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Lesson695 孤独のカタチ − 2.それぞれの孤独 先週のコラム「孤独のカタチ」に たくさんのメールをありがとうございました。 全て紹介しきれないので、 「経験をもとに自分の孤独」を 表現してくださったおたよりに絞って、 紹介したいと思います。 おひとり、おひとり、 かけがえないカタチを 読み取っていただければと思います。 <女性の分岐点での孤独> 20代後半、既婚者です。 子供はいません。 周りは結婚ラッシュ、 高校からずっと仲良しだった3人、 私は25で結婚しており、 この11月に一人が結婚します。 あきらかに、もう一人の友人の落ち込みを感じています。 連絡もめっきり減って、 こちらから連絡しても言葉の節々に孤独を感じさせます。 「マイナス思考に陥って答えがみつからない。 こうなったのも自業自得。 自分の考えてることが恥ずかしい。」 なんて返せばいいんだろう? その気持ちわかるよ、といったところで、 きっと全然うれしくないだろうな。 「あんたは好きな人と一緒で幸せでしょ」、 私だったらそう思うだろうな。 私の主人は 結婚してから大きな病気にかかったので、 主治医から子供は望めないでしょうといわれました。 周りには言ってないので、 早く子供を作って親孝行しろといいます。 後に結婚した人には子供ができ、 どんどん追い越されていく。 友人でさえ素直に祝福できない。 どうして普通になれなかったんだろう。 普通と違うって大変なんだ。 自分の中に初めて妬みひがむ気持ちが むくむく生まれました。 そのことでやっと周りの意見を 気にしなくてすむようになったのはつい最近です。 あのとき落ち込む私に母が、 「どんな人にも苦しみはある」 と言った。 私は、 「私はお母さんになりたい、 お母さんと同じ人生が良かった」 と言いました。 今は、私が妬みひがんだ人たちも、 きっと大変なことってあるんだろうな、 ぼんやりそう思えます。 TVドラマで40代の主人公が、 「女性にとって大人になるって なんでこんなにせつないのだろう」 というようなことを言っていました。 皆が同じように明るい未来へ 向かっていける気がしていた 高校生のとき、 明日が来るのが怖いことなんてなかったけど、 今は、 何も変わらず終わっていく一日が 怖いなと思ったりします。 女性として避けられない分岐点を迎える年齢なんですね。 時代が変わり色んな人生が認められても。 分岐点もどんどん増えていって、 色んな形の孤独が人目にふれず増えていって。 その中で自分がどこに満足するか、 自分で判断して懐におさめあたためていくことなのかな、 と思います。 友人には、 「それでもあなたが好きだし 私にとってこれからもずっと大切な友達だ」 と伝えました。 寄り添えたのかわからないけど、 ほほえんでくれたから、うれしかった。 (凪) <はたから幸せそうに見えても> 私も言われたことがありました。 「何にも悩みなんてないでしょ、あなたは」って。 言われてとても悲しかった。 転勤で東京に越したばかり、 主人は病気療養中、 大事な猫が亡くなって、ズタボロだったのに。 (ジンベ 50才 女性) <挫折と成功を知ってこその孤独> 高校生の時、 音楽の道を志していた私は、 その想いの強さを周囲と分かり合えないことを 嘆いてばかりでした。 結局大学では音楽専攻を選ばず 医療の道に進みましたが、 ピアノサークルに入った時、 ピアノを愛する人たちが大勢いることを知り、 初めて仲間が出来たような気がしました。 専攻こそ違えども、 音楽を真剣にやりたいという気持ちは変わらず 努力を続けた結果、 コンクール入賞やリサイタル開催という 幼い頃からの夢を叶えました。 そんな時ふと、 サークル仲間から自分に向かってくる言葉に 鋭さを感じるようになりました。 「弾けて当たり前」には慣れていましたが、 「指が動いているだけで表現がない」 「この作曲家はこんな音じゃない」 「どの曲を弾いても同じ色」 そこに、 同じ状況で頑張る「アマチュア」に対する敬意はなく、 「CDで聴く演奏」に批評しているのと 同じ感覚がありました。 次第にサークル仲間と音楽の話をすることが 嫌になりました。 私が全く結果が出ずに苦しんだ時期を知らない後輩には、 「なんでも上手くいく人」にしか 見えなかったのかもしれません。 私はアマチュアというカテゴリーにも プロというカテゴリーにも入れず、苦しんでいました。 唯一の救いは、指導してくれる先生方が 「舞台に上がればアマチュアもプロも関係ない」 と言って一切の妥協を許さなかったことでした。 今年、一つの変化がありました。 私は浅田真央選手と同い年なのですが、 4年前のオリンピックの頃は嫉妬と羨望で 素直に応援は出来ませんでした。 でも今年のソチオリンピック、 私は心から浅田選手を応援していました。 自分なりに挫折だけでなく成功体験をしたことで、 彼女の孤独がわかるようになったのかもしれません。 (S.N) <手術前です> もうすぐ入院して手術を受けます。 そういう状況だからか、 ここの所沢山考えました。 今までの人生を振り返ってみたり、 書き出してみて整理してみたり。 その中でどうしても辻褄が合わない事柄が出てきます。 なぜそうなったのか、なぜそう思うのか、 理解できない。 原因は見つからず、解決できない。 答えがでないのです。 これもさまざまな形でしょうか。 このさまざまな形の一種を そのまま漂わせておこうと思っています。 (グリーン) <療養中です> 45歳既婚子供なし、 自営業女性です。 私は、23年間摂食障害であることに、 現在ようやく向き合い、 回復しようと、心の治療中です。 他者からの言葉に、心に闇を持つようになり、 その言葉が病気の源だと 最近ようやく理解しつつあります。 (S) <認めることから光が> 泣きました。 このモヤモヤの、 自分でさえ把握できていない真っ暗闇の部分を 照らされた感じがしました。 小さい頃から何でもそつなくこなし 周りからもできる子とみられて、 それに応えることもでき、 大体希望の進路を進み、友達にも恵まれ、 結婚もして子どもにも恵まれ、 他の人から見たら 幸せな生活を歩んでるといわれるでしょう。 でも。 でも、なんです。 幸せなんだよ、と思おうとすればするほど苦しい。 ただのわがままだと思い直そうとしても できなくて。 どんな理由で引っかかるのかもわからない。 孤独。 それを見つめてみようと思います。 暗闇を孤独と名付けられただけでも、 なんだか前に進めた気がしてきます。 (35歳、かあちゃん) <孤独を得てこそ> わたしは、親も兄弟も配偶者も子どももいて、 それでも孤独です。 でも、孤独になったからこそ、 ものごとを裏返してみるようになりました。 二ユースを聞いて思うのです。 9回に大逆転して勝った高校の裏に、 逆転されたピッチャーがいること。 子どもを殺されてしまった親の裏に、 殺してしまった子の親がいること。 空気が読めないと言われるひとの裏に 場の空気をつくっているひとたちがいること。 「分かっていない」という言葉の裏に 分かってもらおうとしているのか、 という自分への問い。 孤独はいつでもここにある それに気付くか、 気付かないで紛らしてしまっているかの 違いだけで。 (T) <見上げて切るということ> 危険なのは、「できない」より 「できる」方が優れている、 「ない」より「ある」方が恵まれている という価値観が働きがちだということです。 (九堺) <「独身は暇でいい」と言われて> 35を迎えながらも結婚をしていない私は、 針の筵(むしろ)です。 土地柄、結婚、出産、家持ちに ステータスを持つ人が多い中、 職場の男性から 「やっぱり結婚と出産が女の悦びだよ。」 と口うるさく言われるばかりか、 同僚の男性との縁談まで祭り上げられる始末。 同僚や上司は、 口を開けば子どもや結婚の話題ばかり。 居たらいけないのか? 自分ってなんなんだろう‥‥ 何も知らないただの職場の人になぜ 土足で踏み込んで色々言われるのだろう‥‥ ある時、同僚男性に 「独身は暇だから良いよね。」 という言葉を投げかけられました。 独身=暇 結婚=忙しい という縮図は、一体どこから導かれたのか。 「◯歳までに結婚しなければ‥‥」と 不安を煽られるネット記事に 苦しみにもがいています。 ある時、職場の飲み会がありました。 お酒も入り、自然と実生活の話題になると、 「独身は暇だから良い」と言った男性が 酔っ払いながら、 「結婚したけれど、 今のこの俺の給料でやっていけるのか‥‥ 本当に幸せにできるのか不安で仕方が無い。 どうなってしまうのかという葛藤に 押し潰されそうだ。」 と弱音を吐いていました。 かなり酔った力ない目が、 心なしか潤んでいました。 弱々しさが露呈した姿に、 返す言葉が見つかりませんでした。 望んで選んだ結婚、そして産まれた我が子。 奥さんとは良好な関係で、 機から見る限り幸せの権化、 だからこそ それを維持し続けることができるのかの不安、 責任の重さに疲れも見られました。 「暇だから」という言葉は、 独身である私に対しての 羨望であったのかと思われます。 人は、自身が羨望と思っているもの、 もしくは願っているものを叶えている人、 または過去自身が経験したかったが 結婚などで生活が縛られてなし得ないことを やりのけている人に、 「嫉妬」という感情を抱きます。 「◯◯だから、いいよね」 という言葉は、羨望という表面ではなく、 嫉妬や憎しみを表しているかと思います。 (ペリコ) <臨床の現場で> 1年前に石巻市の仮設住宅で 医療を見学した際のことですが。 ある患者さんが 「津波で家を失って家族で仮設住宅に入ったけど、 猫は仮設住宅では飼えないので、 保健所で処分することになってしまった。 今でも思い出すと可哀想で‥‥。」 と涙を流されました。 その診察の様子を後ろで見ていた私には 「なんだ猫かぁ。」との思いがよぎりました。 すると患者さんは 「家族を失った人も沢山いるから、 この話をしても『たかが動物じゃないか』と 言われるに決まっている。 だからずっと言えなかった。」 と、胸の内を明かされました。 「なるほど」と思いました。 これこそ理解されにくい 孤独の形でないでしょうか。 私は臨床の現場で仕事をしています。 末期ガンを患っても最後まで気丈に振る舞い、 常に周りに気を配り続ける人がいる一方で、 ちょっとした不満から主治医交代などを 強硬に要求する人もいたりと様々です。 私は人間ができていないので、 そういう嫌なことがあると、 患者さんの性格・品格のようなものを 比較・評価してしまうところがあります。 でもおそらく、 その比較が良くないのかも知れません。 他と比較すれば 贅沢な悩みじゃないかという考えが、 孤独への寄り添いをサボる言い訳に なっているのでしょうね。 (T.H) 「ない」より「ある」方が恵まれている という価値観で切ってしまうことが危険だと、 読者の九堺さんが言っていましたが、 ぺリコさんのメールに登場する男性には、 まさに、「ある」からこその孤独を感じます。 愛する妻を得、愛する子供に恵まれ、 かけがえのない家庭を築き、 少しでも損なったら物凄く恐いものを、 ずっしりと持ってしまった孤独。 家族を支えきれないかもしれないという プレッシャーと不安に押し潰されそうな心。 その心を、ぺリコさんに打ち明けたことも 印象的でした。 カタチは違えども、 ぺリコさんも不安に押し潰されそうに なりながらも、 がんばっている。 男性は、無意識のうちにも、 ぺリコさんになら、自分の孤独を話せると 思ったのではないでしょうか。 孤独のカタチはひとりひとり違っていても、 自分と同じカタチでなくっても、 孤独の深さが重なる人というのがいて、 同じくらいの深さと深さで、 人は通じ合うことができるのでは? そこに希望を感じました。 ※おとなの小論文教室。次回更新は8月20日水曜です! |
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2014-08-06-WED
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