おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson697 孤独のカタチ − 4.超絶ひとりぼっちでも 孤独のカタチは一人一人違う。 多く人は、 そのカタチをぴたっと埋めてくれる誰かに出逢えない。 それどころか理解者にさえ恵まれない。 でも、全てわかってもらえずとも、 自分の孤独のカタチに寄り添う誰か、 「たった1人」いればやっていける。 その1人は、リアルな人間でなくてもかまわない。 表現作品や、想像上の世界の生きものでも。 「深い孤独の闇にいる人に、 想像でつくった物語がなんの役に立つ?」 という人もいるだろう。 けど、 「心が呼吸をやめ瀕死になった人を、 文学や音楽が本当に救うこともあるんだ。」 ということを、 私は、仕事を通して何度か目の当りにしてきた。 また、この「おとなの小論文教室。」でも、 親の愛がもらえずに育ったという読者のメールを 紹介したことがあった。 その人は、 親自身もまた、 その親から愛されずに育ったのだろう、と。 ゆえに、自分に愛を与えたくとも やり方がわからないのだろうと。 そこで、文学などの作品から愛をチャージする という行き方を見い出した。 文学などの作品から小さく愛をチャージして、貯めて、 まわりの人に分配して、循環させ、やりくりして、 どうにか生きつないできたと。 なんとかなるものだ。 文学や、音楽や、人が魂けずってつくった作品から、 人は、自分の孤独に寄り添ってくれる何かに 出逢うことができる。 それも、孤独のカタチに寄り添うもの=愛だ。 私自身も、とくにフリーランスになってからの 14年の歩みは、 とても一言ではいえない孤独だが、 ドラマや、映画や、歌や、アニメや、小説の、 自分とどこか孤独感が重なる主人公、 あるいは、自分よりはるかに孤独な登場人物、 いや、もはや、「人物」でさえない、 アンドロイドなどの機械や、 吸血鬼や悪魔や化け物や、 そうした想像上の存在と、 それを生みだした作者の想いが、 ときに自分の孤独な人生の伴走者となり、 ときに自分よりもっと濃い闇で照らしてくれ、 それらに寄り添われて=愛をもらって、 やってこられている。 超絶ひとりぼっちでも、だいじょうぶ! 人は作品から愛を得て生きつないでいける。 やけをおこしてはいけない。 今週もいいおたよりをたくさんいただいている。 読者それぞれの孤独と、 寄り添う愛を紹介してきょうは終わろう。 <孤独のかたち、理解のかたち> おしゃべりを始めた2歳の息子が、 身振りも交えて、真剣に 私に何かを伝えようとしている。 語彙は限られているし、 発音もおぼつかないから、 何度も繰り返し聞いて、 ようやく解読に成功すると、息子の顔がぱっと輝く。 そして、夜寝る前に そのことをまた思い出して、 「こんなことがあったね」、「そうだったね」 と言いあって眠りにつく。 些細なことだけれど、 それが息子にとってどれほど大事なことであるかは、 一目瞭然だ。 いい日もあれば、悪い日もある。 私にもさっぱり解読不能な時だってある。 そんな時には悔しさに、しばらくは 私の抱っこさえ拒否して泣いている。 「わかってもらえない」と言うのは、 2歳児にも等しく訪れる孤独なのだ、と実感する。 伝えたいことがある、 というのが孤独の前提のように思う。 血のつながった親子ですら、 毎日の地道なやりとりを積み重ねて、 なんとかやっている。 だから他人同士でわかりあうと言うのは、 説明してもわからないであろうことを 話してみることであり、 説明されてもわからないであろうことを あえて聞くようなものだと思う。 2歳児のような言葉の障害がなくなった途端に、 私達はお互いに分かり合えるかのような錯覚を 抱いてしまうのかもしれない。 その証拠に、 2歳児に向き合うほどのエネルギーを持っていない。 言葉があるのだから わかるような気になってしまっている。 そして説明してもわからないのだからと説明を怠り、 説明されても困ると聞くことを拒否し始める。 そしてお互いに 「どうしてわからないの?」と孤独感を募らせていく。 言葉があるから、と わかることを前提にしてはいないだろうか。 2歳児を相手にするように、 わからないを前提にしたら、 もっとわかるようになるのではないか。 ただ、それはおそろしく時間のかかる作業だと思う。 そういう時間を私達は今持っているだろうか。 ちょっとお店ですれ違った赤の他人に、 たまにお茶するだけの友達に、 それだけのエネルギーを注ぐことができるだろうか。 そして、わかりあえたことで、手にする痛みに 耐える強さはあるのだろうか。 その痛みを受ける覚悟を持って、わかろうとする時、 そこに愛があるように思う。 (いずみ) <人が孤独を感じる時> TVで、 「定年退職してから、 毎日家にいる夫にストレスを感じる」 という年配女性の話を思い出しました。 街の声は、 「ずっと働いてきたのに、酷い嫁」。 どちらの意見も、一理あると思います。 どちらも正しく、 どちらもどこか間違ってはいないか? と。 孤独を感じるのは、 自分が「マイノリティ=悪い」と思わされる場面に 遭遇した時だと思います。 自分が思っていなくても、周りから 「あんた、マイノリティだよ。 マジョリティにならなきゃ」 というレッテルを貼られる時だと思うのです。 (尾西39) <人は孤独だからこそ> 小さい頃、 私は、仕事の都合で海外に住む両親と離れて暮らし、 祖父母の家に預けられていました。 私の孤独はそのせいなんだとずっと思い込んでいました。 だから 早く好きな人を作って、 自分の家庭を作れば、孤独ではなくなるだろうと、 いちばん最初にプロポーズしてくれた男性と 婚しました。 でも、孤独はなくなりませんでした。 結婚1年で、ほかの女性とつきあうようになった 彼の帰りを待つ長い夜の孤独はそれはそれは深かった。 どんなに言葉を尽くしてもわかりあえない 他者との生活は、孤独をますます強くするだけでした。 だから 子供ができた時、 これでやっと孤独と別れられるはずだと思いました。 確かに子供がお腹の中にいる間は、わずかな期間ですが 孤独を忘れていられたかもしれません。 でも、子供が産まれた瞬間から、 私は再び孤独につきまとわれました。 当然のことながら、お腹から出たとたん 一心同体だった子供は、 別の人格として成長し始めたのです。 そして、 夫とも離婚し、 子供も独り立ちした今、 孤独とは何なのかやっと少しわかりました。 永遠に自分と完全にわかりあえるような人とは 出会えない。 どんなに仲のよい人がそばにいても、 やっぱり自分とは違うなと思う。 そして寂しくなる。 でも、それは 自分がオンリーワンの かけがえのない存在だからなのです。 世界中すべての人がオンリーワン。 だからこそ、ほんの小さな共感がうれしくなるんです。 だから、もう孤独はこわくなくなりました。 (小春) <自分の孤独埋めてくれるもの> 祖母のことを思い出しました。 共働きの両親と共に、一緒に暮らしていた祖母。 自分が成長して、色々な人と出会い、 他人を意識するほどに 無条件で受け入れてくれる祖母の存在が とても大切で、ありがたかった。 そこにいてくれることが当たり前で、安心できて、 離れる時は、寂しがってくれる。 大人になればなるほど、 働くことや生きていくことの大変さを少しずつ感じて 生き抜いている真っ最中の両親には、 何か気を使ってしまうけれど 祖母にはさらけ出せる。ありのまんまで。 すごく幸せな思い出。 祖母が亡くなったとき、祖母の死を悲しむというよりも ひとりぼっちになってしまったと感じている自分がいて、 両親にはもうしわけないのだけれど ああ、ひとりぼっちだ。。。 という気持ちが湧いてきて、お葬式の時もずっと、 自分のために泣いていたような気がする。 勝手なものです。 そんな自分勝手な孤独には、「歌」が良い。 寄り添ってという程ではないけれど、 ぽっかり空いたすき間を音で埋めていくイメージで。 音が鳴っている間は、 孤独の穴が埋められているような気がして 歌や、広く言えば、「音」すべて。 テレビや音楽、人の声。 それが周りで鳴っていると安心して眠りにつける。 (トン子35歳) |
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2014-08-27-WED
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