YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson793  ねじれない表現


人に好かれなくても
有用で、役立つ働きをいっぱいする人や、

役立つ働きがなくても、
人に好かれる人や、

有用でもなく好かれもしないと自分で思いながらも
ちゃんと生きがいを見つけて生きている人や、

「存在理由」

というものは、
ほんとにどうとでも見いだせるもんだと思う。

なんか、人ってすごい。

表現教育を通してたくさんの人の内面を見ていて
私は、そう思う。

逆に、

有用な働きをしているのに、
人から嫌われることを気に病んで、
「人から好かれたい」
とばかり思いつめて暗くなっている人や、

人から好かれているのに、
「自分にはとりえがない。有能でありたい」
と自己否定におちいっている人は、

なにか、もったいない気がする。

表現の世界ではこれを

「ねじれ」

と呼ぶ。
ねじれたものを主題にしても
たいして面白い表現にならないし、
表現として成立しないこともある。

たとえば仕事一筋に頑張ってきた人が、
恋も、友人をつくることも、趣味も、何もしてこなかった
と不安になって、

「これからはもっと私生活を充実させたい」

という願望を主題にして文章を書く、というのは、
すごくまっとうなように思えるが、

「仕事人間が → 私生活の充実を語る」

と、ここに、ねじれが生じる。

「恋だけに生きてきた人が → 仕事を語る」

というのも、やっぱりねじれだ。
自分がこれまでの人生でやってきてない、
それゆえ体験もない、よく知らない、

「ない」ものは、表現しようがない。

たとえ書いても、エピソード1つあげられず、
空疎な願望か、決意表明になってしまう。

「仕事一筋の人は → 仕事のことを」
「恋だけに生きてきた人は → 恋のことを」

ねじれのない表現のほうが、数段面白い。

人生ふりかえれば多くの時間をつかってきて、
そこに、エピソードもある、葛藤も、失敗も、得たものも、
想いも、たくさんある、自分にとって根のある主題。

根のあるところに表現の花は咲く。

ねじれを解くには、「本人受容」が要る。

本人が認めないものは、これまた、表現しようがない。

せっかく文章に書くべき主題やエピソードなどが
人生にごろごろころがっていたとしても、
本人が、仕事しかしてこなかった人生を
受容していなければ、
「私生活の充実」など、
あさっての方向に主題を求めてしまう。

ねじれのない表現をするには、

自分の人生をふりかえって、
そこに「ある」ものを、良いとか悪いとかでなく、
ありのままに受容すること。

そして、自分のありのままの中から、
制限時間内で、自己ベストの「面白い」と思う
主題を見つけることだ。

自分なりの「存在理由」を見い出す手続きも、
私にとっては、これと似ている。

自分のこれまでのありのままを認めたうえで、

そこに「あるもの」の中から、

限りある人生の時間の中で、
自分を生かす道は、と考えたら、
私の場合、あるものがささやかなので、

「これしかない」

と、迷うまでもなく存在理由は見つかった。
1つあってよかった。1つだけで充分だと思った。

ふりかえれば多くの時間をつかってきて、
経験も、失敗も、得たものも、想いも、たくさんある、
自分にとって根のあるところ、

そこを見失わないで、ねじれないで表現して、

人生の花を咲かせたい、と私は思う。

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2016-08-24-WED

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