おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson672 演技と表現 2.読者の反響 演技と表現は、ちがう。 たとえば、 ハレの日に、 お腹が痛くなってしまったようなとき、 まわりを思いやって、 ツライそぶり1つ見せず、 だれ1人にも気づかれず、 「元気なふり」をやり通す=「演技」か? それとも、 実はお腹が痛いのだ、 情けない、みんなに迷惑かけたくない、 それでも、この場に参加したいのだと、 自分の想いを外へ外へ表し、まわりの理解を仰ぐ =「表現」か? 人は自分の求めに応じてどちらか選ぶ。 どちらが良い悪いではないし、 どちらも努力や継続が要る。 でも、演技か? 表現か? どっちを選ぶかで、心のありよう、見る風景は、 ずいぶん違っていく。 先週の「演技と表現」には、 たくさんおたよりをいただいた。 きょうは、読者の反響を紹介しよう。 <「演技と表現」を読んで> 「歌の上手い友人」と、 「シンガーとして歌を歌っている友人」の 歌声を聴いて いつも感じることがあります。 二人は「朗読者と詩人」なんだと。 どちらも心うたれる歌声です。 どちらかだけが優れているわけでもありません。 ただ、違う。 歌の上手い友人の声は、 自分の思いをベースになる歌に乗せて歌う 俳優の朗読劇のようです。 一方シンガーの友人の声は、 ベースの歌をのっとって、 1から自分のものとして発信されている。 記事を読んで、ぼんやり感じていたことを クリアにできました。 (愛) <ピアノは命> 子どもたちにピアノを教える仕事をしています。 私にとって、ピアノは命です。 「演技と表現」を読んで、 コロッケさんが言っていたことを思い出しました。 「所詮、ニセモノですから」 あぁこの人は自分の仕事を こういう風に捉えてやっているんだ、 さすがプロだなぁと思いました。 たとえば、薔薇の花を 写真で撮ったり、油絵で描いたり、 刺繍で描いたり、造花で作ったりして、 限りなく薔薇の花に近づくことができたとしても それは悲しいかな本物の薔薇ではない。 青木隆治さんは、「製品」を作り上げることに命を懸け、 プロとして、たゆまぬ努力をして 真正面から仕事をしているのだと思います。 まるで美空ひばりさんが乗り移ったようなその演技は、 見ているものを感動させるすごさがある。 それはそれで尊いのだと思います。 ただ、私にとってピアノが命と同じように 研ナオコさんにとって、きっと歌は命なのだと思います。 音楽は心を表現し、生きている証です。 だからこそ感謝も生まれる。 そしてそれはニセモノではなく本物であってほしい。 ピアノの生徒たちには、 ピアノを弾くための技術だけでなく 心も育てていきたいといつも考えています。 (Karen) <目指す理想を演じきったときに> 最近よく、 安室奈美恵さんのプロモーションビデオを見るのですが、 見る者に何かを押しつけない、 颯爽としたかっこよさがあって 見ていると不思議と解放されます。 彼女は人にどう思われようとも、 自分の考えるかっこよさを 追求してきた人なのだろうと感じます。 演技は演技でも、 良い子に見られたいという演技と、 自分が考える良さを追求している演技は、 根本的に違っていて。 青木さんんがもし「真似る歌手の仮面を被りきる」 という芯を追求していくのなら、 演技も、演技と言う表現になるのではないかと思います。 (Sarah) <自分で作ってみる> 青木さんに事前に「歌詞」を作ってきてもらえば 違った結果になったのかな? 「表現」には動機づけが必要な気がします 何か「歌うことを通して伝えたいもの」を 青木さんに用意してもらって、 掘り下げていけたら違った展開になったのかも・・・ (小太郎) <挑戦を讃えたい> 研ナオコの泣く気持ち。すごく分かる。 その「自分のこだわり」 あるいは「胆(きも)」が伝わらない。 研ナオコはおそらく魂の厚みや 凄みのようなものを届けたい。 青木は自分の稀な魂の輝きの きらりと光る瞬間をみせたい。 こう表現すると、 近づけるかも知れない気がしてきました。 それぞれの違いを「言葉」で表現したから。 やはり、挑戦することを讃えたい。 周囲を泣かせても、 それに近づこうとしていることを讃えたい。 なぜなら、私もそうして、誰かを泣かせて ここにいると思うので。 (直) <スキルとしての演技> 中学生の頃、 部活動の教師が熱血すぎて、 指導に息が詰まった。 私はこの時から、感情論で 表現する人を苦手とした。 大人になり、仕事を始めた。 段々とキャリアを重ねるにつれて、 部下や後輩に考えを伝える立場になった。 飲食店だったのだが、従業員が思うように立ち回らない。 クレームが続いた。 気持ちを伝えても、うまくゆかない。 私は部署を外された。 かえりみれば、 感情ばかりだった。 表現ばかりだった。 中学時代の教師の立ち回りそのものだった。 そこから、全く畑違いの部署へ。 それを機に、少しずつ少しずつ 演じて人に接するようになった。 今、この人はこういう言葉や態度が欲しいんだろうな。 本当はこんなこと言いたくないけど、 それも仕事だし、これも私の新しい一面かも 独りよがりではなく、 相手が望む態度や言葉で、相手に接した。 そして、時には喜怒哀楽の表現を交えながら。 不思議と人付き合いが、すんなりなってきた。 自分としても、フラットな状態でいられた。 最も苦手としていた演技を スキルとして身につけるようになっていた。 演技と表現をうまく使いながら、 日々を重ねてゆきたい。 (アヤコ) <演技者と表現者> 私は現在40歳で 大学時代に演劇部 その後数年間アマチュアで演劇をやっていました。 私が関わった戯曲は、「フィクション」。 台詞はすべてが創作です。 架空の登場人物が話す言葉には 中身が存在しません。 その器に魂をいれるのが役者の仕事。 演技とはなんなのか、表現とはなんなのか ということをよく考え、悩んだものです。 演劇の楽しみのなかに、 “自分ではない何かになれる”があります。 演劇をはじめた当初はそれが楽しくて、 がむしゃらに「何も考えず」に 打ち込んでいたものでした。 しかし、何度も舞台に立つうちに 色々なことを「考える」ようになり どんどん下手になり、悩むことのほうが多くなりました。 この台詞はどういう気持ちで言っているのだろう この時はこんな表情をするはずだ‥‥ 青木隆治さんがモノマネをする相手は生身の人間ですから 完全コピーに近ければ近いほど、 そこにはその人物の姿が浮かびあがってきます。 観客はそこに本物の姿を重ね合わせて 模倣者の姿を見ています。 しかし、フィクションの登場人物の 考えや行動をいくら分析したところで 出来上がるものはハリボテでしかないのですね。 どれだけ達者な演技をしたところで もし、感動してもらえたとしてもそれは 戯曲の力であり、私個人の力ではないのです。 たとえていうと、客が、青木さんに感動するのではなく、 「美空ひばり」に感動するような状態です。 それでも、観客に喜んでもらえるのであれば それは興行としては成功なのでしょう。 “自分ではない何かになれる” そう思ってはじめた演劇でしたが、 どこまでいっても 自分以外の誰かになることなどできない。 これが私のたどり着いた答えでした。 どれだけ素晴らしい「演技」をしたところで そこに中身、すなわち自分の思いのようなもの これが「表現」にあたるのでしょうが それが反映されていないかぎり プログラムされた言葉を発するだけの 木偶人形にしかならない。 皮肉なことに、何も考えずに演じていた初心者の頃や アマチュア劇団ゆえに役者以外の雑事に追われ、 「演技」に身が入っていなかった時ほど 共演者や観客からの私への評価が高かった。 これは結局、「演技」という作りこみが 不完全であるがゆえに 素の自分が顔を出し、そこに 人間味が感じとれたからなのだろうと思います。 私は「表現者」になれるほど 自分を出せる人間ではなかったですし 「演技者」として突き詰められるほどの技術もなければ そのスタイルをよしとできる人間でもなかった。 ですから、演劇の世界から離れました。 あの若かった頃とは違ういまの自分が もし舞台に立ったとしたら どんな「表現」ができるのだろうな。 (あんのん) 冒頭の、 お腹が痛いとき、 元気なふりをし通すか? 本心を伝えるか? で言えば、 私の姉は、まちがいなく、 決して痛いと言わない人間であり、 私は真逆で、 痛いと言わずにおられない人間だ。 姉の出産に立ち会った母は、 姉が、どんなに痛くても苦しくても、 決して痛いと言わないので、 感心というか、尊敬というか、それ通り越して、 とにかく驚いていた。 役者でもない姉が、なぜ、 元気な演技がやりとおせるのか? 読者のSarahさんが言うように、 姉の演技は、決して 自分が良い子に見られたいというエゴからではない。 まわりの人を思いやり、楽しんで過ごしてほしい という「優しさ」の表れ。 だからこそ、やり通せるのだと思う。 姉は根本から優しい人間だ。 結果、姉はすごく多くの人から好かれている。 その一方で、辛いことを内に溜め込んで 体を壊す。 一方の私は、よく言えば正直、 悪く言えば、こども。 溜め込まないで外に出すから、体はいつも元気だが、 まわりの人と衝突したり、嫌われたり、 幼い時から、姉よりずっと友達は少なかった。 姉のようにと思ったことがある。 顔で笑って、心で泣いて、まわりを思いやって 多少の自己犠牲を払って、と。 だが、私は、ほんとうに演技ができない。 いまはフリーランスで働いているので、 ここは演技してでも好印象を与えた方がトクだろうと いうようなシーンでも、 心にない言動をしようとすると、 顔がゆがむ、内臓がぐるぐると苦しくなる。 なぜ演技ができないのだろう? 幼いころから、全部出しても許されたからだ。 自分をおしこめなくても、そのまま出して 愛してくれる母と姉がいた。 バランスをとって、いろんなことを我慢してくれ、 顔で笑って心で泣いてくれた姉のおかげで、 私は演じられないままで育ってこられた。 ならば、 と私は思う。 「表現」を全うして生きようと。 うわずみの感情を、ただ人の迷惑を考えずに 吐き出すのでなく。 より深い想いを、 他者に通じるように出していこう。 演技も表現も鍛練が必要だ。 中途半端ですぐバレてしまい、 返って人に心配させるような 演技は迷惑なだけだし。 ただ聞いてくれ、わかってくれの感情の吐露は、 受け止める人間にとって迷惑この上ない。 表現力を磨きたい。 それで人の役に立つように、 歓んでくれる人がいるように、 自他ともに解放されるように。 極めていきたいと私は思う。 |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2014-02-12-WED
戻る |