YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson734 オリジナルとはなにか


「英国王室で生まれた赤ちゃんの名前を、
 同時期、日本の動物園で生まれた猿につけたら
 苦情が多数きた。」

連休から、私は、
このニュースがなぜか、ひっかかっていた。

これに関連して思い出したのは、

4年前、
ネットによくある相談コーナーで、
「わが子の名前を盗られた」
と相談していたAさんのことだ。

プライバシーに抵触しないよう改変して
伝えると、

「A子さんには、
 いつも自分のマネをしたがる友人M子がいた。

 服やアクセサリー、旅行の行先まで
 しょっちゅうM子にマネをされていた。

 単なる偶然か、マネられたのか、
 2人とも似たような時期に結婚し、
 似たような時期に妊娠した。

 妊娠中、
 「名前は何にするか」とM子に聞かれ、
 A子さんは苦心して考えた我が子の名を告げた。

 A子さんは、最初、
 ご主人の1文字をとった名を考えていたが、
 ご主人のお父さんに、画数が良くないと言われ、
 あれこれ考えた末、最終的に、
 ご主人のお父さん(我が子にとっておじいちゃん)
 の1文字をとった名前に決めた。

 しばらくして、

 先に出産したM子が、その名前を、
 そのまんまM子の赤ちゃんにつけていたと知る。

 M子は悪びれる様子もなく、
 “すごくいい名前ね!
  だから私もそれにしよ、って‥‥”」

こんなことが本当にあるのかと
当時、私が、さらに検索したところ、
我が子に考えていた名前を、他の人に使われてしまった、
という相談が複数見つかった。

これに関連して、もう1つ別の話、

連休中、
私は好きなミュージシャンができ、
ライブはないかと調べていた。

すると経歴に、「盗作疑惑」と出てきた。

いまや珍しくないこの手の騒動も、
ファンのミュージシャンとなると、
自分の感じ方が全然ちがった。

原曲とされるCDを聴いてみるとき、
ドキドキした。

原曲を聴いている間、

「似てるな‥‥」と
「いや、全然世界観が違う!」で、

心は、ブランコのように揺れ、

「やっぱり同じだ」
と感じると、
急激に興ざめというか、幻滅というか、
自分ではどうしようもなく引いていくものがあり。

「やっぱり違う曲だ」
と思い直すと、
ぱあっ! と安堵と元気がわきあがってくる。

はた、と気がついて、

自分はさっきから10小節ほどのことで、
何を必死になっているのだろう。

そこに、
「好きな人の作った曲が、
 どうか原曲とちがっていてくれ」
もっと言えば、

「オリジナルであれ!」

という強い願いを見た。

ここで、こんな問いが立つ。

「オリジナルとは何か?」

子猿の名も、
子どもの名前を盗られたという人のことも、
ミュージシャンの盗作疑惑も、

皆、「オリジナル」に関係している。

人はなんでこんなに
オリジナルが好きなのか?

「オリジナルであること」は、
文章表現教育の経験に照らしてみても、
人々の信頼と支持を集め続けている。

ひっくり返せば、
人はいわゆるパクリを嫌う。

学生たちの文章やスピーチでも、
完成度が低くても、言葉足らずでも、
圧倒的なオリジナリティーがあるものは、
強い支持を得る。

逆に、人と同じようなもの、
引用が主になって本人の考えがないもの、
「どっかで聞いたことがあるぞ」という表現は、
皆、さっと引いてしまう。

そんな光景を日々見ていると、

だれか1人をマネて、人類一色になるより、
それぞれがオリジナルを発揮して色々であることは、
人類の存続や繁栄に何か重要な意味がある
のではないか、とさえ感じられてくる。

「オリジナルとは何か?」

正解無き深遠な問い、
いま私がここまで考えていること、それは、

「悪い人がパクろうとして、パクってもパクっても、
 どうにもパクりきれない何か。
 未熟な人がマネようとして、マネてもマネても、
 足元にも及ばない何か。」

例えば、

ある風の強い日、
一斉に町中の布団が飛んで行って、
「ふとんがふっとんだ」というギャグを
思いついた人が10人いたとする。

その町は情報鎖国で、
もともとそんなギャグがあることは知らないとする。
ゆえに全員、ゼロからそのギャグを
思いついたと仮定して、

それはオリジナルと言えるか?

といえば、私は、言えないと思う。
だれもが似たようなことを思いつく、
それは、

「安易」

だからだ。
いくらゼロから考えても、
人と違わせても、

安易・安直は、オリジナルでない。

文章表現とは不思議なもので、
名づけにしろ、手紙にしろ、スピーチにしろ、
想いを「言葉」に言い表す時、

安直に出すと、似たような表現が続出する。

ところが、事前に「考える」作業を充分行うと、
一人一人全部違って、
人と同じものが1つとしてない。

「名づけ」であれば、

考えても損にはならない問いが
いくつかある。

「まずは、生まれた子の特徴はどうか?」

目が大きく澄んで印象的な場合、
瞳に関係した名前にするなど。

「生まれた季節や環境からみるとどうか?」

満月の美しい月夜に生まれたから、
月にちなんだ名にしたり、
その土地にある雄大な山の名前にあやかったり、
その季節に咲く花にあやかったり。
すると、月や山や花を見るたび、
その子は、自分と自然がつながり心安らぐ。

「名づけ親が、自分自身の経験をふりかえってどうか?」

自分はこんな名前で苦労したから、
こんな名前だけは避けたいとか、
逆に、自分はこんな名前をつけてもらって良かったので
この発想を生かしてみたいとか。

「親や先祖や尊敬する人物の名前から見てどうか?」

たとえば母親の名の1文字をとるとか、
尊敬する人物にあやかってつけるとか。

平凡な問いかもしれない、でも、
平凡な問いをいくつか検討したときに、

その人の生きてきた経験や、感性によって、
「琴線」に触れてくる部分が全然違ってくる。

自分の考えたい角度が見つかると、
人は生き生きしはじめる。そして、

「創造的直感」というのは、この先に来る。

これらの問いが凡庸で、
自分の興味はこれら凡庸な問いにはない、
という人は、凡庸な問答を積み重ねてこそ気づく。

すると、まったく違う角度から
ポン! と理不尽に名前が降ってくるようなことも
起こる。

こうなってくると「名づけ」は楽しい。
そして、オリジナルだ。

オリジナルというと、
人と違うことや、流用でないことに、
気を取られがちだが、私は、

「深さ」

なのかなと思う。
学生にも、オリジナリティーを出せとか、
人と違わせろ、とか一切言わず、

ただただ、そのテーマを書くために
当然考えてみるべき問答を淡々と経てもらうと、

安易でない、深い、より深い、ところの
その人なりの想いや考えが湧きあがってくる。

そうして出てきた文章表現は、
1クラス70人、2授業で140人、通して読んでも
どれ1つ同じものがない。

360°あちこちへ、
気持ち良いほど多様性が咲き、
独創性に富んでいて、圧巻である。

「悪い人がパクろうとして、パクってもパクっても
 どうにもパクりきれない何か」
は、だれにもある。

その意味で、自分は自分の
シリアルナンバー1分の1の「オリジナル」だ。

ただし、安易ではそこに到達できず、
発揮もできない。

「オリジナルであるためには深さが要る」

と私は思う。

最後に、前回のコラム「曇りの教室」への
おたよりを2通、紹介して
きょうは終わろう。


<本当の脱出>

「曇りの教室」を興味深く読ませていただきました。

抑圧的で閉塞的な環境から脱出して、
新しい世界から今までの環境を見られるようになり、
自由になれることは確かなのですが、
環境から脱出は出来ても、

そこにいた自分自身から脱出することはなかなか難しい

ように思います。
曇りの場を作っているのは、
統括している先生や上司だったりしますが、
そこにいる

自分もまた、曇りを作っている一員になってしまっている

からかもしれません。
今の居心地をよくすることに気をとられて、

ほんとうは自分はどうありたいのか

を見失うと、結局
相手に合わせているのが一番楽になってしまいます。

でもそうすることで共犯者になり、
曇りに対しては無力感が漂います。
居心地のよさと引き換えに、無力な自分が残ります。

一度そうなると、新しい世界に移った後でも、
自分自身はどうするのかという問いが
出てこなくなります。
それよりも目の前の居心地のよさに
安住した方が楽ですから。

そして、自分が力を持ったとき、
今度は相手に合わせることを求めて、
居心地のよい関係をつくる。

そうならないために、
まず自分と相手が違う価値観を持つ人間だ
ということを認めて、
自分はどう振舞うのかを考える必要があります。

自分の価値観を知らなければ、
相手の価値観との違いも気づけません。

もしその上であえて合わせるのであれば、
覚悟が定まるように思います。

脱出するにせよ、そこにとどまるにせよ、
自分はどうありたいのだろうという問いかけは、
持ち続けられたらと思います。
(たまふろ)


<「曇りの教室―読者の声」を読んで>

この4月、息子が中学1年になりました。

今まで勉強のことなどあまり気にせず、
自由にのびのびと育ててきたのですが、

中学に入って、勉強やクラブが急に厳しくなり、
高校受験についても日々学校からの指導や
巷の情報に振り回されるようになり、

この2か月、非常に過干渉な状態がつづいていました。

常に時間に追われ、早くしなさい!と急き立て、
「やらないといけないリスト」を次々と息子に提示し、
明らかに疲れている息子の横にべったり座り込んで、
きちんと勉強できているか監視するような毎日でした。

先日、中間テストが終わり、ほっとしてよいはずが、
何か無力感にさいなまれ、
子供もただただ疲れ切っているようにみえました。

そんな時にふと、このサイトをのぞき、

“「しなければいけない」という縛りは、いつのまにか、
 「しさえすればいい」という、
 自分で考えることをやめて
 ラクに行動するためのものになる”

”人は、嫌なことを押しつけられて、
 嫌だと思いながら、やらされ続けるのは辛い。
 だからラクになろうとして、「思考停止」してしまう。"

との言葉に、はっと目が覚める思いでした。

わたしの母もまた、わたしに対して過干渉な親でした。
中学を卒業するまで、
わたしに判断を任せるということをせず、

「どうせあなたには決められないのだから、
 ママが決めてあげる」

と言い放って、なんでも親が決めていました。
それが、高校へ入学したとたん、

「もうあなたのことは知らない。
 自分で自分のことは決めたらいい」

と突然いわれ、わたしは途方にくれてしまいました。
自分が将来何をしたいのか、どう生きていきたいのか、
結局、自分では決められず、
母親の望み通りに医学部に進みましたが、

自分で自分の道を決めなかったことで、
医者になってからもずいぶん苦しみました。

曇りの家庭に育ったわたしには、

思考停止することが、
サバイバルスキルだったのだと思います。

しかし、そのスキルは、
将来のことを考えなければならない局面で、
わたしから力を奪ってしまいました。

自分の子供には、
自分の将来を自分で考えられる人になってもらいたい、

その思いで、ずっと今までのびのびと育ててきたのに、
内申点だの受験だの、
目先の点数をとるのにやっきになり、
いつの間にか、母親と同じことをやっていたと
気づきました。

息子が自分で決めたことが、
たとえ失敗につながるとしても、
それを糧にして成長してくれるような人に
なってもらいたい。

そのためには、曇りの親子関係にだけは
陥ってはいけない。

見失いかけていたものを、取り戻した気がしています。
(M)


ツイートするFacebookでシェアする

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2015-05-27-WED
YAMADA
戻る