YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson771
      失ったものに凹み過ぎる時は
         ―3.読者の声


3月、

卒業や異動で、
慣れ親しんだ人や場と、
お別れせねばいけない人は、
ほんとうに辛いと思うけれど、

「喪失は辛いばかりではない、チャンスなんだ」

と、ここ2週のコラムに寄せられた
読者のおたよりに、
改めて励まされている。

きょうはそのおたよりを紹介する回。

読者の「喪失と自立」の
元気が出るおたより、

さっそく一気に紹介しよう!


<人から言われてやっと>

昨年の四月、
息子が、就職で自宅から出ました。

希望通りの仕事で、
数年後には海外勤務が決まっていて、
このままいけば、

自宅の神奈川には一生戻ることはないでしょう。

息子が生まれた時、
「あー、この子は私の物ではなくて
 一時期お預かりしているんだなぁ」
となぜだかなんとなく感じて
大学を出た時、社会にお返しするんだと思っていました。

頭では分かっているのです。
私も仕事があり、主人と娘との
はたから見たら幸せな暮らしがあります。

私の職場に、息子と入れ違いに、
息子の年と近い男性社員が来て、とてもいい子で、
「息子さんがいなくなって、淋しいんですね。」
と指摘されて、気がつきました。

私は、息子ロス状態なんだ。

まわりにたずねてみると
息子が家を出る前後、
私の精神状態がおかしかったと言います。

攻撃的になり、
いつもの私と明らかに違っていたと
口々に言います。

いずれ息子のいなくなった状態になじみ、
息子の幸せを心から喜べるようになるでしょう。
ただそれまでには、
多少時間がかかるのかも知れません。
(まりらん)


<いつしか存在価値まで>

ぼくは、半年くらい付き合ってきた彼女と、
11月の末にお別れすることになってしまいました。

元はと言えば、

相手から好きになってきて、
ぼくは、それほど前向きではなくて、
職場も同じだし、なんとなく一緒にいて、
もうこれは付き合っていないとは言えないな、
というところまでいって、やっと、
自分たちが「付き合っている」と認めました。

そういう馴れ初めだったため、
別れた後の喪失感の大きさは、自分でも驚くほど大きく、
2ヵ月ほど、ずっと落ち込んでは
彼女のことを考える生活を送っていました。

何でこういう感情を持つのか、
ぐるぐると考え続け、
気付きました。

「自分の存在価値みたいなものを、
 “彼女が好きでいてくれる”ことに依存して
 保っていた。」

そして、やっとたどり着いた答えは、

「もっと自分と自分の大切な人に真剣になろう。」

いつの間にか、
自分のことも、大切な人のことも
真剣に考えなくなっていたと、

彼女が好きでいてくれることで、
自分の人生まで肯定された気分になっていたと、
別れて初めて気付きました。

まさに、
「自分の足で立てる部分まで立てていなかった」ことで、
精神が毒化していたのだと思います。

そこから、徐々にではありますが、
立ち直れてきています。

今でも、彼女のことが好きだなあという気持ちがあります。
その気持ちに、嘘はつけません。
でも、復縁とか、そういうことを考える前に、

まずは自分の足で立って、自分の存在を確認すること、
立つべき部分を取り戻すことを
やっていかないといけない。

前を向いて、強く立って、歩いていきたいと思います。
(Kota)


<Lesson769を読んで>

思い当たる節があります。

ちょっとした変化にうろたえ、
もし失ったら心身がおかしくなると、
依存している自覚がありながら
切り替えることができず、

ずるずると数年経過。

ある時、きっぱり離れてみたら、
新しい物事に目を向けてみたら、
想像していたようなダメージなんてなく。

でも、依存する対象が変わっただけなのかもしれない。

頼り過ぎていないか? しがみついていないか?

ときどき自分を
観察してみようと思っています。
(いそべあげ)


<これを機に>

「喪失感は、依存度に比例する。」
この言葉、とてもよくわかります。

先日、楽しみにしていたメルマガが終了しました。

そのメルマガは、生きるヒントを与えてくれて、
読んだ後は、いつも励まされている感じがしました。
自分の気持ちを的確に代弁してくれていると、
思いながら読んでいました。

配信終了のお知らせを受けて、
少し寂しかったのですが、
発行者に、そっとお礼を言って、
こう決めました。

「これからは、
 私の気持ちを代弁してくれるものをさがすのではなく、
 つたない言葉でも自分の気持ちを表現しよう!」
(はちこ)


<残された自分にできること>

失ったものを取り戻すことは出来ません。
凹みが具合が激しいほど、代わりが効かない。

失ったとたんにそれは過去のものになってしまい、
現在に自分だけが取り残されます。

取り残された自分が出来ることは、
現在自分のまわりにあるものから、
もう一度作り直すことだけです。

今の自分がかけがえのないものを、
自分の力で作れるかを問われる作業です。

出来るかどうかは分かりません、
それでも私たちは現在を生きていくしかありません。

だからこそ喪失感を抱えて生きていく人が
たくさんいるのでしょう。

辛いけれど、
慌てて喪失感を埋める必要もないですし、
急ぎすぎると次の依存を生んでしまうこともあります。

それぞれが、喪失感を持っているし、
あるいはこれからそういう経験をするのかもしれない
と思うだけで、

人に向ける眼差しが優しいものに変わる
ように思います。
(たまふろ)


<「失ったものに凹み過ぎる時は」を読んで>

ハッとしました。

わたしは依存や期待が大きいかもしれません。

失ったときに、
または失いそうなときでも、
まず、

「ありがとう」

と思える・言える関係でありたいです。
(Yoshimi)


<今日からは>

わたしは今、恋人がいますが、
その人に依存しすぎな自分がいて、
今からその人を失ったときのことを想像して、

怖いです。

怖いのに、どうしようもなく、
自分で自分を檻に閉じ込めているような、窮屈さに
もう3ヶ月ほど苦しんでいます。

「楽しい時間を作り出す」ということについて、

ズーニーさんのいうところの
「自分でできる部分があることすら忘れ、
 やがて、その人がいないと何にもできない、
 できないのがあたりまえの自分になってしまっている」
のだと思います。

毎日、失うことを恐れて怖い、苦しい日々です。

だけど、

「失ったものに凹み過ぎる時、
 本来、自分の足で立てる・立つべき部分を
 取り戻すチャンスなんだ」

というところを読んで、

まだ失ってはいませんが、
失うのが怖いと予想できている時点で、すでにチャンス、

「自分で自分を楽しませてあげられる力を取り戻す
 チャンスなんだ。」

と信じ、
今日から生きていこうと思います!
(Jun)


ツイートするFacebookでシェアする

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2016-03-09-WED
YAMADA
戻る