YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson779
 「自分のやってきたことは意味がなかったの」と
 人に問うまえに



ずいぶん前、会社にいたころ、

15年いた部署から
「異動」を言い渡された。

新しい部署で、
春から新しく部長に昇格するという人は、
私を見るなりこう言った。

「山田さん、あなた、何年目?」

これは、新部長が、
人事から渡された
「私の経歴をまったく読んでない」
ことを意味する。

新部長は、私を、
新人がやる仕事に就かせようとした。

このときの失望。

新部長と会社の名誉のために言っておくが、
その後、私の経歴をお伝えし、
新部長の上司、旧部長も指導してくださって、
さいごには、私の経験にあったポストを
用意してくださった。
良心的会社であり、良心的対応だったと、今も思う。

だけど、あの失望と、
十何年も折り合いをつけられずにいた。

「あの失望の正体は何だったのか?」

月日は流れ、今年、

大学生の表現を見直していて、
あっ、と思い当たるものが2作あった。

1作目は、

少年時代に駅伝大会に出たときの話。

駅伝で、
「自分のせいいっぱい」で走ってきて
たすきを継いだ。

けれども、あとから考えたら、

「自分はもっとやれたんじゃないか?」

走ってる最中は、
いっぱいいっぱいだと
感じていたけれど、

もっとやれたと考えたら、
とたんに、
「せいいっぱい」が色あせて、
達成感がぜんぜん持てないどころか、
やる気さえなくしていった、
と彼は言う。

けれども、その努力を見ていた顧問が、

「でも、そのときは全力だったんだろ、
 倒れ込むまで走ってたじゃないか。」

と彼のせいいっぱいを認め、言葉にした。

彼はじーん、と感動し
やる気を取り戻した。

もう1作は、

小学校3年の時、
「中学受験」を自分の意志で決めて、
まわりの友達が遊んでいる中、
夢に向かって猛勉強。

3年半、努力に努力を重ねたという学生。

しかし、「不合格」。

わずか11、12歳の人生にとって
3年半の必死の努力が報われないとは
どれほどの失望だろう。
泣き、悲しみ、立ちなおれないほど
つらがる彼に、

おかあさんが、

「がんばったなら、それでいい」

という言葉を贈った。

いままでの努力が認められたようで、
彼はラクになり、心底救われたという。
そこで彼の脳裏に浮かんだのが、

「これでいいのだ!」

天才バカボンのパパの名言。
それから彼は、人生で、
自分の努力を認めるべき時に、
「これでいいのだ」と言うようになった。

これらの経験を通して、
二人の学生が共通してうったえたのは、

自分の努力を認めることの大切さ。

「がんばった自分を認めていますか?」

と、私も問いかけられた気がした。

もちろん、もちろん、
私も、自分をほめたり、ごほうびを与えたり、
自分の努力を認めてますよ、
と言おうとして、

言えない。

「認めてもらってないぞー」

と心の底から、不満のような、
嫌な感じがわきあがった。

「ちょくちょく、よくやったと、
 自分に声をかけているにもかかわらず、
 なぜ、自分の努力を認めていると思えないんだろう?」

そう考えて、はっ、とした。

自分を認めてやってるときは、
成果が出たときと、人から認められたときだけだ。

努力しても、結果が出なかったとき、

結果が出ても、人からひどいことを言われたとき、

そこまでの自分の努力を、
無視したり、否認したりしてしまっている。

そうか!

人は、不合格など結果が出なかったり、
結果について人からとやかく言われたりすると、

「自分のそれまでの努力は意味がなかった」

と思い込んでしまいがちなんだ。

さらに、さらに、

私がよくやってしまうのは、
もっともっとと欲をだし、
詐欺まがいの、

「自分に対する要求レベルの吊り上げ」

たとえば自分が馬だったとして、
10キロ坂を登ったらニンジンあげると約束される。

その10キロの目標に、
努力して辿り着いたとき、

「まだまだ、おまえなら15キロはいける!」

とそこで急に、要求をすりかえられて、
15キロに吊り上げられたとしたら、

「詐欺だ、ニンジンくれよ」

と腹が立つし、やる気をなくすが、
自分は自分に、これをしょっちゅうやっている。

自分の実力に幻想があるのか、
やっているうちに、もっともっとと
欲が出てくるのか。

当初の目標をクリアしているにもかかわらず、
自分で認めてやらなかったり、
身の丈をこえた目標へと
自分を駆り立てて、できなくて、
へこんだりしてしまっている。

あの、人事異動のときの、
「失望」の正体がいまはわかる。

「自分が今までやってきたことは意味がなかったの?」

という問いに、だれ一人、あると
言ってくれなかった失望だ。

いちばん身近で、自分の努力を見て、
そこに意味を感じ続けてきた自分さえ、

「意味あるよ!」と言ってやれなかった。

連休、私はどこへも行かず、故郷に帰らず、
寝食削って仕事をした。

できたところであたりまえ、

やりとげて感慨もなく、
夕飯の買い物へと歩いているとき、
ふと、

「これでいいのだ!」

あの学生が伝えてくれた言葉と、
バカボンのパパの顔が浮かんだ。

「自分は、この連休、よくがんばった」

そう想ったら、
買い物の足取りがはずんできた。

これからも、

結果に関係なく、
その都度その都度、意識して、
がんばった自分を認めてやろうと
私は思う。

「よくがんばったぞ、私。」と。


ツイートするFacebookでシェアする

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2016-05-11-WED
YAMADA
戻る