YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson661
  あの世のコミュニケーション


メールやツイッターなどで
できることは限られている。

限度をわきまえて使いこなすにはとてもいい。

でも、限度を超えて欲望を満たそうとすれば、
それは自然の摂理にそむくことで、
ねじれを生む。

ある作家のツイッターに、
「妻が余命宣告を受けました。
 なにか私たち家族の支えになる言葉をください」
と、まったく面識のない人が
返信機能をつかって頼んでいた。

コメントした人はどれだけつらいだろうと
気持ちを考えると、
その人をまったく責めるつもりはない。

ただ、いくらスーパースターな言葉の達人だって、
それは無理というものだ。

奥さまのことを
小さいころからずっと見てきた肉親でさえも、
日々顔をあわせている友人でさえも、
「かける言葉がない」のが現実ではないだろうか。

まったく会ったことも、見たこともない
それゆえに奥さまのことをまるで知らない人間が、
言葉という実はとても不自由な道具をつかって、
たった140字で、「救済」をデリバリーすることは、
書くことに誠実であろうとすればするほど不可能だ。

期待したコメントがもらえなかった人も
つらかったと思う。
でも作家のほうもつらかったろうと、
書く人間として察する。
言葉で人に歓びを与えるのが仕事だ、
決して言葉で人を失望させたくはないはずだから。

そこに「それが書ける」ということと、
「それができる」ということは違う。

ツイッターでも、メールでも、そこに、
「友だちになって」という文字はカンタンに書ける。

だが、ほんとうに、
相手にも自分を好きになってもらって
心が通じ合い、友だちになる、ということは、

自分が現実に友だちになれた人、
なろうとしてなれなかった人、
なってくれと言われてもなってあげられなった人、
考えてみれば、
決してカンタンにはいかないとわかるだろう。

だけど、あちこちで「書ける」と「できる」が短絡する。

最近では、十代の女の子が、メールやラインで
会ったこともない男性と恋に落ち、
会ったこともない彼に要求されるまま、
会ったこともない彼女として裸の写真を送ってしまい、
写真をばらまかれるという事件が問題になっている。

メールで会ったこともない人と
恋愛することも、
友だちになることも、
人生や生死にかかわる相談をして救済を得ることも、

道具の積載限度オーバーだ。

きっかけがツイッターで、そのあと実際に会うとか、
実際に会って言い忘れたことをメールで補うとか、
補助的に使うのならもちろんある。だけど、

メールだけ、ツイッターだけ、
で成立するかというと、

それはいわば「あの世」のコミュニケーションだ。

メールやツイッターの積載限度を超えて
欲を出そうとする現象をみると、
私はきまって、ある映画を思い出す。

主人公である「父親」は、
目の前で、幼い息子を交通事故で死なせてしまう。

悲しみにくれる父親は、
裏山にある動物の墓地を思いだす。
その墓地に死んだペットを埋めると生き返るのだ。

父親は神にもそむく覚悟で、
息子の遺体を、埋める。

しばらくして、死んだはずの息子が
生きて歩いて返ってくる。

見た目は、息子だ。
だが中身は、
以前の息子とは、変わり果てた

化け物だった。

人間が自然の摂理にそむいて欲を出せば、
現実のなかに切ない「ねじれ」を生むことを、
この「ペットセメタリー」という映画に教えられる。

現実に恋人がいない人が、
ラインのなかだけで、
会ったことも会うこともない恋人と
永遠の愛を誓い合える。

目の前にいる同級生に、
「ごはんに行こう」と声もかけられない人が、
ツイッターの中だけでは自分らしく積極的にふるまえ、
会ったことも会うこともない友人たちとだけは、
「あうん」で心が通じ合える。

これらは、
死んだ人を生き返らせてくれるペット霊園のように、
簡便で、夢のような話だが、

それは、「あの世のコミュニケーション」の
ようなもので、
この世に据えて、よくよく見ると、
幽霊のように足が無かったり、首が無かったり。
どこか、ちぐはぐな「ねじれ」がある。

そこを乗り越えるには、やっぱりそこから、その相手と、
顔を合わせ、「この世のコミュニケーション」を
いちから、コツコツ積み重ねていくしかない。

言葉はたいへん不器用な道具だ。

ものごとの一面しか切り取れない。

よく「奇跡の一枚」という写真があるけど
あんな感じだ。

ある角度、ある一瞬、だけを切り取って写真にとると、
モデルか、女優か、と見まごうばかりの美女、
しかし、実際に会ってみると、
美女とは言い難い容姿。

簡便に、文字と文字で通じ合えたと思っても、

顔と顔、身と身を置いて向き合えば、
別の側面が、そしてより多面的に、相手が見えてくる。

「やはり人間は、会うしかない。」

私はつくづくそう思う。
私は、メールは連絡用にしか使わないし、
ツイッターは自己発信として優れた道具だが、
返信機能は大変使い方が難しいものだと思っている。

こみいったやりとりは決して
メールやツイッターではせず、必ず会ってする。

メールで人を責める人がいて、
最近とてもショックを受けた。
内容に関してではない、
その人は、メールという道具を
ずいぶん信じているのだなあ
と思い、そのことに衝撃を受けた。

私は人を責めることも、苦言を言うことも、
これらの道具では、しない。
しないのではなく、できない。
やるなら、会って、相手に直接言うし、
会えないなら、もう、
苦言を言うこと自体を諦めるよりしかたがないと
思っている。

それは、決して、言葉や、
メールやツイッターを軽視しているからではない。

「山田ズーニー」という存在自体が、
インターネットで、言葉によって生まれた存在だ。
多くの読者の経験から滲み出た胸を打つメールによって
支えられている。

メールにしても、
ネットの中での言葉のコミュニケーションも
自分の限界までやり続けてこそわかる。

顔を見ることのできない人々に、
言葉だけで、自分の想いを伝えることがいかに大変か。

言葉だけで伝え、相手と通じ合い、
そこからささやかでも現実を変えるような
何かを生み出すには、

魂を削り言葉にのせるような、
真摯な書くことへの取り組みが要る。

魂を持った言葉には命がある。
もはや、あの世のものでない。現実を動かす。

言葉だけで通じ合う大変さを知り抜き
生きた言葉で通じ合う歓びを
享受しているからこそ思う。

簡便な「書ける」と「できる」の短絡で、
人は通じ合えない。
そこに安易な「できる」を返してくる人は、
不誠実だ。

それなら親や、同僚や、もっと身近な人に
体当たりで、自分の想いを表現してみたほうがいい。

「人と人は会わなければならない。」

この世のコミュニケーションに
生きてほしい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2013-11-20-WED
YAMADA
戻る