YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson670
   アートのチカラ4.共振


アートのチカラシリーズに
今週もたくさんおたよりをいただいている。

まず、このおたよりから紹介しよう!


<アートのチカラ>

直島で、
私も生きる力をもらいました。

ある作品の中に入ったとき

「あ、安心して死ねる、だから生きれる」

と思ったのです。
何故だか涙が止まらなくて、
そこの部屋担当の学芸員の方と一緒に
ぼろぼろ泣きました。
決して悲しいとか、
勇気がわいたとかではないのです。
でも、

“死”に対して温かな思いが生まれたようで

安心して生きていくことができる、
と心の中にすとんと
何かが落ちて広がった気がしました。

もう1年以上経つのに、
いつも心の中にその光のような物がずっとあります。

何も聞かず何も言わずに
一緒に涙を流してくださって横にいてくださった
学芸員さんに感謝の気持ちでいっぱいです。
(李美華)


<心理とアート>

心理セラピストです。
人間の心の奥底にあるものに興味を持ち
ずっと探求を続けています。

そうしているとさほど興味もなかった
アートという存在にぶつかりました。

なんだこれは。

芸術家が自分の内面を掘り下げて
そこで発見したことを表現する。

そのプロセスで精神的に病んでしまう人は、
人の内面の持つ闇に落っこちてしまう人。

崖っぷちをフラフラと
落っこちそうで落っこちない人達が
プロとして活動しているのです。

深い闇を見ることはできるけれど生還する。

それが心理セラピーのプロセスと
全く同じだということに気づいたのです。

美術館や劇場で開催されているワークショップに参加して
学芸員、アーティスト、コーディネータ等による
サポートで見えて来たことです。

右脳的な言葉にならない芸術体験が、
自分の体を通して左脳的言葉になっていく。

芸術は心の深いところに作用する。
それを意識に浮上させる橋渡しをしてくれる人の力は
大きいですね。
(まぁちゃん)


<アートの域>

今48歳女で、
アホみたいに体を鍛えています。

若いころ、アート系の人たちとお友達になれるとは
思っていませんでした。
でも、今、心が通っている気がしています。
共通点は、

「他人に理解されなくても、
 自分にはしたいことがある。」

という事です。
“わかるわかる、私も体育会系だから”と、
ちょっと昔スポーツが得意だった的な人から
言われますが、
ちょっとちがうんです。
「走るのが早くなれば、命ぐらい短くなってもいい」
と思っているところが。
この、

「命が多少短くなっても、やりたいことがあるか?」

という命題は、意外に重くて、
40をすぎたあたりから、分岐点な気がします。

健康のためのスポーツではなく、
純粋に早くなりたい、うまくなりたい、
と思っているかどうか。

アートで言えば、余暇ではなく
本当に睡眠をけずってもしたいかどうか?

私は、たぶん人からみたら十分に痩せています。
でも、これではいけないと思っているのです。
もちろん、オリンピックはおろか、
国体でさえも参加できません。
でも、少しでも速くなりたいのです。

命を削ってでも。

48歳になれば、人の評価などどうでもよくなりました。
女を捨ててると、言われたこともありますが、
女を捨てて速くなるのであれば、捨てたいです。

そう反論できる私は、年を取ってよかったなあ。
25歳ではこの反論をできなかった。
(たかひろりん)



「安心して死ねる、だから生きれる。」
とアートのチカラに直感した李美華さんのように、

私も昨年、アートから
すとん! と温かな直感が来たことがあった。

それは100分間のギターの独奏ライブ。

しゃべりもせず、歌も入らず、
曲と曲との間に一瞬の休みもなく、

たった一人のアーティストが、
ぶっちぎりで100分、黙々と、次々と
多彩な音楽を奏でるのだけど、

「ギターを使ったアート」

という言葉がピッタリ! の
見たことも、聞いたこともないライブに
行ったときのことだった。

この時期私は、孤独感がピークで、

フリーランス×一人暮らし、
自ら選んだのだと、頭じゃわかっちゃいるけれど、

来る日も、来る日も、来る日も、
一人が続いて、さすがに心情的にツラく、
たまらなくなっていたときだった。

そういうときは執着が出るからだろうか、
うまくいかない。
「やっと友人とごはん!」と待ちに待っていると、
用事で流れたり、相手の体調が悪くなったり。

ふつうの人がふつうにやっている、
「だれかとたわいの話をしながらごはんを食べる」
ということが私にはなかなかできない。

すると、
「私はもともと孤独な人間だ」と、
なんだかいじけて、みじめになっていく
そんな時期だった。

ギターの独奏には、
歌もない、歌詞もない、
何か1つのメッセージを訴える曲調でもない。

だから、聞く人によって、どうとでもとれる。

私も、とても言葉にならない、多彩な感覚を
ギターの響きに引き出されて、かきたてられ、
していた。

そのとき、

「あ、全部ある。私が持ってる。」

そう直感した。

あまりに急だったので、
自分で自分に、
「全部あるって、何が?
 持ってるって、何を?」
という感じで、リクツが全然追いつかなかった。

リクツが追いつかないまま、
なぜか、すとん! と直感は体に落ちて、

次の瞬間、感動。

温かい、安堵の感覚がみぞおちから体中に広がった。

あとから言葉にしてみると、

一人ぼっちで来る日も来る日も行動して
寂しいとおもっている私だけど、
じゃあ、だれかと一緒にごはんを食べることができたら、
一緒に行動したりできたとしたら、
その人から、何をもらいたいの?
と考えたときに、

愛とか、温もりとか、優しさとか。

「あ、それなら全部ある。
 人からもらわなくても、もう、すでに
 私が持っている。
 むしろ、私から、人にあげられる。」

そう気づいたのだ。

この日ギターを弾いていたのが、
ダスティン・ウォング。

2000年にこの「おとなの小論文教室。」で紹介した
絵を描いていた17歳の少年
だ。

あれから13年、彼はその後アメリカに行き、
ミュージシャンになっていた。

自分でも、まさか、ギターの音色から
なにかもらおうなどと予想もしてなかったし、

上記のようなお客さんの反応を、
アーティスト自身も、まったく、意図も、予期も、
よぎりも、していなかっただろう。

けれど、私はこのギターのアートから、
たしかに直感を受けた。

帰る道すがらも、
ずーっと体の中に温かいものはあった。

あの日以来、この温かさは消えていない。

このアートのチカラシリーズでは、
読者と読者の共鳴も、
あちこちで起こっている。

そんなおたよりを紹介して
きょうは終わりたい。


<前回の読者メールを読んで>

とても心に響く文章の数々です。
「自分がこれからどうやって
 美術と関わって生きていこうか」
と思っていたので、なおさらです。

また描いたり、造ったりしたいし、
今年はすると思う。

でもまだ頭で考えていて、
頭が勝っているのでまだです。

衝動が来るのを待っています。

自然のように、ただそこにいるアートは、
頭からは出て来られないと思う。

どうしようもない感情、
衝動というしかない現象が起きたら、
また自分が自分でない時間に帰るのだと思います。

それはとても幸せな事だと思います。

私はとても幸せなんだと思います。
(ミヤマリョウコ)


<先週最後の読者メールを読んで>

「アートの忠犬ハチ公」という言葉と、
「吉田夏奈」さんという名前が、
なぜか心にひっかかってぐるぐるしていたら、
はっと、

私、彼女の作品を見たことがある!

ということに気が付きました。
2011年の私の日記にこう書いてました。

「数日間、東京に行って、
 学生時代からの友人の展示、
 新しく知り合った人の個展、
 まったく知らなかった作家さんの美術館での展示も
 見てきた。
 ものをつくることは共通していても、

 あるジャンルを選ぶ時の、
 その人にとっての必然性とか根拠ってなんだろう?

 私はまだ、私が選んでいるものが
 完璧に私にフィットしているという確信がない。

 東京での最終日、昔からの友人と会って話をした。
 大学時代の友人夫婦が別れたやら、
 新たに再婚して子供が生まれるやら。

 同じ時間同じ場所で同じ空気を吸って過ごした
 きらきらは、
 いつまでも持続するものではない。

 あの時、一緒に闘ったよねという記憶の中に
 原点を見ようとしたり、
 そういう関係にすがるのはもういいや、と思った。

 それよりも新たに、今、
 ちゃんといまを闘ってる人達の空気の方に
 より多く触れていたい。

 そういう空気の中で、
 すぐ人に見せたり説明出来る形にならないとしても、
 自分の中での次、の糸口を見つけておきたい。

 私が今、生活スタイルを変える事に不安を感じるのは
 お金のせいでも仕事のせいでも相手のせいでもなくて、
 ただ、自分が次に自分を賭けてみたいと思うものの
 手掛かりが見つかってないからだ。

 その、ほんの先っちょでも掴めてれば、
 生活や周りの風景がガラッと変わることなんて
 別に怖いと感じないだろうなと思った。

 まぁ何はともあれ、
 恵比寿の駅でえびすビールのメロディが
 発車音に使われてたのと、
 オペラシティーギャラリープロジェクトNの
 吉田夏奈さんの、
 ビールを飲みに行くまでの険しい道のりを描いた
 LOVEBEER手ぬぐいのビールの泡が重なって、
 ほっこりしあわせな週末でした。」

以上、2011年3月8日SNSの日記からの抜粋です。

私にとって、
数年おきに作品を発表し続けてくれる
アーティストの存在は、
ふりかえるとそこにいる並走者のようです。

自分がふらふらしながらも進んできた
コースを思い出させてくれる
心強い道しるべになっています。

泣きながら並走してくれているなんて、
うっすら気付いていたような、
でも自分が進むのに精一杯で
本当には気付いていなかったような、
そんな思いで「アートの忠犬ハチ公」という言葉を
読みました。

夏奈さんに、
「見てますよ」と伝えられたらいいな。
見たことを忘れてしまって暮らしてても、
「ちゃんと作品は私の中で生きてたみたいです」と。
(アズミ)


<「アートのチカラ」3.アートの気持ちを読んで>

やーまいった。

みなさんの投稿の中味がビンビンと伝わってきました。
特にアーティストの吉田夏奈さんのメールは、
アーティストの心意気を浴びたような衝撃が走りました。
制作に賭けるその躍動感とダイナミズム。
自分のなまぬるさも痛感しながらも、
自分の中にも奮い立つ共振が起こり、元気を頂きました。

アートのチカラは、まず、自分自身がそのチカラで元気に
なれれば、それだけでも十分です。
でも、そのチカラを作品に込めれば、きっと
誰かに伝わる。

ズーニーさんが直島で最初に感じたチカラは、
文章で表現され、
読者に伝わり、お便りで返され、
またまた反響していく。

「伝わる」って何がどう伝わっているんでしょう?

これこそ説明できませんが、
一つの振動が、他に響き、共振していくような
イメージです。
自分が感じたり、受け取った振動をカタチに表す。
それを、見たり、読んだり、聴いた人の中に、
その共振が始まる。
その連続と反復でバイブレーションは更に大きくなる。

私も、作品にもっともっとチカラを込めていきたいと
思います。
(iwata)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2014-01-29-WED
YAMADA
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