Lesson761 怒りを静める
−2.読者それぞれの「だいじょうぶ」
怒るとき、
自分を静める言葉は、
「怒るな」じゃなかった。
「我慢しろ」でも、「寛容に」でもなく、
「だいじょうぶ。」
これがいちばん効いた。
という先週のコラムに、
読者の反響をいただいた!
さっそく紹介しよう!
<怒りの裏側に想いを馳せる>
私は、教員をしています。
目まぐるしい毎日を過ごす子どもたちと一緒に居ると、
子どもたちの様々な感情に触れます。
その感情が、私に向けられることもあります。
もちろん、涙が出るくらい
心洗われる振る舞いや表情にも出会いますが、
時には、お前嫌いだ! という表情だったり、
イライラを露わにした目や声だったりすることもあります。
それに対して、私は
単純に傷ついたり、
人と関わるのが怖くなったりします。
先週の読者の方の、
「人に対して、
怖いと思って逃げるのではなく、
“この人の不安ってなんだろう”
と考えるところに人間理解がある。」
これは、そのまま、
生徒理解に通じることだなぁと思いました。
私も、先生も、生徒も、親も、
怒っているときは、
「この人の、私の、不安ってなんだろう?」
そっち側に想いを馳せることで、
心の空間はとても広くなると思いました。
(hotaruuuuum)
<気持ちに寄り添う言葉>
二人の息子がいます。
下の子を妊娠した時
夜中に結構な出血を経験しました。
寝ている上の子を抱きしめながら、
不安だらけでお腹に手を当てていると、ふと
「大丈夫」
と言う言葉が降ってきました。
寝ている子が言ってくれているようでもあり、
お腹の中の子が言ってくれているようでもありました。
そしたら、不思議と気持ちが落ち着いて、
出血も不思議とおさまりました。
その上の子にどうやら発達障害があるとわかりました。
怒られると心の中がパニックになるらしく、
自分を責めて叩いたりします。
なので、私は、あまり怒らないように
と思うあまり、
我慢し我慢し、
どっかーんと爆発して結局
号泣させてしまったりします。
自己嫌悪なんて言葉じゃ足りないくらいの自己嫌悪です。
怒る時の不安や苛立ちを
今まで一生懸命頑張って我慢してきました。
でも、
「何故自分が怒っているのか?」
を思った事がありませんでした。
だって、腹が立つんですよ!
母は腹が立つ生物なんです! と、
子供にも開き直ってました。
泣き虫の我が子は、最近それを真似て、
僕は泣く生物なんです! って開き直り、
開き直り合戦です。
本当に叱らないといけない時ではない時の怒りは、
自分の思い通りにならない事への苛立ちで、
それをさらにこんなに我慢してあげてるのに! という、
勝手な思いから来てるんだと思い至りました。
自分の心と子供の心に寄り添って、
自分と子供に
「大丈夫」
を言ってあげようと思います。
子供達があの時私に大丈夫って言ってくれたように
(T)
<「だぶぶ」の魔法>
やっと話せるようになった末の子は、
冒険が大好きで何でも自分でやりたがる子。
危い所を渡ったり、
長いものをふり回したり、
とにかく上の子と同じようにやりたい。
その度私は悪い予想が浮かび、
怒ったり口うるさく小言を言って止める。
すると末の子は、
「だぶぶ!」
と自信満々の笑顔で、力強く言い放つ。
「だぶぶ」は、「大丈夫」。
親は、怪我や病気を恐れるあまり、
冒険を回避させたがるきらいがある。
怪我や病気にまつわる不安、心配、
通院の手間、お金、
夫や家族の今さら言っても仕方ない
「だから〜すればよかったのに」への対応…。
これらの責任から、なるべく逃れて育てたい。
冒険して失敗する位なら何もしないでほしい。
親の私の安心のために。
しかし、子の根拠のない自信と冒険力に、
親が勇気づけたりもする。
不安にかられる時、よく子に
「だぶぶって言って。」
とお願いする。
「大丈夫」と言ってもらうと、肩のカがふっと抜けた。
「だぶぶ、だぶぶ」
と自分に言い聞かせ、
バラードを唄うように呼吸する。
怒り(不安、恐れ)を我慢して押し込めるのではなく、
ふーっとかわして客観的に眺める。
これも一つの冒険で、勇気が必要だと思う。
「だぶぶーだぶぶーだぶぶー」
吐く息である語尾が長いのは、子守り唄だ。
子をあやしながら自分をあやす。
(Y)
<認めて前向きに出す>
怒った時の、だいじょうぶ。
私の場合は、
「怒ってもいいよ、だいじょうぶ。」
です。
怒りも表現の一つだと思えます。
喜怒哀楽は、どれかが大きく欠けると
心身のバランスに響く気がします。
怒っても引きずらないように。
なるべく前向きに出す。
そして、
怒りの感情を表現させてくれた相手に感謝できるように。
(眼鏡ぐま)
<自分を信じて大丈夫!>
「だいじょうぶだよ」と自分に呼びかけるのは、
形を変えると
「あなた自身を信じてだいじょうぶだよ」
と言えそうな気がします。
大変なことや辛いことなどがあっても、
その中でちゃんと自分はベストを尽くすことが出来るし、
それに応じた結果を得られる。
必ずしもうまく行くとは限らないかもしれない。
でも悔いのないように出来る限りのことを自分は出来るし、
それは変わらず自分の中にある。
それは信じてよいし、だいじょうぶと言えるものです。
そんな自分を、周りに振り回されて見失っているときに
呼びかけるのが「だいじょうぶ」なのでしょう。
呼びかけてくれる「だいじょうぶな自分」を
育てられたらと思います。
わたしはよくプールに行くのですが、
泳いでいる時には無心でいられて、その時間が好きです。
泳いでいる時に考え事などすると、
手足がばらばらになり、息継ぎが乱れて進めなくなります。
呼吸のリズムを整えると、
からだ全体のリズムが生まれて、
楽に水の中を進めるようになります。
無心であろうと意識すると、
かえって余計なことを考えますが、
まずからだの方から必要な環境が作れれば、
自然と無心になります。
深呼吸の際にはまずはくことを意識します。
はき切って空っぽになると、
力を抜いたときに自然と息が吸い込まれて、
そこに乗ってからだの奥深くまで入っていきます。
はじめに吸おうとしても、
からだに息が入るところがなければ
浅い呼吸になってしまいます。
そのスペースを作るために出し切るのです。
出し切ってしまえば自然と入るし、
とことんまで入れれば自然と出て行きます。
そこに身を任せると深呼吸になって行きます。
そうやって自分を空っぽにし、
新鮮なものを入れていけるからだを作るのが、
深呼吸という作業のように思います。
(たまふろ)
「私の怒りは、“恐い”から来ているんだ」、
と気づくまでにかなり時間がかかり、
そこから偶然にも「だいじょうぶ」という言葉が
編みだされるまでに、かなり月日がかかったように思う。
自分に合った、怒りとの折り合いのつけ方が、
編みだせたときは、ほんとうに嬉しかった。
人によって、場合によって、
怒りの正体もさまざまだ。
怒りが、「面倒くさい」から来ているとしたら、
つまり、面倒くささが、自分の限度をこしてしまって
キレているんなら、
なんらかの、面倒くささに効く言葉がいるし、
怒りが、「正義感」から来ているとしたら、
つまり、正義の側に自分を置いて、
悪が、自分の我慢の限度でおさえこめないほど
気に障っているんだとしたら、
そもそも「正しいとはなにか?」
そこから問うてみてもいいように思う。
これから先、新たな怒りに苦しむことがあっても、
その正体を見つめ、
そこから自分に合った折り合いのつけ方を、
編みだしていきたいと、私は思う。
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