おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson688 「人見知り」をのりこえる ―3.恐いは大切 「世間話ならできるけど プライベートな話となると、ムリ」 「はじめまして、から挨拶程度はぜんぜん大丈夫! でもそこから仲良くなるのは、 とたんにハードルが上がる」 「挨拶から、すでにムリ」 など、人見知りも いろんなケースがあるけど、 つぎのケース、 共感する人も多いんじゃないだろうか? <会えば会うほど恐くなる> 人はみんな人見知り、人が怖い。 うなずきながら読んでしまいました。 とてもよくわかります。 けれども、 人数に応じて人見知りが酷くなるということが、 あまりよくわかりません。 私は、 何度も顔を合わせる相手になればなるほど 人見知りになります。 道を尋ねてきた外国人、 ライブを見に来た百人以上の観客、 仕事の取材相手、 飲み屋でたまたま意気投合したおじさん。 初対面の人とはとてもフレンドリーに話せます。 お互い笑顔で、 気持ちのいいコミュニケーションをして そのままお別れできます。 しかし、 学校のクラスメイトや会社の同僚とは 全く会話ができません。 相手が怖いです。 「初対面」だったときはフレンドリーなのに、 なぜこんなに無口になってしまうのだろう? と自分でも不思議です。 きっと相手もそう思っていると考えると、 余計恐ろしくなります。 私は、 何度も顔を会わせるうちに無口になり、 付き合いもどんどん悪くなっていきます。 初対面の人とは仲良く話せるのになぜ? といつも自問自答しています。 結局、どのコミュニティでも一人で過ごしてきました。 こんな人見知りの形もあるのでしょうか。 (H) つい最近、人見知りが抜けた私は、 まるで、ふっ、とトンネルを抜けたかのように 楽になった。 すると、それまでどうして、自然に人に 接することができなかったのかわからない。 「なにを恐がっていたんだ、自分?」 よくよく考えて思い当ったことは、 先月まで自分が 「14歳」だったことだ。 人は、実年齢のほかに、 社会人年齢を持つと私は思っている。 たとえば、社会人の17歳といえば 大卒22歳で勤め始めた人なら39歳前後くらい、 そのあたりが社会人の「思春期」だと。 私自身、社会人の17歳で 会社を辞めてフリーランスになった。 おもいっきり自分がグラグラした年で、 まさに2度目の思春期だった。 で、フリーランスから数えて、 先月までの1年間が 「14歳」だったのだ。 中学2年生。 自我が形成されるに従って、 それまで恐くなかったものも恐くなる。 おとなから見て、はたから見て、 さほど恐れる必要のないものを 過剰に恐れる思春期の内面、 あれはなんなんだろう? それまで全然だいじょうぶだったのに、 自我ができてくると同時に、 異性との会話を極端に嫌い、 異性に対して恐怖に近い態度をとったり。 人によっては、髪型などの「みてくれ」を過剰に、 それも前髪がほんのちょっとどうだというような 人から見てとるにたりないことを極端に気にしたり、 気に入らないといつまでもくよくよしたり。 そんなに恐がる必要ない。 まわりは別に自分だけをみているわけではない。 だけど、ふくれあがる自意識とともに、 肥大化する恐怖をどうにもできない。 自分の仕事の現場で言えば、 表現を過度に恐れる人がいる。 人前で話す・書くのが恐い、という想いは、 たくさんの人が持つもので、 自分が弱いとか、恐いとか、逃げてると 自覚できる人は、むしろ強いのだ。 表現を過剰に恐れる人は、 恐すぎて恐がってる自覚さえなく、 ましてや自分が逃げてるなんて認めるのはおろか、 こわくて直視さえできない。 それで、ただただ攻撃的になる。 先生が、課題が、みんなが、と、 気に障るものを次々とけなしていく。 生徒に、こういう恐れを抱えこまないようにするのが、 プロのつとめで、近年そういう人には めっきり出会わなくなった。 でも初期には、何人か出会った。 興味深いのは、 表現を過度に恐れる人が、 決して表現力に劣るわけではない、 むしろ逆だということだ。 恐れて逃げてしまおうかと思った生徒ほど、 実際、表現したあとには、 「楽しかったー!」 「すっきりしたー!」 と歓びをレポートに綴る。 その内容は、表現の本質を突いてくる。 恐さを通り越して攻撃的になって、 発表のたびに、気に障るものをけなしていた生徒が、 最後の課題では、 だれより勇気ある文章表現を書き上げ、 最高の評価をかっさらっていったこともあった。 発表の際に、いつものようにどんな毒を吐くかと 心の準備をしていたら、 表現に対して、まわりのみんなに対して、 そして私に対してまでも、 しみとおるような感謝を伝えて修了していった。 「そこに価値を感じていればこそ、」 人は恐れを抱く、という、 先週の読者、白井さんの言葉を思い出す。 「表現」というものに、 なにか抜き差しならぬ価値を感じているからこそ、 そうした生徒は、表現を過剰なまでに恐れたのだ。 作家にしろ、ジャーナリストにしろ、 言葉で表現せずには生きられない職業に 将来就く人なのかもしれない。 潜在的に、直感的に、自分の存在の根底から、 価値をびんびん感じるからこそ恐いのだろう。 無邪気な子どものときには、 希薄で、無頓着だったものが、 だんだん思春期になるにつれて 内側には、やがて自分という存在の支柱になるようなもの が形をなしてきて、 外には、そこを通して関わる人やモノ、 いわゆる「居場所」が形成されていく。 「そこ」に、何か自分のアイデンティティと言えるほどの 抜き差しならない価値を感じているからこそ、 そこで傷ついたら、目も当てられない。 自分がこっぱみじんになるような気がするのだ。 コンサート会場に何万人の人がいても、 そこに観衆の1人として座っている分には恐くはない。 けれども演奏するミュージシャンにとっては、 自分の投げかけた音楽が、1人の観客にどう受け止められ 跳ね返ってくるか、が、 自分の存在にとって抜き差しならぬ、 アイデンティティにかかわることだ。 私もフリーランス0歳から、 人前で自分の名でものを書くようになって、 会社や編集部の名で、チームで、 発信していた時とは、 また全然違う、自我が育ち、 人との関係性ができていった。 そのうちに、自分なりのこだわりどころや、 抜き差しならぬ大事なものも育ってきて、 それと同時に、新たな恐さも育ってきた。 中学二年の時のような自意識過剰になることもあった。 けれども、どんな場所でも、 経験を積めば周りが見えてくる。 私も、自分の生きるこの場所で、 自分より、相手の気持ちが見えてくるようになって、 やっと恐さが抜けたと思う。 恐いと大切は近い。 恐いと感じる、「そこ」、こそが あなたの居場所、ふんばりどころかもしれない! |
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2014-06-18-WED
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