YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson669
   アートのチカラ3.アートの気持ち


アートはなんにも言わないけれど、
もし、しゃべれたら、

人間に何を言うだろう?

「アートのチカラシリーズ」には、
アーティストからも、
美術教育者からも続々おたよりを
いただいている。

そして、「アート自身」からも?

まずはこんなおたよりから
紹介しよう。


<アートの気持ち>

アートのチカラを読んで、
読者の方々の思いを読んで、
私の中のアートへの思いも
改めて表現してみたくなりました。

私は美術が大好きです。

太陽や月や風や砂と同じように、
美術は人を選びません。

美術初心者が来ても、美術玄人が来ても、
作品は変わらぬ態度でそこにあります。

キャリアウーマンが来ても専業主婦が来ても、同じ。

美術はその人が誰かなんて、気にしません。
美術が気にするのは、その人が生きているかどうか、
です。

美術の前では、何者であってもいいし、
また、何者でもなくていい。
ただ生きていればそれでいい。

そのことが、ある人にとっては
とても心地良いことかもしれないし、
また別の人にとっては
とても難しく居心地の悪いことかもしれない。

だけど、それでいい。そもそも美術は
作品の前にたった人がどう感じるかなんて
気にしていません。
好かれることなど期待していません。

「あ、人が来た。」

それだけでいいんです。
(アズミ)


<立ち入り禁止のその先へ>

わたしは
何年か前から

浮世絵をフィギュアにしています。

年に2度くらい
イベントに参加して
そこで展示即売しています。

「なぜ作品をつくり売るのか?」

人の描いた絵を立体にしているだけで
オリジナルと言えるものではない。
わたしのつくるものがアートではないと
感じる人がいることも承知。

でも、今日の朝ふと
「わたしがやりたいことは
 笑えるものを増やすことじゃんかぁ」と。

「触れないものを
 触って感じ取る
 ひとつの方法として
 浮世絵のフィギュアはある」

「普段
 ガラスの向こう側にあるもの
 (触っちゃいけないもの)に
 どうしても触りたくて
 という感覚で
 つくりだしたもの」

わたしは子供の頃
「さわってはいけません」
というものには触りたいし
「立ち入り禁止」は
「入ろう」と判断したがりました。
それが
大人になっても変わらずあるから
浮世絵を見て
これを立体にしたら面白いと感じるし
「見てみて! これ面白いよ!」と
誰かに伝えたくて
つくっているんだなぁ〜って腑に落ちています。

今つくっているものは
触ると色落ちしたりするので
今度はもっと気兼ねなく触ることができるものを
つくりたいです。
(泉鈴)


<いつも身近にアートの気持ち>

美術大学を卒業して、
もう20年がたつ、しがない主婦です。

大学生の時に、ヨーゼフボイスの存在を知り、
芸術とは、創造すること、
だから日常のありとあらゆるものを作り出す事象が
芸術活動である、
という内容の言葉に
共感し、安堵し、

アートの気持ちはいつも身近に持っているつもりです。

作り出したものが、良く評価されて、
どこかで賞かなんかをとったりすれば
うれしいのでしょうが、
そこは、決して目的でなく、
日常の排泄と同じように、身近で、大切で、必要な存在!

私の求めているアートは、そんな日常のアートだな、
とあらためて認識できました。

未曾有の災害では、
アートなんて、何の役に立つのだろう、
と思っていたのですが、
排泄物だったら、無いと困りますよね!
(mmiy)


<不安を超えるからこそ>

よいアートというものがあるとしたら、
自分の枠を予想もしない形で、
広げてくれるものだと思います。

そして、一度新しい自分になると、
前と同じようには世界を見られなくなる。

でもそれはひとりではなかなか出来ません。
自身では気づいてない自分ですから。

アートに導かれているとき、
作者が共にいてくれています。

慣れていない世界に触れるとき、
不安や戸惑いもあるでしょう。
学芸員など、その戸惑いを受け止めてくれる人がいれば、
世界を広げることも出来るはずです。

自分の枠を広げるプロセスで、
作者や、手助けをしてくれる人とつながっていける。
それもまたアートのチカラとだと思うのです。
(たまふろ)


<鈍ってはいない>

僕は、なんとなく自分が疲れたなぁ、と感じたとき、
通勤途中の駅でちょっと降りて、
その駅前を歩いてみたり、
普段自転車で通り過ぎる道を、わざとゆっくり歩いて
見たりします。

人は「慣れる」動物だと言いますが、
普段、何げなく自分が目にしている「風景」や、
聞いている「音」、触れている「モノ」。
本当にその通りです。

新しい職場や、
新しく住み始めた町など、スタートした直後は

「見るもの」「聞こえるもの」「触れるもの」が
みんな新鮮で、それが心地よい刺激になったり、
時にはストレスになったりします。

そんな時、僕自身は、
何か新しいものを自分の中に取り込んだ、
かっこよく言えば成長した、と感じ、
そのことでチカラがわいてきます。

アートに触れることは、
普段の生活に慣れてしまった五感を、
リセットしてくれるのかもしれません。
つまり、

自分の五感は、「鈍くなった」のではなく、
「慣れてしまっただけ」なんだ、

と発見できて
そのことがチカラをくれるのだと思います。
(ひげおやじ)


<“もっと話したい!”を授業で>

私は中学校で美術を担当しています。
アートのチカラ2にあった、

「学芸員が、客に問いかけ、
 客の話を尊重したうえで、
 見方は言わず、
 控えめに、作品の背景や、作家情報を
 絶妙なタイミングで示す。
 客は、学芸員に感じたことを
 もっともっと話したくなる」

という、この一連の流れを、
1コマ(50分間)の中で子ども達に体験させるのが、
美術の授業でいう、

“対話型鑑賞”です。

私は、中学校美術で教員採用試験を受けた時、
面接官に

「なぜ、中学校に美術という教科が
 必要だと思いますか?」

と聞かれました。
私は、

「心と体をいっぺんに動かすからだと思う。」

と答えました。
心ばかり育っても、体ばかり育っても、
人間らしくないように思います。

中学校美術の授業では、
子ども達が、“鑑賞”の活動を通して、
心と体をいっぺんに動かし、
感じたことを「もっと話したい!」と前のめりになる、
そんな授業をするプロでありたい。
(hotaruu)



読者のアズミさんの

「あ、人が来た。」

という言葉、
まるで、私が見てきたアートがほんとにしゃべったよう、
微笑ましかった。
そして、

「生きているか」

という言葉が胸に届いた。

直島で、
自然とアートの中に生かされた2日間のチカラが、
驚くほど私の中で落ちていない。
あれからもう4週間近くたつというのに。

日常のなかでふと、

例えば、お風呂に入っているときふいに、
例えば、送ったはずのメールが届いていなくて、
カリカリとストレスを感じそうになったときふいに、

直島を想う。

すると、私の背丈以上の直径がある巨大な「球体」や、
青空の下に堂々と座っていた
巨大な「石と鉄板」といった、
アートが語りかけてくる。

目の前で見たときと、まったく同じ鮮度・密度で。

東京に戻ってきたのだけど、
もう一人の自分を置いてきたみたいに、
そのもう一人はアートの中で生き続け、

いつでも、想えば、一瞬で、
心は、あの輝く海と空と風とアートの世界に行ける。

相変わらずアートは何にもしてくれない。
問題を解決してくれるわけではないし、
直接的な方法を示してくれるわけではない。

でも、心に想えば、一瞬で、
あのアートの世界に行ける。

生き生きする。

表現教育の場で、
少女期を引きこもって過ごし、
現代アートに心底救われたという女性に
出逢ったことがある。
彼女の気持ちがいま少しわかるように思う。

心に、行ったり来たりできる場所があるこの感じ、
精神の風通しのよい感じ、

「自由」なのだ。

あと2通、おたよりを紹介して
きょうは終わりたい。


<おい、起きろ!>

むかし、どうしても
元気が出ない時期がありました。

都会のど真ん中で暮らしていた頃、

忙しく働き、体を壊しました。
心も壊していたみたいで仕事を辞めました。
朝からお酒をあおるように飲んだ時期もありました。
苦しくて、情けなくて、でも認めたくなくて、親にも言えなかった。

生きていてもだれの役にも立っていないし、
何を考えてもだれからも望まれていない気がして、

にぎやかなキラキラした場所で
どんどん埋もれていく自分に耐えられなくなり

将来のことも考えず、田舎に帰りました。

帰ったって、当然、どうやって食べていくか
モヤモヤと考えてはいたけれど腹は決まっていなかった。
どこにいたってわたしは中途半端なまま。
だれの役にも立たないまま。

田舎に帰ってホッとするかと思えば
気持ちは都会暮らしの日々の延長・・・

焦りでいっぱいになりかけた頃、
地元の友人が外へ連れ出してくれました。
その日、私は、ある「絵」と出会いました。

これはわたしのための絵だ! と、そのとき思いました。

絵に、グワッっと肩をつかまれて
おもいきり激しく揺さぶられました。

おい! 起きろ! おまえの人生だろ!
おまえが良いと思ったものを
生きているうちに「これが良い!」と堂々と言ってみろ!

この絵を描いた人と、
縁があったのか、しばらくして結婚しました。

いま海と山にかこまれた田舎で
絵描きの夫と暮らしています。

いっしょに生きています。

「アートのチカラ」を読んで
涙がとまりませんでした。

自慢じゃないけど生活は苦しい。けれど、つらくない。
ごはんも美味しいし、かなえたい夢があって、
仕事もしています。

芸術にはそういうチカラがあるんだと感じています。
(ある絵描きの妻より)


<途方も無さ過ぎるからこそ>

私は、アーティストです。

記事に大変感動したので、メールします。
笑いがら泣きながら、何回も読みました。

私は、毎日本当に、アートの忠犬ハチ公のように、
それのために必死です。

そのために、ほとんどの時間と労力をかけています。
毎日12時間以上、
アグレッシブなビジネスマンに負けない勢いです。

誰に理解されなくてもどころか、
自分でも完全に理解できていない状態で、
先へ進まなければいけないのです。
しかも、誰のためでもなく、
ましてや自分のためでもなく、
はっきり言って無謀極まりないです。

たまに、何のために、
こんなに頑張ったり辛い思いしたり
しなくちゃいけないのか、
本当に分からなくなり、悲しくなります。

途方も無さ過ぎるのです。

でも、泣きながらでも作ります。
つくらなきゃいけないことだけは、
無条件でわかっているからです。

でも、この記事で心底報われました。
まったくその通り、摩訶不思議です。
教育との違いの箇所も、ズバリで、
教育では遠回りすぎるのです。

かなり、スッキリしました。
これからも、訳がわからないもののためにこそ、
全力で追い求めたいと、勇気がわいてきました。

たぶん、私は、宇宙のためにつくっているんだと
思います。
そして、真に大事なことは、いつだって、
無条件だと改めて気がつきました。
(吉田 夏奈)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2014-01-22-WED
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