おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson656 できるところにおさまらないで まわりに、いやな人ばかりが、 どんどん増えていくように 感じた経験はないだろうか。 私は、何回かある。 その渦中にいるときは、 人とのつながりを渇望しているのに、 まわりの人間がつまらなく見え、 あるいは、まわりの人間への興味が薄れていき、 どんどん孤立していって わけもわからず、 どうすることもできない。 でも、あとから振り返って そういうときは、決まって「挑んでない」のだ。 思うに、人は、 新しい領域に「つかみにいく」ということをしないと、 他者への愛がわかないのではないか。 「自己表現」×「先へ進む」ことは、 人間の本能的希求だと、私は思う。 人は、自分の中にある考えや想いを、 どんな形でも、ささやかでも、外に表したいし、 同じところに留まり続けることができず、 未知の領域へ、先へ、先へ、と進み続けたい。 母のように、ずっと故郷で専業主婦をしている人も、 出産、子どもの進学、就職、結婚、孫が生まれ‥‥と、 次々と未知の領域へ進み続ける。 仕事でも、旅でも、遊びでも、趣味やほかの何かでも、 人は、ある程度年月が経つと、 先へ! 進まずにはいられない生き物だ。 自分の意に反して、周囲の人間が、 どんどんでくのぼうのように感じられていく状態は、 いわゆる「天狗になっている」状態だと私は思う。 そして、「天狗になる」とは、 未知へ踏み出すべき時がとうに来ているのに、 これまでの自分の枠から進めない、 その自覚もない、状態ではないだろうか。 一般の「天狗」の定義とはずいぶん違う。 でも私は、現実に会ったことがないのだ。 「俺はすごい」、「俺が1番だ」と おごり高ぶっているプロに。 多くのプロが、実力の面で、つねに まだ足りないと思っているし、 努力も続けている。 自分よりすごい人がごろごろいることも知っている。 天狗は、高ぶるというよりは、出られない状態。 スランプとも違い、うまく行っているように思える。 進むと言っても一本道ではないから、 まったく思わぬ方向、一見逆行かと思う方向で 実は進めるかもしれないし、 とくに新展開を、などと気負わず、 現業を淡々と極めていく際中で、 ふと、その先に進んでしまっていることもある。 「自己表現」×「先へ進む」という本能的希求が 満たされないというのは、 よい例えではないがトイレに行かせてもらえず ずっと我慢し続けた果てに、 もう何も感じなくなっているような状態だ。 解放されない、わけもわからず、虚しい。 この状況で他者への愛がわかないのは むりもないことだ。 先へ進めない状態は、 ひたすら、CAN=できることを、なぞって 塗り固めているような状態で、 その領域の中では、 どんどん「できる」ようになり、 あちこちに呼ばれて 「CAN=できること」は、 ほっといても、どんどんどんどん太る。 この無自覚の閉塞状態では、 「なぜ、この人は、こんなわかりきったことを聞くのか?」 「あの人も、この人も、わかってない」 「どいつもこいつもなってない、私が教育してやらねば」 というような感覚になりやすい。 孤高と言えば聞こえはいいが、 わかってない、感知できてないのは、自分だ。 この状況を突破するのは、 人間関係のスキルではない。 1ミリでも2ミリでも、 「自己表現」×「先へ進む」という本能的希求を 満たすことだ。 先日、大阪で ワークショップをしていたとき、 ふとそんな瞬間が訪れた。 大阪では、初めて、単発一般公開で ステージ2のワークショップをやった。 このワークショップは、 「たった一人の相手に伝わる! 相手を揺さぶり動かすメッセージを書く」 というもので、 お母さんならお母さんへ、 高校のとき喧嘩別れした親友へ、 チームの士気を乱すトラブルメーカーの同僚へ、 離婚により離れて暮らす父親へ、など、 具体的な現実の相手一人を選び、 感謝、おわび、関係の修復、 励まし、理解など、 それぞれの思い描くゴールに向けて、 メッセージを書き上げるというものだ。 自分の想いを掘り下げ、 それ以上に、自分ではない相手を理解し、 相手側から自分を見て、 自分の正直な想いを、 いかに相手に伝わるように伝えるか。 4時間で、書き上げるところまでやる。 しかも文章の出来・不出来は、 現実に相手がいるから、明白になる。 難度が高く、 初心者には向かないと判断していた。 しかし、初心者向けのワークで 大阪のみなさんの表現力を見て、 ステージ2もきっとできると挑戦した。 ワークショップのラスト、 30名の社会人の生徒さん全員が お母さんや、友人や、亡くなったおばあさんや 上司や、夫や、息子や、それぞれ想う1人の相手に メッセージを読み終えたとき、 今までのワークショップで味わったことのない 感覚をおぼえた。 不思議なことに、62人いる。 教室にいるのは、 30名の生徒さんと、私、スタッフ1名で32名。 だけど、ここに、 30名の生徒がメッセージを伝えた相手の1人1人、 お母さんや、友人や、亡くなったおばあさんたちもいる。 生徒さんの文章表現だけで 会ったことのない、第三者の私たちにも、 お父さんならお父さんの、 人生・ひととなり・歩く姿勢までもが まるで目に見えるように、 イキイキと実在感をもって浮かんでくる。 素人さんが文章を書くと、 「やさしいお母さん」「コワイお父さん」など、 紋切り型の人物像になりやすい。 だから、ここまで表現するには、 相手の年表や、生き方、想いを制限時間に洗い出し、 どんなに考え、理解したがが伝わってくる。 さらに30名全員のメッセージに心が震えた。 何がすごいかというと「その先」を打ち出している。 たとえば、「ごめんなさい」を伝える文章。 「ごめんなさい」は、 言った本人は気が済んで免罪符になるが、 言われた方は、過去のつらかったシーンを 忘れかけていても呼び起され、 自分の欠点をつきつけられることにもなる。 だから、あえて謝らない勇気、 この日も、人生のにつまずいている息子に、 母親が、 「ごめんなさい。私の子育てが失敗だった」 と謝ろうとして、エゴだと気づいた。 謝れば、息子に欠陥品の烙印を押すことになる。 だから謝らない。 ここまで気づくだけでも、私たちは感動だ。 しかし、この日は、まだ「その先」があった。 謝らないとして、じゃあどうする? というその先、 息子に、いや、息子だけじゃない、 母である私も、「いっしょにここをめざそうぜ!」という 未来の希望がはっきり、言葉で打ち出せていたのだ。 プライバシーのためメッセージそのものは ここで紹介できないが、 だいじょうぶ! いい明日がくる! と 私たちにまで、ぱあっと光が射した。 打ち出した希望も、 息子とともに目指す姿勢もかっこいい! 大阪のおかんだった!!! 母親の継母つまり、「血のつながらないおばあさん」を、 亡くなるときまで、冷たい目で見ていた、という女性は、 考え抜いて、おばあさんに謝らなかった。 おばあさんへの親切も、ねぎらいも、優しさも、 きっともっとたくさん言いたかっただろうに、 すべて勇気をもって削ぎ落として、 ただただ、自分がいま、たのしく生きていることを伝えた。 大して出世とかでなくても、ちゃんと立派にやっている そのことを、おばあちゃん、 天国で誇りにおもってくださいと。 まるで、自然な血のつながった孫の言葉そのものだった。 孫の幸せこそ、祖父・祖母の幸せ! そこまで彼女は4時間で考え抜いたのだ。 そんなふうに、人情に厚い大阪の人が、 感情は豊かにしかし振り回されず、考えて、考えて、 考え抜いた。 相手の立場に立った時に、自分のエゴや、 よけいなおせっかいや、暑苦しい愛情の押し付けは 全部、そぎ落とした。 そのそぎ落とし方の潔さ・大胆さに、本気を見て泣けた。 その先の希望までを打ち出した、 その創造力にまた泣けた。 終わった後、その日初めて会った30人の生徒が 懐かしく、別れがたく感じ、 その場の何もかもが愛おしく、輝いて見えた。 スタッフの女性とは、 自然にハグをして、また泣いた。 心が一つと感じ、何を語っても、あ・うんで通じ合えた。 ワークショップとしてこれまでやってきたことの 1ミリ、2ミリ、先に行ったという直感にふるえた。 私の思い込みにすぎないかもしれない。 でも、この日のワークショップのあと、 不思議な現象が起こった。 教室を一歩出て、 エレベーターで乗り合わせた人も、 道案内をしてくれたおじさんも、レストランの店員も、 駅員も、電車で乗り合わせた人も、 すべての人が、愛おしく見えた。 ひとりひとりの、仕事は何で、ご家族はどんな方か、 どこへ帰るかと、興味がわきでてくる。 満たされていた。 「自己表現」×「先へ進む」という 人間の本能的希求が果たされたのだろうか。 新しい領域に1ミリでも踏み込めば、 自分は新参者、他者に対する新しい発見も、 周囲への尊敬もまた、わき起こってくる。 できるところにおさまらないで、 失敗は減っても、 それじゃ満たされない。 「また新しいものをつかみにいきたい!」 あの不思議な人々への愛しさを また経験したいと私は思う。 |
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2013-10-16-WED
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