Lesson792
背中の目−2.大きな循環のなかで
先月、私は、
グループホームにいる父に会いに行った。
私が、帰ろうとしたとき、
きれいな若い女性が、
父にかけよって、声をかけた。
女性は、
父を「おじいちゃん」とは呼ばず、
きちんと苗字を覚えていて、
父を「さん」づけで呼んだ。
女性は、
その日以前に、
父と会った時のことをちゃんと記憶していて
そのときのことを気づかい、
さらに父をねぎらう言葉をかけた。
それは、「おじいちゃん元気でね」的な、
お年寄り一般にかける言葉ではなくて、
ちゃんと、父を個として尊重し、
個に対しての「声がけ」だった。
父は本当にうれしそうだった。
私は、その心根の美しさに打たれ、
天使を見た気がした。
女性は、
地元の看護学部の大学生。
以前、このグループホームに実習に来たことがあり、
きょうは、自らの意志でボランティアに来たそうだ。
私は、なにかショックを受けており、
ショックの正体は、
飛行機に乗り、東京に戻ってきてもなお
不明だったが、
ドラマでこんなセリフに出くわした。
「家族ができないことを、
他人が目の前でやすやすとやってのける。」
そうだ。
私も、姉も、母も、
あの女子学生のように素直な心で、
父にまっすぐ優しくできない。
父は若い時から本当に変わった人で、
家族だからこそ、そんな父を想い。
想うからこそ、ついつい、
「もっとちゃんとしてほしい」とか、
「母を困らせないでほしい」とか、
小言が混じってしまう。
娘にはできない優しさを、
他人が目の前でさらりとやってのけた。
ふと、
あの天使のような学生さんは、
自分自身の家族には、
あんなにまっすぐ優しくできているのだろうか?
と思った。
というのも、私はいま4つの大学で、
表現の授業を持っていて、
どんなに心優しい大学生でも、
やっぱり自分の家族には、想いが強い分、
ぎくしゃくすることも多いのだなと
実感しているからだ。
おじいちゃん、おばあちゃんが好きだからこそ、
その死が近づくことがどうしても受容できず、
お見舞いにいくのを逃げまわった学生もいる。
それで「亡くなったときに会えなかった」ことを
「負い目」に感じている学生もいる。
あの父に声がけしてくれた
天使のような女子学生が、
自分の家族に対しては、なかなか優しくできない
という悩みを抱えていたとしても、
ちっとも不思議はない。
その月、私は、
岩手、大阪、名古屋、新潟、と
ワークショップや講演をしてまわり、
「役に立った」と心から歓んでもらえる機会に
たくさん恵まれた。
東京にいて、
父に充分のことをしてあげられない娘は、
しかし一方で、仕事を通して、
他人様の役に立つことができている。
父にも、
将来看護の仕事を志望するからこそ、
優しくしてくれる学生さんたちがいる。
それぞれの人が、
家族にしてあげたかったのに
してあげられなかったという「負い目」を
もっていたとしても、
それを直接、家族に返すことができなくても、
仕事を通して
他人にお返しする人生があってもいい。
しがらみのない他人だからこそできることが
この世には多くあると、
父に天使のように接してくれた学生さんを見て
つくづく思う。
偶然にも、この春から私は、
看護学部の学生たちに、「伝える技術」の
実習をするようになった。
実習で、
想いを言葉で表現するチカラを鍛えた学生たちも、
いつか現場に出て、患者さんの心を照らす
言葉をかけるだろう。
私はそこになにか「大きな循環」を感じとる。
先週の、
親が医師だけど、つがなくて負い目がある学生も、
なにか大きな循環の中で、
お返ししていく道もあるのではないだろうか。
先週のテーマ「負い目」にいただいた
おたよりを紹介して、今日は終わろう。
<娘を想い、母を想う>
私の母は、
5年ほど前から認知症で、
人格が変わってしまいました。
週に一度病院に会いに行きます。
変わり果てた母の姿を見ると、
私が、嫁いだ家で日々そこそこ楽しく
暮らしていることそのものが
負い目に感じられます。
でも、娘たちが東京で暮らすようになり、
母としての自分がどう感じたか?
「便りがないのは元気な証拠」
「故郷を忘れるくらい
充実した毎日を送っているのね!」
という喜びを感じるのです。
ならば、私が私の人生を精一杯生きることが、
母にとっても嬉しいことなのではないか?
そう気づいたとき、
自分の人生が、より大切なものに思えたのです。
私は今、黄昏の時代に突入する50歳ですが、
残された人生を大事にして生きることが、
寝たきりの母への恩返しになると信じることにしました。
(ゆうこ)
<負い目とは>
私は、今年の春に、
育児休暇から1年ぶりに復職し、
必死で働いたのですが、
子どもの体調不良で早退したり休んだりが辛くなり
10年近く働いた会社を辞めることにしました。
負い目の塊だな、と思いました。
職場の方は暖かく、
大変優しく応援してくれていたのに、
自分の目がダメでした。
家族も応援してくれていました。
子どもにもっとしてあげられることがあるのに
できていない、
昔の自分はもっと仕事ができたはずなのにできていない、
全てが中途半端と自分を責めてばかりでした。
「負い目」というのは、
複数のものを手に入れられない時、
どちらかをペースダウンしたり、
手放さないといけないけれど、
捨てられない、どっちも欲しい、という
自分の中の欲張りな気持ちを、
他人に転嫁して、そう呼ぶのかもしれません。
人生で欲しいものを全て手に入れるなんて
到底できません。なので
自分の責任において、
何を捨てるか決めるしかないんですね。
何かを選ぶことは、
何かを捨てることと本質的には同じです。
私は、これまで10年本当に大切で、
大好きだった仕事を捨てることにしました。
(なか)
<これからは>
私は今35歳です。
18年前、私はそこそこの強豪校で
甲子園だけを目指す高校球児でした。
その当時の私は、
今やっている練習も試合も、仲間との生活も、
甲子園に出なければすべて意味がない
という価値観で過ごしていました。
365日、野球漬けの毎日でした。
結果は東京都予選で敗退。
まさに失意のどん底を味わいました。
それから約10年間、
野球の野の字も聞きたくない日々を過ごしました。
社会人になって
少しずつ過去を思い出せるようになってきた
20代半ばの頃、
実家で両親と食事をしていた際、
私の高校の頃の話になりました。
その会話が始まった時は、
もう自分の中であの悔しさは受け止められているから
感情的にならずに話せると思っていたのですが、
ダメでした。
当時私はピッチャーをやっていて、
背番号「1」を背負っていました。
1回戦から順当に勝ち上がり、
いざ決戦という試合に私は登板できませんでした。
監督は別の選手を先発ピッチャーに指名しました。
あの時の感情を表現できる言葉が見つかりません。
監督が指名した選手は
僕が最も認められない選手だったのです。
監督、そして指名された選手を恨みました。
その試合ですべてが崩れ落ちたショックは、
10年という月日では解消されていませんでした。
会話終盤私は母に、
「高校野球なんかやらなければよかった!」と、
強い口調で叫んでいました。
高校の頃も母は私をいっぱい応援してくれました。
お弁当作りから、
日々の練習、試合もほとんど見に来てくれました。
見守ってくれました。
私の言葉を聞いた時の母親の
あの寂しそうで悲しい顔は忘れません。
言った瞬間に、
これだけは言ってはいけない言葉であったと
痛感しました。
言ってしまった言葉は取り返しがつきません。
今私は高校野球をやらせてもらって
ありがたかったと思っています。
私はあの3年間でたくさんのことを学びました。
・自身では努力したと感じていても、
それが必ずしも報われるとは限らないこと。
・背番号をもらえずに、
一度もベンチ入りもできなかった仲間がいたこと。
・スタンドから、同級生、後輩を応援する
先輩や同級生がいたこと。
・その中で一人一人いろんな思いを持って
高校野球生活を過ごしていたこと。
学んだことはまだまだありますが、
一番大きなことは「感謝」です。
私の高校野球人生において、
ゴールである甲子園出場は達成できませんでした。
しかし、そのための目標であったレギュラー獲得は
達成できました。
そしてそれらの結果よりもなによりも、
たくさんの素晴らしい仲間と出会いました。
高校野球をする目的はそれだったんだと、
今確信しています。
悔しさから目を背けた日々はもう終わりにします。
事実を受け止め、
それよりももっともっと大切なものを
手に入れた幸せを感じて生きていきます。
そして、母を傷つけてしまったことは深く反省し、
これからは感謝の言葉をたくさん伝えていきます。
先日、高校卒業振りに
一人の野球部仲間と飲みに行きました。
あの当時のこと、今の状況の話をたくさんしました。
その時間こそ、私にとって
最高の宝物だと素直に感じています。
(優)
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