YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson743
 意見がわれたとき「人につく」人
    ―2.読者の声


「自分の頭で考える」ことの低下。

先週とりあげた
意見がわれたとき「人につく」件は、
そこから起こっていると思う。

さっそく寄せられた読者の声を紹介していこう。


<誰も、考えてない>

先日、仕事関係の打ち合わせでのことです。

Hさんは、私が提案する意見に、
個人的感情がベースになっているとしか思えない
受け答えばかりしていました。
何を言っても、とにかく反論。
隙があれば、こきおろす。

Hさんがこの仕事の中心人物に
「かたいれ」していることはすぐに分かりました。

誰も、考えてない、

というのが、この打ち合わせで私が感じたことでした。
仕事のことなんて、だれも考えていませんでした。
ただ、日々こともなく過ぎてゆけばいい。

なので、この仕事をなんとか公平に前に進め、
魅力あるものにしたいと思って提案した私の意見は
まともに検討されませんでした。

この状況をどうとらえればいいのか、
しばらく悩みそうです。
(ぼてい)


<人の意見で都合よく>

意見がわれたときに限らず、
「人につく」という行為は多い気がしました。
自分にとって都合がよかったり、
居心地がよかったりする意見をいう人についておけば、

自分のアタマで考えずにすんで、楽ができますから。

ここのところ、何気ない会話に
鬱陶しさを感じることが多かったのですが、
その理由の一つに、この「人につく」ということが
あったような気がします。

「ああ、あの人は、私の意見につこうとしてたのか」、と。

人につく人は、
もともと自分の意見としてハラ落ちしていないゆえ
意見の使い方を間違えます。
ズーニーさんを攻撃した人のように、

会社での不遇や、家庭の不和を、
自分の行いから目をそらして、
赤の他人の意見で都合よく埋め合わせようとする人が
私のまわりにいます。

そんな使われ方をされるから、
つかれる側には気持ち悪さが残るんですね。

人につかない、つかせない。

そんなことも意識しながら、
自分の意見をつくっていこうと思います。
(あや)


<自分の切実な問いを>

先週のこの部分、
「テーマに対する、自分の切実な『問い』
 本当に解きたい謎をもって議論に臨めば、
 多様な意見の一つ一つが謎を解く鍵になる」

漠然と議論の場に対する苦手意識がありました。

否定的な意見を受けると
少し身体がこわばるような感じがしたり、
ニュートラルな心の状態で
意見を受け止められない自分が
とても器の小さい人間であることを
再認識させられるようで。

これは、自分が人間的に成長しないと変わらないものか
と感じていました。

けれど、

「問い」が自分にとって切実なものとなれば、
今の自分のままでも、
意見の受け止め方は自然と
変わってくるのだと気づきました。

今まで、考えたフリをしていただけで、
“切実さ”が自分の内から感じられるまで
テーマに真剣に向き合っていなかったのだと知りました。

この大切な気づき、
今日から活かしたいと思います。
(あき)


<流れを止める→変える問いを>

話し合いには流れがあるように思います。
「どちらが正しいのか」
を突き詰めて行くという流れです。

私はだいたい、どっちつかずの位置にいて、
流れを止める質問をしたくなります。

話し合うべき問題は別にあると思ってしまうからです。

でも、その問いが正しいのかは自分でもわかりません。
私が質問した場合どちら側からも
「何言っているの?」
という顔をされることが多いからです。

発言しなくても怒られるし、
発言しても受けとってもらえない。
もっと割り込める問いの仕方を考えていきたい。
(HARU)


<自分自身への問い>

先週の、
「自ら論点を起こす人になりたい。」
を受けて、
その事がどうしたらできるのか、
少し考えてみました。

人に対して、自分はこう思うと意見する際、
私自身は、

「自分がどう生きていきたいのか」

と問いかけするようにしてます。
仕事でもプライベートでも、
何か判断する内容を問われたら、自分は
相手や社会がより継続的に少しでも
よくなるように行動したい。

会社や上司がどうとかではなく、

社会の為、社会的に弱い立場の人の為に
何ができるのか?

そんな想いを行動であらわしたい。
いつも何の為に生きているのかという問いを忘れないで、
その時に合った答えを出したいと思います。
(タカタカ)


意見がわれたとき人につく人が出る原因は、
自分の頭で考える力が弱ってしまっている、
もっと言えば、

「問いが立たなくなってしまっている」、

それにつきる、と私は思う。
たとえば「新人の教育」について、
何人かで集まって議論するとき、
意識的であれ、無意識であれ、

「誰かが、問いの進行をしないと」

結局は立場の強い人が、
本人も意識しないでしゃべっている「問い」で、
話がもっていかれてしまう。

えんえんしゃべって、
「うちの新人はなっとらん」という方向になって、
行き詰ってようやく、

「うちの新人のどこがダメなのか?」

という問いで、ここまでしゃべってきてしまったと気づく。
これじゃ進まないということがわかって、
だれかが頭をつかって考えはじめ、ようやく、

「4月時点で、そもそも新人は、
 何を期待されて、この職場にきたんでしょうか?」

「今年度が終わる3月までに、
 少なくとも新人はどうなっていることが望まれますか?」

「どうあがいても新人の1年間にはできないこと、
 私たちが無茶な期待を抱かぬよう注意すべきことは
 なんでしょうか?」

というように、必要な問いが徐々に出始め、
出た中から、捨てたり、選んだり、
筋道立てて並べたりしてようやく議論が進みだす、
ということがある。

仕事の会議であれば、司会の人は、
最低限、「出口にあたる問い」は考えて、
あらかじめ示そう。

出口にあたる問いは、
この会議のあと具体的にどう動くのか?
この会議で何が決まっていないと動けないのか?
から割り出せる。

例えば、この会議のあと、
9月の新人研修のプログラムを組むなら、
少なくとも、この会議では、

「最優先で、9月時点で1つだけ
 新人に教育するとしたら、それはどんなチカラなのか?」

ここさえ決まれば会議後、研修に向けて動ける、としたら
司会の人は、出口に向けて、どんなふうに、
みんなの意見を洗いだしたり、絞り込んだり、決めていくか
という手続きになる問いを決めていける。

参加する人は、4月から今まで新人を育てることに
ついて、ふりかえって、切実にひっかかっている体験から、
自分の切実な問いを最低限1つは持って臨みたい。

会議の問いについては『伝わる・揺さぶる文章を書く』に、
問いの立て方は『あなたの話はなぜ通じないのか』
詳しい。

「自分の頭で考える」ことを、
やってない人がやろうとしたら、
最初すごく面倒に感じるけど、

大丈夫だ。

自炊をやってない人が、包丁1本買うところから始め、
「こんなに手間がかかるの」と折れそうになっても、
3カ月もすると普通にやっているのと同じだ。

人はもともと「問い」を発する生き物。
子どもを見ればそのことがよくわかる。

まずは「なぜ?」という包丁1本持つところから
始めてみよう。

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2015-07-29-WED
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