Lesson788
血液型が2つしかない国−2.読者の声
表現教育を通して、人の内面に触れるようになり、
男性と、女性と、その間の性が、
ごくごく自然に世の中に存在することを知った私は、
ここ数年、ずーっと疑問に思っていた。
古今東西、もともと、ずっと、
性別は2つではない。
なのになぜ性別を、
男性と女性の2つとしてしまったのか。
「分け方がまちがっているんじゃないか?」
先週それを、「血液型が2つしかない国」という
寓話のカタチでお伝えしたところ、
読者から反響をいただいたので
さっそく紹介しよう!
<組み合わせの世界>
先週のお題はよく考えさせられました。
男子にもチョットだけ女子の部分があり、
女子にもチョットだけ男子の部分があります。
男子と女子の間にもグラデーションがあります。
私はそう思います。
遺伝子の世界は組み合わせの世界と考えれば
いろんな組み合わせがあるはずですよ。
(Kazuyuki)
<グラデーションは美しいと知ること>
男の人も、女の人も、間の人も、両方の人も
別に勇気なんか出さなくても
「私は○○です。」
と言えて、
聞いた方も
「あ、そうですか。」
と言えるくらい社会が成熟するといいですね。
私の中にはたくさんの自分がいます。
そして、もっと多くの自分に出会いたいと願っています。
男っぽい私、女っぽい私。
大人、子供、おじいちゃんやおばあちゃん。
奥ゆかしい日本人、フランクでフレンドリーな外国人。
人が好きで人見知りで、とても臆病で大胆で。
こんな自分もいる、あんな自分もいる。
他の人もそうなのかな。
人の中に幅を感じること。
グラデーションは美しいと知ること。
それが、頷き合える喜びを増やす鍵に
なるような気がしています。
(眼鏡ぐま)
<もう一つの壁>
タイでは、
高校のトイレに、「男子」「女子」「中間」の3つ
があるそうです。
今はオカマの人が沢山テレビに出ていて、
違和感なく第三の性を受け入れてるようにみえるけど、
オナベのタレントさんは、ほとんどいない。
実は、そこに第三の性に対する、
もう一つの壁があるように思います。
日本の高校にはきっと、「中間」のトイレ、
出来ないだろうなぁ。
(RR)
<わかり易い繋がりが無い分>
子供を産むという生産性や
わかり易い繋がりが無い分
もっと他のことに気を配らないといけなくて、
そこに同性愛者には
異性愛者からは生まれにくい愛が
ある様に思います。
異性愛者が同性愛者から学ぶことって
沢山あるはずです。
(san)
<ちょっとした配慮で>
竹宮恵子先生の「風と木の唄」、
萩尾望都先生の「トーマの心臓」のお陰で、
差別偏見について
思春期の頃から考えるようになりました。
ちょっとした配慮で
性的マイノリティの人たちが
力を抜いて生きられるなら、
そこは、お互いの個性を尊重するという意味で、
やっていこうじゃないか、
と思います。
障害だけでなく、性のバリアフリーも進まなきゃ。
そこから経済も活性化するのではないかしらと思います。
学校の男女分けは、
制服とトイレット、風呂辺りから、
性差別や性差フラット化、ユニセックス化を
運営側(先生)が考慮する時期だと思います。
(ひとそれぞれ)
<習慣化したい>
男女に単純に区別して考えることは、
いわば当たり前のこととしか考えていませんでした。
その間の性について身近に考える機会が来たのだな、
という思いが少し出てきました。
そういう視点で物事を考えていくことを
習慣にしていきたい。
(AT)
<人生のコースだって2つじゃないのに>
どうして、2つに分けるんでしょう。
どちらかに所属していれば、
安心するからでしょうか。
2つに分けられて、
私が苦しんだのは、
「子供を産むか、仕事をするか」
でした。
遠方の勤務地に決まった人との結婚を機に、
仕事を辞めました。
友人に再会したときに
「仕事は?」
と聞かれたので、
いまのところ、再就職は考えていないと
正直に答えたところ、
「じゃあ子供は?」
と、返す刀で、問い詰めるように聞かれました。
そちらも、すぐには考えていない、と答えました。
「おかしいよ。」
と強い口調ではっきり言われたのを
いまでも覚えています。
人生のコースは、
その2つ、もしくは「両立」を含む3つ、
からしか選ばせてもらえないのか。
なんだかひどくつまらなく思えました。
結婚して10年近くなりましたが、
いまも無職で、子供もいません。
(mk)
<発想を転換する>
「そもそもが違っていた事」に気がつくのは
気持ちいいですね。
私最近よくあるんです。
例えば頑張っても上手くいかないことがある。
だから頑張るのやめた。
そしたらなんか上手くいく。
単純な事なんだなあと思いました。
カップルが毎朝届く新聞を
どっちが先に読むかで揉めたそうです。
その家は一つじゃなくて
いっぱい取ることにしたそうです。
逆転の発想は気持ちいいなあ!
(ラスカル)
もともと2つでないものを、
雑に2つに分けてしまったとき、
苦しむ人がいる、というのは、
性別に限らず他のことにも言える、
と読んだ人から教えられ、
あらためて考えた。
たとえば、
「日本に住む、日本人と外国人のみなさん」
と言ったとき、
日本人でも外国人でもある、と感じる人や、
日本人ではないし、かといって外国人でもない、
と感じて、疎外感をおぼえる人もいるかもしれない。
「子を産んだ人も、産まない人も」
というような雑な分け方をしてしまうと、
授からないと感じている人や、
これから産むために努力している人、
産んだけれども何らかの事情でお子さんはいない
という人も、違和感をおぼえるだろう。
自分自身も、
わりとよくカテゴライズしたがる人間で、
そのときに、
「分け方がおおざっぱだったな。」
と反省する
「その区分けをされたとき、
自分はいないことにされてしまう。」
というのが、人間にはとっても切ないことなのだ。
なにかがあって、
対象を2つにわけないといけないとき、
「Aか、Bか」2つの欄ではなく、
いつも心に、
「その他」の欄
を設ける余裕を持っていたい。
これを習慣化したいと私は思う。
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