Lesson745
論点を起こせる人に
回らない寿司屋に入った。
といっても庶民のみかたの安い店、
大きなカウンターはお客さんでいっぱいだった。
2〜3貫にぎってもらって、もうツラくなった。
私の担当の寿司職人「Aさん」、
寿司ネタを持ったまま、他のことをするからだ。
私が「生ダコ」を注文する。
Aさんが片手に生ダコをとる。
この状態でAさん、
横の先輩たちとしゃべりだすのだ。
手に生ダコを持ったまま。
「体温で生ダコがぬるくなるじゃないか。
さっさと握ってくれないかなあ…」
と、私がヤキモキしていると、
ようやく握って出してくれる。
最初は、Aさんは後輩だから、
先輩たちに声かけられたら、
たとえ寿司をしあげる間際でも、
応対しないといけないのかなあ、
とおもっていた。
ところが、
先輩たちが奥に引っ込んで
Aさんひとりになっても、
Aさん、
手に、私が頼んだ寿司ネタを持ったまま、
もうあと、握って出すだけになって、
うしろの戸棚の中をチェックしはじめたり、
他のお客さんの方に目をやって注文に応えたり。
「これはAさんの癖だ‥‥」
しかも、
「逃げ癖。」
そう思ったとき、
Aさんは交代時間がきて引っ込み、
先輩が私の担当となってからは、
おいしく握ってもらえるようになった。
あれからもう2年になるというのに、
私は、この時の光景を何度も何度も、
ありありと思い出す。
それは私自身、「逃げ癖」がついているからだ。
寿司職人Aさんにとって、
いちばん緊張する瞬間は、たぶん、
「寿司をしあげて客に差し出す」とき。
いちばん大事で緊張するシーンで、
いちばん人は逃げたくなる。
だから、
先輩と駄弁ったり、
用もなく棚の中をチェックしてみたり、
お客さんに目をやって注文を受けたり。
「なに、すっぽかすわけではない。
結局、寿司は仕上げるんだから」と、
ちょっとだけ逃げてしまう。
これが常習化して癖となってしまったAさん。
私もよくある。
だいじな原稿を書かなければならない、
そこに起動する直前で、
洗濯をし始めたり、
ネットの通販でちょこっとしたモノを買ったりして、
逃げる。
でも体は、知っている。
「洗濯なんて、いましなくていいだろう。
いま通販したいのか、そうじゃないだろう。
いまいちばん向かうべき、向かいたいのは、
原稿を書くことだろう」
ということを。さらに言う、
「お前も逃げてるぞ」
と。寿司職人Aさんのことを思い出すのは
きまってそういうときだ。
人間は「違和感」というカタチで
有効な「問い」を発している。
自分自身に対して、
その時々で。
その「問い」にまっすぐ向き合うことによってこそ、
いま自分がいちばん出したいものが出せる。
だけど、そこにまっすぐ向き合うことは、
いちばん大事で緊張するからこそ、
いちばん逃げたくなる。
前回とりあげた、「ぼやく」も逃げのひとつだ。
ぼやきも、愚痴も、悪口も、
「人の問い」にあれこれ言うことで、
自分の問いに向かう緊張感から逃れられる。
だからこそ、そっちに流されるうちに、
自分の問いからどんどん遠ざかり、
やがて見失うから恐ろしい。
人の問いでは、昇華されない。
たとえば、自分が悩んでいるとき、
すごく偉い人の広い視野の立派な文章を読んで、
「いま自分が悩んでいることはなんて小さいんだろう、
この人のようにもっと大きな問いに向かって悩もう。」
と恥ずかしくなることが私にはある。
でも、人が立てた、どんなりっぱな問いも、
いまの自分の知力ではとうてい歯が立たない問いなら、
5年後10年後に向けて今から勉強していく価値はあるが、
いま自分が出したいものを出すことはできない。
自分のはるか後輩が、
自分がとっくの昔にのりこえた問いにつまずいていて、
代わって考えてあげることも親切だとは思うが、
いま自分が出したいものを出すことはできない。
逃げてもいいし、人は弱いし、自分も弱い。
でも逃げるにも体力は使う。
洗濯だって、通販でちょっとしたモノを買うのにだって、
時間や労力がかかる。
ましてや人が立てた問いにぼやいたり、
後輩に代わって考えてあげるにも、
もっともっと時間と労力はいる。
逃げて、逃げて、気が済むまで逃げたとしても、
「この方向じゃあ自分の出すべきものは出せないわ」
と気がついて、
遠くから戻ってくるにも体力は要る。
Aさんも癖を直すのは大変な体力がいるだろう。
戻ってきても、そこはスタートライン。
そこから、
もやもやとした自分の違和感の正体と向き合って、
自分の「問い」をつきとめたり、
問いの答えを探して、調べたり考えたりしていくにも
大変に時間と労力が要ることだ。
だから人は、
他人の問いで幅を広げたり、
他人に代わって親切に考えてあげることも必要だが、
いつかは、そこから戻って
自分の問いに向き合わねばならない。
つまり、
「論点を起こせる人に」
なれるよう、鍛えたり、
習慣をつくったりしていくことが、
自由だ、と私は思う。
最後に、前回のコラムにいただいた
読者のおたよりを紹介してきょうは終わろう。
<乾いた畑から水を絞り出すように>
前回の「ぼやき」のお話で、
私のtwitterのことが頭に浮かびました。
有名人と比較してはいけないのでしょうが、
冷静に見ても自分が発信することが少ない。
自分の言葉で書きたいことが少ない。
「問いを起こす」というものを全然やっていないのでは、
と感じてしまいました。
高校、大学時代の20代は、
自分なりに将来のことを考えたりするので、
自己流で、頼りないものですが、
必然と「問いを立てる」ことをしてきたと思っています。
しかし、自分の「問い→答え」は、いつも失敗ばかり、
結局、自分の弱さ、ダメさ加減、経験不足、など
ネガティブなことしか出ず。
そうしているうちに、いつの間にか
「問いを立てる」ことをやめてきました。
働いているうちは、忙しさで何とかごまかせましたが、
「問いを立てない」ツケがきています。
40代で、転職活動をしている現在、
そのツケをいやというほど感じています。
最近「問いを起こす」ときに、あるイメージが出ます。
水気のない乾いた、もしくは固く絞ったぞうきんから
水を絞り出しているイメージです。
もう何も出ないのに、
無理くり絞って水を出そうとしています。
若いときは、汚い水かもしれませんが、
それなりに出ていたと思います。
(K)
<なぜ自分はその問いに引かれたのか>
ぼやきになるのか、自分の表現になるのか、
その違いは、
投げかけられた問いを、自分でどう消化するか
のように思います。
問いを共有するということは、
ただ与えられた問いに答えようとするだけではなく、
なぜ自分はその問いに答えたくなるのか、
相手にそこを明らかにする作業なのでしょう。
私自身狭い世界で生きていると、
日々同じことの繰り返しに落ち込んでしまい、
問いが立たなくなることがあります。
それが続くと、問いがたっていない自覚もなくなります。
そんな自分に風穴を開けてくれるのが、
この連載のような、他の人からの問いかけです。
問いをもって生きてる人の姿に、
問いが立たなくなっている自分が照らされて、
気づくことも多々あります。
そうやって、日常の慣れに落ち込みそうなところを、
踏みとどまっているところです。
(たまふろ)
<どんな言葉を蓄えるか>
前回の「創造性が弱ると、人はなぜボヤくのか?」
を読んで、思い出した言葉がありました。
『氷点』を書かれた三浦綾子さんの言葉で
「人間は、(中略)
長い間その人を慰め、励まし、
絶望から立ち上がらせる言葉を、
胸にたくさん蓄えておかねばならない。
一生涯使っても、
使い切れぬほどたくさんに。」
(随筆『忘れえぬ言葉』より)
この使いきれないほどの言葉は
自分自身のためにも必要なのだと思います。
自分に闇へのキーワードを注いではいけないのです。
(瞳)
<取り消せない“言葉”を送るとき>
友人へ送るちょっとしたメールやたった一通の手紙でも、
相手に誤解など与えないか、
意図に反して相手を傷つける様な言葉や表現は無いか?
など十分注意して居るつもりです。
特に「後から取り消せない」
言葉や文字として残るものは、
必ず何度か読み返してから相手に送る
あるいは世の中の目にさらす覚悟を自覚する
と言う事は、これからもずっと
心掛け実践していこうと思います。
“相手が不特定多数である場合”
その必要性は尚更かと思います。
(まつ子)
<脱却>
「ボヤく」ということは
僕自身もよくやってしまうことです。
今の時代、テレビを見たり流行りの音楽を聴いたり、
ネットにあがる動画を見たり文章を読んだりなど、
自分は何かを常に与えてもらって当然
という立場に陥りがちになってしまっていると思います。
そうしたときに思うのは、
何かを受け取るという行為は、
ただ漫然と行うのではなく、
受け取る体勢をきっちり整えてから
やらなければいけない
ということです。
例えば誰かから批判されたり、
うまくいかないことがあったりなどして
ストレスが溜まると、
それを解消するために
「与えられたもの」に対して批判をする体勢に
なってしまいます。
これが負の連鎖になって批判が止まらなくなってしまい、
自分が好きだったものに対してさえ批判を始めてしまって、
何も頼るものがなくなってしまうとういう状況に
陥ることがよくあります。
そのようなときは、
一旦、「与えてもらう」立場を脱却する必要がある
ように思います。
そのためには、自分の発言や行為を意識的にして、
与えられたものに対して無意識的に反応してしまう習慣を
抜け出さなければいけないのかなと思います。
(ドレミ)
<ゴール>
もっともっと本質的な答えを見つけたいなら
エネルギーを注いで
問いすらも自分で見つける必要がある。
自分で問いを創りだし自分で
答えを見つけられる自分でありたい。
(まぁちゃん)
|