YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson787
      血液型が2つしかない国



その国には、
血液型が、Aか、Bか、
の2つしかありませんでした。

だから、

「自分はAでも、Bでも、ない。」

「自分はAとB、両方だ。」

という人がいたら、たいへんです。

誰にも自分の血液型を知られぬよう、
息ひそめて暮らさなければなりません。

輸血につながる大ケガはできません。

子の血液にかかわるので、
結婚のとき、相手に言うか迷います。

日常のちょっとしたことに傷つきます。

友達とお昼ごはんを食べているとき、
みんな、なにげなく、

「あなたはA型? B型?」

と聞きます。

就職活動の書類には、
ことごとく血液型記入欄があり、
AかB、2つに1つ、
必ず○しなければなりません。

そのたびごとに、

嘘をつくことを強いられます。

しだいにへこんでいきます。

自分の事実を人に言えないことが
いちばんのストレスになり、

「神様は自分を作るとき、
 なぜエラーを起こしたのか」
と自分の成り立ちを「誤り」だと思う人も
あらわれました。

全身の血の入れ替え手術を受け、
AかBに転向する人もあらわれました。

その国の人は、まだ気づいていません。

まちがっているのは血液型ではない。

A型も、B型も、どちらでもない型も、AB型も、
人類史上ずっと存在するのです。

「まちがっているのは血液型の分け方だ」

ということに。

……………………



私は、ここ数年、ずっと
ひっかかっていたことがあった。

大学の授業で、
学生に「2人1組」になって
ワークをやってもらうことがある。

そのときに、

なるべく「男子と女子」で
組ませるようにしていた。

属性が違う2人を組ませるほうが、
良い意味の緊張感が生まれ、
伝える力がより鍛えられるからだ。

方法は、
男子と、女子と、列を分けて資料を配り、
資料に書いておいた番号でペアにする。

最初のころは、当然のように、

「男子は、こっちの列に並んで下さい。
 女子は、あっち。」

と言えた。
ところが近年、言うそばから、
自分で自分にツッコミがはいる。

「こんなおおざっぱな分け方でいいの?」

ほんとうは、
男性と、女性と、その間の性の学生がいる。

いま、LGBTという言葉で
多様な性が理解されつつあるけれど、

そんな言葉も知らなかった、
大学に行きはじめた年から、

毎年、必ずいる。

表現の授業を担当していなかったら、
そのことに気付かずにいただろう。

私の授業は、
学生が表現をするので、
その内面を深く知ることがある。

決して学生にカミングアウトをさせるものではない。
むしろ、
「言いたくないことは、無理して言わなくていい。」
「人に知られたくないことは、書かないように。」
と言っている。

それでも、表現が深い部分におよぶと、
自ら積極的に自分の性について表現したい
という人も出てくる。

ともに学ぶ間に、学生どうしに信頼関係ができ、
ぜひこの場にいる人たちに自分のことを知ってほしい、
と心をひらく学生もいる。

そんな現実を10年近く見続けてきて、

ここ数年、私は、
「男子はこっち、女子はあっち」
とすんなりとは言えなくなってきた。

違和感があってあって、しょうがない。

この春、

はじめて私は、大学で、
男子と女子を区別しないで、
ランダムに2人1組になってもらうことにした。

これだと、
2人1組×3組=6人グループをつくるとき、

1人だけ女子で、あと5人全部男子というグループや
逆もできる。

それでも、悩んだ末に決断したら、

結果、とてもうまくいった。

私には、例年より、とても活気があるように見えた。

授業後のレポートの学生の反応もよかった。
1人だけ女子で、あと5人全部男子というグループ
になった女子学生も問題なく取り組め、
得るものも大きかったようだ。

大学の先生方とごはんを食べるとき、
その話をしたら、

そこには、歴史の先生や、哲学の先生もいて、

肉体と内面の性が異なる人や、
男性と女性の両方を兼ね備えた人は、
歴史上、ずっといる。

おそらく人類史上、もともといる。

たとえば、血液型をとっても、
Aもいれば、Oもいれば、ABもいれば、Bもいるように、
人間には、いろいろな体質・性質の人がいる。

全人類がクローンのような1種類だったら、
コレラのような伝染病がはやったときに全滅してしまう。

でも、多様な体質・性質の人がいれば、
全滅は防げ、人類存続の可能性が高まる。

そんな話をしてくださった。

そう考えると、
人間の性別は、意味あってもともと
男性と、女性と、その間の性、
で構成されている、

という方が、私にとって自然なことに思えてきた。

性が多様なほうが、人類が滅亡せず存続しやすい
という生命の戦略かもしれないし、

男性と女性を兼ね備えた存在がいるほうが、
コミュニケーションが活発になり、
人間社会が豊かになるからかもしれない。

「性同一性障害」という言葉には、
障害という文字があって、
まるでその成り立ちが「まちがい」かのような
言い方だけど、

まちがっていない。

一人の人間の中に、
男性も女性も兼ね備えている、
そういう存在がいるほうが豊かだと人類が選択して、
意味あって、もともとそうなっている。

そんな見方も、できるんじゃないだろうか。

まちがっているのは、

人間の性別を、
男性と女性の2つに決めつけたこと
ではないだろうか。

性別欄には、当然のように、
男か女か2つしか記入できない。

でもそれは、

「人間の血液型は、AとBの2つしかありません。」

と言っているように、
ちぐはぐなことではないだろうか?

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2016-07-06-WED

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