YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson791   背中の目


ながく帰省できないとき、
故郷の母から電話があると、ギクシャクして
優しくできない自分がいる。

今年のゴールデンウィークもそうだった。

連休は、ありがたいことに
私は半日の休みもなく仕事をいただけて、
早朝から深夜まで働き続ける日々だった。

帰れないと母が寂しがる。

帰れないと電話をしようか、しないでおくか。

私の声を聞いたら、
母がよけい寂しくなるんじゃないか、
と考えて、あえて電話をしなかったら、

連休もほとんど終わるころ、
母のほうから電話がかかってきた。

母は明るい声で、「げんきか」と言った。

帰って来いという電話ではなかった。
これはほんとうに。

しかし、私にはホラーのように響いた。

自分はなにを恐怖に感じているのか?

私は、
「フリーランスは、
 土日祝日は休みではないんだからね。
 休み明けに納品。
 休みほど忙しいって、いつも言ってるでしょ。
 5月に帰れなくても、6月には帰るんだから。」
と母にキレていた。

なんで私のほうがキレているんだろう?

「医師の親に生まれた学生が、
 医師をつがないことに負い目を持つ。」

その「負い目」をテーマにした学生が、
連休に見た文章表現に、複数いた。

なぜか医師なのだ。

それ以外の親の職業で、
「つがない負い目」を持つ人には、
あまり出逢わない。

医師をつがない負い目をもつ学生は、
毎年かならずいる。

さまざまな大学・学部にいる。
性別を問わず、いる。
長きに渡ってずっといる。

負い目は、はたで思うよりずっと深刻だ。

両親も、兄弟姉妹も、親戚も、医師だらけで、
故郷に帰って身の置き所がない
という人もいる。

まわりから責められるか責められないか
ということよりも、
「ついであげられなかった」という自責の念が、
まるで原罪か、とでもいうように、
本人に暗い翳を落としている。

「そんなに気にしなくていいよ。
 やりたいことをやればいい。
 私もやりたいことをやるため、東京に出てきたけれど、
 いまは親も喜んでくれて、結果、本当によかった。」

そんな、まったく他人事を見るような目で、
学生たちの負い目を受け止めていた。

私の親は、やりたいことをやらしてくれたし、
親子関係も良好で、負い目などない、

という先入観が、私にはあった。

しかし、次の日、

母に、フォローの電話をしているようで、
なんのフォローにもなってない、
ギクシャクした話し方をする自分に、

ふと学生たちの負い目の文章が浮かんできて、

「あっ、これ、負い目だ!」

と気づいた。

次の瞬間、
タガがはずれたように、

母にひどいことを言ってしまった。

「私には、自分だけ東京に出て好きなことをして、
 故郷の家族にすまないという負い目がある。
 だから、おかあさんからの電話は重たい。」

と母に言ってしまった。

自分でも、ひどい、
とりかえしのつかないことを言ってしまった、
母を傷つけた、

シマッタ‥‥!

と感じた。
だけど、母は、動じず、

「わかる、わかる。親は重たいもんよ。」

と実に自然にさらり、と言ってのけた。

これには、
椅子からころげ落ちるぐらい驚いた。

考えたら、母も、かつて「娘」だったのだ。

私から見たら、
母は、やりたいことをやれず、
親の決めた見合いで結婚し、
親元からそう遠くはないところに住んで、
親を安心させてきた。

負い目なんかないと思い込んでいた。
でも、ちがった。

どんなにまっとうに努力して生きている人でも、
なんらかの「負い目」がある。
特に親に対して、

「苦労して育ててくれたのに、自分は巣立ってしまった」

という負い目を持つ人は少なくないだろう。

母も、母の親元を巣立って生きてきたのであって、
親への負い目がゼロではない。

「親を想うからこそ、親が重たい。」

という共通の気持ちで、母とは、そのとき大変通じ合えた。

私は、それが「負い目」と名がついて、
自分で認められたことで、
ずいぶんラクになり、先へ進めた。

「負い目」は、他人から見てどうこう言われる
ということよりも、

「自分の後ろから、自分をじっと見つめる目」

のほうが恐い。まるでホラーだ。

「自分がこうしてあげたいと想うことが、
 してあげられない。」

5月に帰れなくても6月に帰るんだから、それでいい。
リクツで考えればそうだろう。

でも他人がどんなに許してくれたとしても、

たぶん私のなかには、
自分の想う最上のことをしてあげたい
という願いがあり、

連休には、母は、

親戚の叔父や叔母、ご近所などから、
私が東京から帰って来ないのか、と聞かれるだろう。

親戚やご近所では、
連休に帰省した子や孫たちで、にぎわうだろう。

他ではなく、ぜひそういうタイミングで
母のそばにいてあげたいという願いがあり、
でもできなくて、

自分の後ろから、じっと自分を見る目にやられている。

それがわかったら、やることは明確になり、
先月も帰省し、今月も帰省と、
ぐっと軽やかに動けるようになった。

「負い目」は、

知らずに背負っていると、
ないはずだと思いこんでいるから、
ちいさくても、どんどん重く、苦痛になってくる。

でも背負っているものに気づいて、正体を見て、
覚悟を持って背負い直したとき、
意外に軽く、やることは明確で、歩き出せる。

医師の親に生まれ、
医師を継がないことに「負い目」を感じる学生たちも、

はたから見たら、
そんなに自分を責めなくてもいいよ、
と思ってきたけれど、

いちど、とことん「負い目」に向き合い、
その正体を言葉にし、
覚悟をもって背負い直せたことが
とてもよかった。

選択の時に自分が捨てたもの、
そのために失ったものを
ちゃんと見ていることが尊く、

名がついた荷物は、
それまでよりは幾分軽く、

自分の道を進むチカラになる

と私は思う。

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2016-08-03-WED

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