Lesson768
引用に負ける人・まけないオリジナリティが出せる人
−2.読者の声
エライ人の名言を、
私たちは、つい引用したくなる。
うまく引用を効かせて、
自分の伝えたかったことが、より伝わる、
というのが理想だけど、
引用のインパクトに自分の言葉が、
かすんでしまって、
相手には、引用部分しか残らなかったり、
単なるウケウリとケムたがられてしまったり。
引用に負けないオリジナリティは、
名言を実践して、
ささやかでも何かひとつ、
現実をのり越えて、生まれるのでは、
という前回のコラムに、
読者からおたよりをいただきました。
さっそく紹介しましょう!
<引用の動機>
引用に負けてしまうのは、
書く動機に照らし合わせて、
「なぜ引用をしたのか?」
そこにかかってくるように思います。
自分の表現に自信がなかったり、
読み手によく思われたいという動機で引用をしてしまうと、
伝わるのは、
自信のなさや、よく思われようとしている
自分自身の姿だったりします。
もちろん、自分が感動した言葉を、
みんなと分かち合いたいという動機から、
引用するのもありでしょう。
そこで共感を得られれば、
表現した動機は伝わります。
ただその表現は、
その人でなければいけない理由がありません。
名言というのは、便利な道具のようなものです。
そこに様々な感情を乗せることも出来るし、
感動や思いを読み手に呼び起こすことも出来ます。
ですが便利なだけに、
書き手が手抜きをしても表現できてしまう
ということがあります。
それだけ表現というのはごまかしが効かないし、
嘘がつけないものです。
手抜きをすればそこも含めて伝わりますし、
名言に飲まれたら、飲まれている自分が伝わるでしょう。
伝えたいことを越えた、自分そのものが出てしまいます。
名言を引用するのは、決して悪いことではありませんが、
伝えたいことがかえって伝わらなくなったとしたら、
もったいないことです。
伝わらなくなるリスクがあることを踏まえた上での
引用ならば、
それはそれで覚悟のある表現になります。
引用をしたくなっているとき、
いったん立ち止まって、
なぜ引用したいのか
を確かめなおして表現できれば、
引用にも飲まれない、
しっかりしたものができるのではないでしょうか。
(たまふろ)
<まるで自分が強くなったように>
人の言葉の引用をする理由として、
“楽”して事態を乗り越えたり、
考えを伝えたりするということも多々あります。
例えば、人を励ます場面で、
仮に偉人として有名である松下幸之助の言葉を借りた場合、
その松下幸之助の功績を讃えながら
「松下幸之助だって、
偉業を成し遂げるまで相当の苦労したのに、
顔色一つ変えることなく、道は拓くと言っていたんだよ。
だから、あなたも苦しんではいるけど、
このまま頑張っていれば大丈夫だよ。」
といった具合に伝えたとします。
別に自分は大きな苦労をしたんじゃなくても、
力強く励ませた気持ちになり、
なんだか自分がえらく上に立っている
高揚感さえ感じられます。
また、博識感さえ演出できる為、
とても物知りな自分として酔いしれることもできますし、
ふだんちっぽけだなと感じる自分を、
ちょっと偉ぶれる時でもあります。
でも、残念ながら
「そうそう! そうなんだよね!」と
近い距離感で相手の共感を得るのは
難しいでしょう。
それは、他者の言葉と人生に便乗させて頂いている、
“ずるさ”が感じられるから。
激動の人生を歩んできた人、
相当量の学びを経験してきた人、
博識な人‥‥
そういう人は、
自分の考えと言葉に絶対的な自信を持っています。
そんな気概にあふれた言葉を借りる時は、
「すみません。ちょっとお借りします。」
という謙虚さを持ち
素直に尊敬を込めて使わせてさえもらえば、
少しは言葉の尊さに気づけるかもしれません。
(ペリコ)
<どんな名言よりも>
私の中で血肉となった言葉をひとつ、
思い出しました。
それは小学校の林間学校の登山の時に、
担任の先生から言われた言葉です。
運動の苦手だった私は、
急な傾斜の連続する山道に疲れて
先生に
「なんでこんな辛いことしないといけないの!」
と泣き言を吐きました。
そうしたら先生は静かな声で
「今は辛いかもしれないけれど、
この経験は将来君がまた辛いことに遭遇した時の
支えになるよ。
あの時私は耐えられたんだから大丈夫だ、って。」
と答えました。
私は、そんなものかなぁ、と思いながらも
ゆっくりと歩を進めました。
今ではもう、あの時の登山の苦しみは
忘れてしまっています。
大人になった私が遭遇する出来事の中には、
あの登山よりも辛いことも沢山ありました。
けれど、辛くて立ち止まる度に
何故だか、先生の言葉が柔らかく包み込んでくれるのです。
名言だなんて意識していません。
台詞として脳裏に浮かぶわけでもないのです。
ただ、あの時先生に貰った大切なものが、
私の内側からぽかぽかと温めてくれて
私の勇気を後押ししてくれているように感じるのです。
自己啓発本に乗るようなインパクトのある名言は、
即効性の高いサプリメントのような効果が
あるかもしれません。
けれど私の脳みそに残った大切な言葉はどれも、
誰かが私に「伝えたい」と願いながら伝えてくれた
言葉でした。
その言葉は一字一句思い出せなくても、
私の日々の生き方に溶けて私を支えてくれています。
そして、私も大切な人にその言葉の持つ力と
同じようなものを渡したいと願っているのです。
(N.N)
ズーニーです。
なぜ引用したのか、「動機」が大事
という、たまふろさんの言葉で、
思い出したことがあります。
数年前、
表現講座の卒業生Nさんと
久々にお会いして、たくさん話し、
翌日、Nさんが、
名言を引用して、こんなメールをくださったのです。
「きのう、ズーニーさんの話を聞いていて、
“万能なゼロ”
という言葉が浮かびました。」
私は、なぜかとってもうれしかった!
Nさんは、引用について解説することもなかったし、
Nさん独自の意見も添えられていませんでした。
なのに、
なぜ、私はうれしかったんだろう?
と考えたら、
私が、Nさんに一生懸命伝えようとして、
うまく言いきれなかったことが、
みごとにこの引用、ひと言で
しっくり、言い当てられていたからです。
つまり、
「理解。」
Nさんが名言を引用した動機は、
私の言わんとするところへの理解。
「人をわかろう」という気持ちだった。
こういう動機からする引用は、
適確にはまると、とても通じ合える!
と気づかされました。
「何を引用するかより、どんな想いで引用するか。」
ぺリコさんのいうように、
動機に、「ラクして強く励ましたい」
というズルさがあると
伝わらないし、
N.Nさんの恩師のように、
生徒を支えたいという温かい想いから出た素朴な言葉が、
何十年にもわたって人を包み続けることもある。
N.Nさんの、
「恩師からもらった言葉の持つ力と同じようなもの」
を次に渡したい、
という考えが、光ってるなあ。
私も、ときどき立ち止まって、
こう問いかけて行きたいと思います。
「いま、自分がこれを引用する“動機”はなにか?」
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