Lesson767
引用に負ける人・まけないオリジナリティが出せる人
「すごい人の名言」を私たちは、つい引用したくなる。
「かの有名な、マザーテレサはこう言った‥‥」、
「“あきらめたらそこで試合終了”という名言を
思い出せ‥‥」
というように。
名言を引用するとき、
「名言に出逢うまでの苦労」は、
皆一様に、よく語られている。
しかしその後、
自分がその言葉をどう消化し、
具体的にどんな行動に落とし込み、
どう続けて、どう現実をのりこえたか、
つまり、
「名言に出逢った後の苦労」は、
抜け落ちている人と、よく語られている人と
くっきり差が出る。
そこが、
引用に負けてしまう人と、
引用にまけないで、自分の表現ができる人の差だ
と私は思う。
「引用禁止令」
と、ほんとうは表現教育の初期段階の生徒さんに
義務づけたいくらいに、
講師の私は思っている。
でも、そうはいかない。
やはり、その人の人生においてかけがえなく
「のり越えて出逢っている言葉」
というものがあり、
第三者が、いくらトレーニングのためとはいえ、
軽々しく取り上りあげられない尊厳がある。
それに、たとえば「継続は力なり。」というような
あまりにも王道すぎる名言を引用しても、
その前後が素晴らしく、
聞く人を感動させ、
充分オリジナリティを発揮した文章やスピーチを
私は現実にたくさん見ているからだ。
「地の文が主、引用は従。」
オリジナルの表現作品に、
他者の言葉を引用する際の大原則だ。
「自分の想い・考え」が圧倒的に主役で、
他者の言葉の引用は、あくまで
それを伝えるための手段でなければならない。
にもかかわらず、初心者のかたが
やってしまいがちな失敗は、
「引用が凄すぎて、地の文が負けてしまう」
というパターンだ。
聞き手・読み手にあとから感想を書いてもらうと、
みんながみんな引用部分、
たとえばマザーテレサなら
「マザーテレサの名言に感動した!」
しか書いていないことがある。
受け手は、
マザーテレサに感動しているのであって、
表現した人に感動しているわけではない。
ひどい場合は、受け手は、
だれが表現したのか、何を言っていたのか、
ぜんぜん覚えていなくて、
ただマザーテレサの言葉だけが
印象に残っている場合さえある。
自覚なく「ウケウリ」に陥ってしまうパターンだ。
本人が表現していないのではない。
がんばって表現したにもかかわらず、
凄すぎる名言のインパクトに、
自分の表現など消し飛ばされてしまうのだ。
強い言葉を引用するときは、
そのインパクトに負けないだけの「強い想い」、
自分の伝えたいことが要る。
凄い人の名言の引用は、
その言葉の引用でインパクトが出るという効果と、
その言葉のインパクトで
自分の言いたいことがかすんでしまうリスクとの、
両面をみて考えたい。
やはり、私のおすすめは、
「引用を用いず全編“自分の言葉”で表現してみる。」
これなら主題が、
たとえ自分の畑から生えたぺんぺん草のように
ささやかなものであったとしても、
引用のインパクトに消されることを気にせず、
表現できる。
「その引用はどうしても必要か?
もっと自分の経験から出た言葉で表現できないか?」
と、引用する前に問うてみるといい。
それでも、どうしても、
「自分の人生でかけがえなく出逢ってしまった
“凄い人の凄い言葉”を、引用して、
話すなり、書くなり、自分の表現をしたい!」
という人に、
私が、今年度のオリジナリティあふれる
学生140名の表現から学んだことを、
私自身に言い聞かせるためにも、尊敬をこめて、
ここに書いておきたい。
引用を用いても、
オリジナリティを失わない学生が、
私のまわりにはたくさんいる。
そういう人の表現には、「足がある」と私は思う。
つまり、その言葉から
具体的な行動をしている。
だから、その言葉が、
現実の行動を通じて「血肉化」されている。
逆に、引用に負けてしまっている人は、
出逢った救世主のような名言に、
まだ恋しているような印象だ。
言葉に心酔してる、かぶれている、
寄りかかっているように見える人もいる。
凄い人の名言を引用する際、
ただ引用しただけではウケウリにすぎないので、
自分の経験を通して伝えようと
だれもが思う。
そこで、その言葉に出逢うまでの苦労を語る。
自分はそれまでの人生、このように苦しく、
このような点に悩んでいた、と。
そんなときにこの言葉に出逢い、
衝撃を受けた、と。
引用に負けてしまう人は、
ここで思考がとまってしまい、
「だからこの言葉って素晴らしい、多くの人に伝えたい」
で終わってしまう。
言葉に希望を与えられた経験は、私もあり、
本人にとっては、かけがえないものである。
ただ、その時点ではまだ、
「ほかならない自分として人に伝えるべき主題」
にはならない。
なぜなら、
「私は素晴らしい言葉に出逢って希望を得ました」
だけでは、名言そのものが主役になってしまって、
その名言の良い伝道師にはなれても、
自分の表現にするのは難しい。
他の誰かが、その名言を引用して言っても
名言を生み出した偉人自身が言っても、
通じるわけだ。
名言を引用しつつも、
名言を生み出した偉人本人には言えない、
第3者にも言えない、
オリジナルの表現として浮上させられる人は、
名言に出逢って以降が語られている。
言葉に出逢ったあと、
具体的にどう行動に結びつけたか、
現実の努力としてどう続けていったか、
その結果、自分と周囲の関係がどう変化したか、
何をつかんだか。
たぶん、ここまで「血肉化」して初めて、
名言を右から左へ受け売るのでない、
自分の経験を通したメッセージとして
人に伝える価値が出てくる。
とはいっても、言葉に限らずなのだが、
「それを人に言いたい、ふれまわりたい」ときは、
出逢ったばかりのときだ。
「その言葉に出逢って、
まだ具体的にどうこうしていないけど、
なんだか直観的にすごくいいぞ!」
と思えるわくわく状態のときが、
いちばん人に言いたい時だ。
具体的に行動し続けて、すでに自分の血となり肉となって
しまっているときにはもう、
自分のなかで当たり前すぎて、
聞く人・読む人には薀蓄があっても、
本人としては、わざわざ主題としてとりあげようという
興味がわかない場合もある。
名言の引用にも「書き時」がある。
名言を引用するときは、
出逢った直後で、言葉に恋しているような時期は、
まだ、「書き時」ではない。
名言を実践して、
現実のなかで、ささやかでも何かひとつのりこえたとき、
そこが「書き時」だ。
引用に消されてしまわないオリジナリティも
きっとその時生まれていると私は思う。
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