YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson698
  孤独のカタチ
   − 5.家族のカタチだけある孤独



文章表現教育を通して、
ありとあらゆる「家族のカタチ」を観てきた。

虐待、
ネグレクト、
過干渉。

不倫の悩みを子どもに相談する親、
借金の始末を子どもにさせる親、
心のバランスを壊し子どもを攻撃する親。

優秀な兄弟姉妹と比べられる引け目、
自分が美しく優秀であるがゆえに
兄弟姉妹がひがんで歪んでいく痛み、
兄弟姉妹からの執拗ないじめ。

人は結婚や出産などにより、
家族を持つとき、もう孤独ではないと、
思ってしまいがちだが、

「孤独のカタチを組み替える。」

と思っていた方が現実に即しているかもしれない。

「たった一人で生きる孤独」を
ずっと引き受けてきた人は、
それが無くなるのではなく、
結婚しても、子供をもっても、
友達ができても、仲間が増えても、
組織に入っても、自分のチームをもっても、
そのたびに、今度は、
「人とともに生きる孤独」に、
カタチを組み替えて生きるのだと。

そこから出発すれば、
家族やまわりの人それぞれの孤独をも、
理解しようともするし、
そこに寄り添う愛も生じるのではないだろうか。

きょうは、
孤独のカタチシリーズにいただいた
読者のおたよりから、
家族に関する2通を含めた4通を紹介しよう。


<家族としてしか出逢えなかったからこその>

孤独のカタチ3を読んで、
亡くなった祖母のことを思い出しました。
以下、亡くなったときに書いた文章です。

祖母が昨年秋に100歳で亡くなった。

危篤になってから亡くなるまでのひと月の間、
改めて自分にとって祖母がどんな人か、
否応なしに考えさせられた。

率直に言って、
「厄介な人」というのがまず頭に浮かんだ。

恐ろしく家柄意識が強く、
また頑固な性格で、
長男の息子(=孫)であるぼくへの期待は
並大抵のものではなかった。
長男が若くして死んだだけに、
なおさらそうならざるを得なかったのだろう。

小さいうちはともかく、
父が死んでから思春期にかけては
その期待がうっとうしくて仕方がなかった。

家というものに自分が縛り付けられるように感じて、
そこからとにかく逃れたいと思っていた。

学校では教員だった父のことを
引き合いに出されるのが嫌だった。

小学校や中学校では友達にも恵まれたが、
高校の時は厳しい進学校で、
友達と学生生活を楽しむところではなかった。
一時新興宗教にはまったこともあったが、
それも結局は家から離れたいという思いからで、
大学進学で家を離れられると分かった時から、
急に魅力を感じなくなった。

結局大学進学で家を離れた。

それ以前から姉が不登校になっており、
大学二年の時には妹が自殺未遂をして精神を病み、
家族が急にガタガタと崩れだした。

その場にいなかったぼくは、
家から離れてほんとによかったとも思った。
だが一方でぼくも行き詰まっていた。
家を離れることしか考えていなくて、
他者への恐怖感という肝心の自分自身の問題は
見落としていた。
そこからグループカウンセリングなどに
参加するようになった。

今になると、祖母の家柄意識の強さの理由も
多少分かるような気がする。

父が10歳で死んでから、
急に家の雰囲気が暗くなった。

専業主婦だった母はパートに出るようになり、
食べていくのに必死だった。
片足に障害があるからだで、
慣れない勤めに出るのは、相当大変だったはずだ。

ぼくらは子供で何も分かってはいなかったが、
子供なりにそれぞれ必死だった。

それまでとは全然違う雰囲気の生活で、
自分以外のことに注意を払う余裕はなかった。

その頃妹がいじめられていることは
まるで気づかなかったし、
姉の不登校も
なんか面倒なことが起こっているとしか感じず、
それぞれのしんどさに思いをはせることもなかった。
そんな余裕はなかったし、余裕がない自覚すらなかった。

祖母は祖母で、
息子が死んだ後の家を背負っていく責任を
感じていたのだろう。

それを支えたのが強烈な家柄意識だった。

またそうでなければやっていけなかったのかもしれない。

戦前は地主で相当な資産家だったようだが、
戦後にほとんどの土地も財産も失った。

嫁いでからその過程を一通り見てきた祖母が、
自分の支えにしていたのが家柄意識だったのかと思う。

祖母もまた必死だったのだ。

家族それぞれが必死だった。

みんな余裕がなく、
他の家族の思いを汲み取れなかった。
だからぼくも祖母を
うっとうしく感じることしか出来なかった。

ただぼくには家を離れる選択肢があった。

それがない祖母にとって、
この家はなんだったのだろう。

幸せを与えてくれるものだったのか。どうだったのか。

祖母は数年前から認知症が重くなり、
だんだん誰が誰かも分からなくなっていった。
家のことも、先立った長男や夫のことも忘れていった。
ぼくを見ても子供の頃にかわいがってくれた近所の人
くらいにしか思わなくなった。

あれだけ執着していたのに、
最後はすべて忘れてあの世に行った。

たまにしか会わないぼくにとって、
その変わりようは驚くほどだった。

これでいいのかもしれない。
執着したものからようやく離れ、
身軽になってあの世に行く。
そんな始末の付け方だってあっていい。

葬儀では
知らない身内や友人らしき人が大勢参列していた。
紹介されてもどういう人なのかよく分からない。

でも「長男の息子」「孫」と自己紹介すると、
相手は納得してくれる。

そこにはぼくには分からない祖母の世界が広がっていた。

祖母の100歳の生涯で、
いっしょに暮らしたのはせいぜい20年足らず。
ぼくが知っている祖母なんてほんの一部でしかない。

従姉妹が孫一同を代表して弔辞を読んだ。

可愛がってもらった思い出を
涙を流しながら話していた。
いっしょに暮らしていた僕としては、
それだけではない複雑な感情があった。
でも、従姉妹が語る祖母の姿も本当だ。
ただぼくらと出会い方もかかわり方も違っていたから、
全然思い出が違う。
祖母と家族としてしか出会えなかったからこその、
なんとも言いようがない思いがぼくにはある。

最後に母が弔辞を読んだ。

義理の父と夫の介護に追われ、子育てに励み、
誠実な人柄だったこと、
時にはぎょっとするようなことを言われながらも、
この家を支えてくれたことを、
声を詰まらせながら語っていた。
家族の中で一番長く祖母とかかわった母には、
色々思うところがあっただろう。
ぎょっとすることの中身がなんだったのか。
いずれ機会があればゆっくり聞いてみたい。

葬儀では、ぼくのことを祖母と同じように、
この家の跡取りとしてしかみてくれない親戚もいた。

かれらにとっては妻も
「跡取りの嫁」としか見えないようで、
「アウェー感いっぱい」と妻が言うようなうっとうしさを
久々に感じた。

だが一方で、
ぼくらを見て信頼しあっているのが分かると
言ってくれたり、
この家にない明るさをもっていると
妻のことを評価してくれた人もいた。
今の自分たちをちゃんとみてくれる人が
いることが嬉しかった。

帰ってから参加した飲み会で、
「おばあさんはあなたに
 どうなってもらいたかったのかしら?」
と尋ねられた。

祖母は夫も息子も教員で、その事を誇りに思っていた。

だからぼくに「先生」と呼ばれるような人になることを
望んでいた。それも人に尊敬されるような先生に。

右往左往の果てに、
今は治療者として
「先生」と呼ばれるような仕事をしている。

先生にはなりたくないなとずっと思っていたのに、
先生と呼ばれる日々を過ごしているあり様に、
苦笑してしまう。
祖母が望んだ先生とは違うかもしれないが、
まあちょっとは顔向けできる人間には
なれているかもしれない。
(たまふろ)


<本の力>

喪失による苦しさも、孤独の苦しさのひとつだとすれば、
何度か本に救われたことがあります。
私の場合は、登場人物ではなく、
言葉やストーリーですが。
この本に出会えなければ、
苦しさはもっと長く続いていたのではないかと思う本が
何冊かあり、本の力のすごさを実感しています。

小春さんのメールに勇気づけられました。
少しの共感をもっと大切にしたいと思いました。
(いのうえ)


<となりの人とそろわなくとも>

子供の頃、友達とブランコを
「せーの」でそろえて漕ぐと、
そろえることばかりに気をとられて
楽しめなかったことを覚えています。

そろったらそろったで少しのズレが気になりました。

今となってみれば思います。

自分のブランコを漕ぐことを楽しんでいたのなら、

たとえ友達とそろわなくても、

顔を見合わせて笑って、それぞれの空を見上げて笑って、

心を繋ぐことができたのにと。

ブランコを漕ぎ続けようと思います。
空を見上げて漕ぎ続けようと思います。
(Sarah)



「家族としてしか出会えなかったからこそ」、
互いに言い知れぬ孤独を抱えざるを得なかった、
ちがうカタチで出会っていたら、
別のカタチで絆も生まれていたかもしれないという
たまふろさんの言葉が胸に痛かった。

孤独のカタチシリーズにいただいた
読者のおたよりのおかげで、
ふだん陽の目をみない類の孤独に
光があたることを風通し良く感じる。

「孤独は、
 悪いものでも恥ずかしいものでもなく、
 むしろそれが無いというほうが無知。
 孤独を引き受けてこそ、
 一人前の教養あるおとなの証。」

そんなふうに思う人が、
1人でも2人でも増えると、
世の中、呼吸しやすくなるんじゃないかと私は思う。

さいごにこのおたよりを紹介して今日は終わろう。


<孤独の闇を抜けたときに>

‥‥孤独がこわいです。

自分の家族がいなく、
自分は独りなんだと思うと。。

9年前に父、5年前に母を亡くし
その同じ年に離婚。
違う土地に引っ越し転職。

深い闇に潜りこんでいても、
周囲には心配かけたくない自分と
可哀想な人にみられたくない自分がいて

淋しいと誰にも言えなかった。
明るくふるまい、一人になると泣いてばかりいました。

でも友人に救われました。
そっと見守ってくれるのが本当の優しさと感じた。

5年経って自分の居場所とまではいかないけれど、
職場の仲間や新たな友達もできて
私はここにいていいんだと思えて
闇が徐々に消えているんだと思います。

コドクを知って人の優しさをもらった、

私も優しさをわけられる人格になり。。
「ただいま」「おかえりなさい」
といえる自分の居場所を手にしたい。
(天秤座)

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2014-09-03-WED
YAMADA
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