が見られても、
恥ずかしがって引っ込んでスカしている自分を
見せるより上等だ。

「恥ずかしがっている自分を見せるほうが、
 よっぽど、恥ずかしい。」

そう思う人が増えていくと、世の中、美しいと思う。

この先、引っ込み思案になるときは、
あの目にチカラがある、立ち姿の美しい、
たった一人で60人の前で物おじせず、大人の表現をした、
周囲に影響をあたえた、
あの女子学生を思い浮かべてがんばりたい。

ここ一番の伝えなきゃのシーンで、
恥ずかしがっている自分を見せるか?
それでも伝える自分を見せるか?
あなたは、どっちの自分を見せたいだろうか?

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2013-10-02-WED
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