Lesson796
心で見る色彩 − 2.読者の声
私には、「うそをつかずに生きよう」と
一大決心をした日がある。
28歳の6月だったと思う。
画家、横尾忠則さんの家に、
編集者としてインタビューに行き、
「自分の中からわきあがってくるものに
うそをついてはいけない」
ということを、鮮やかな衝撃とともに、
一生忘れない印象として受け取った。
「自分に忠実である。」
自分からわき出る印象や直感に、正直にふるまったら、
人からよく思われないだろうと、
別のなにかにすりかえたなら、
これが嘘であり、嘘は人を動かさない。
自分に忠実なものこそ、
魂を解き放つチカラ=芸術になりうる、と。
その日から私の、
「正直筋」の筋トレが始まったように思う。
「どんな小さな嘘もつくまい」と、
なんだか毎日、必死だった。
でも、最初はなかなかうまくいかず、
「この決定に嘘はないか」と自分に問いかけても、
心のありかがわからなかったり、
つい、場の雰囲気にのまれて、
自分では違うと感じているのに、同調してしまったり。
それでも諦めず、
まるで、スポーツ選手が、
ふだんの生活でも爪先立ちして筋肉をつける
かのように、
いつでも、どこでも、どこまでも、
「嘘をつかない」をやりつづけた果てに、
想いにしっくり合った言葉が
時折、出てくるようになり、
想いにピタッとした行動に出られることも
多くなってきた。
「内にある想いを、外に出す。」
このシンプルな歓びが、
いまから想うと表現につながったように思う。
最初から表現というものを目指していたわけではなく、
正直でありたいとあがき続けていたことが、
いつしか私を「表現」へと導いていた。
どんなに嘘つきでも、きょう、いまから、
正直筋はコツコツ鍛えてゆけるし、
なにより、
「正直は、表現のはじまり。」
と私は思う。
先週のコラムに深い反響をいただいたので、
読者からのおたよりの一部を紹介して
きょうは、おわろう。
<正直の厳しさ>
私はいま大学4年生で、
進路選択の過渡期に立っています。
自分の気持ちに正直な選択をするのか?
親の期待・世間体を気にして建前の選択をするのか?
後者を選択して
そのための勉強に励むつもりでした。
しかし、勉強も手につかず、前者への思いが募るばかり。
そんなとき、先週のコラムを読みました。
「自分の思いに正直で良い」という言葉を見て、
ほっとした、一方で、
以前のコラムにもあった「負い目」、親の期待の重さに、
モヤモヤとフクザツな思いにも駆られました。
これが正直になるが故にうまれる“厳しさ”なのでしょう。
いま、私に必要なのは
親への負い目を受け入れる勇気。
(もこもこ)
<連鎖>
私は、先週のコラムで、Aさんが表現された、
まさにあの場にいた者です。
あの場にいて、心を動かされたため
初めてメールします。
あの日、
私の中には、訴えたい強い思いも、
自分というものは何か、表現できるものも何もない。
ということしか話せず、
「しょうがないこれがわたしなんだ」
と強引に締めてしまいました。
そんなときに、Aさんの
「正直に生きたときに世界が鮮やかになった」
という話が飛び込んできました。
Aさんが勇気をもって表現されたことで、
真剣に生きて、
届かないかもしれないけど発信し続けることは、
心に響くと実感し、
あの場で涙を流してました。
自分もこうありたい。と
勇気を出して自分には何もないと表現した、
ここから、また始めよう! と思えました。
色のついた世界を見たい、と強く思います。
(M)
<嘘の哀しみ>
嘘をつくと誰が一番哀しいかと
いうと実は自分なのではないか。
大学楽しいか? 行ってるか? と訊かれ
楽しく無いとも行ってないとも言えず
はい、行ってます。楽しいです。と
答える哀しい自分がいて、
その哀しさは、
不思議と相手にも伝わっている。
出身地を適当に誤魔化す自分。
中学、高校は何処か、と訊かれ、何と無く誤魔化す自分。
自分は、自分でも手こずるほど
一筋縄ではいかない性格である。
なんかそれで良いのでは、と思えてきた。
その気持ちに嘘をつかないで、
表現をしたい。
(Y)
<自分の色を取りもどす>
つい数日前、
パートナーにこれまで隠してきた本音を
一つずつ打ち明けました。
彼はだまって全てを聞いてくれ、
「初めから言ってくれればよかったのに」
と受け入れてくれました。
「本音を聞けてよかった」とも。
安堵の思いがあふれてきた瞬間、
世界がぱーっと色味を帯びてくるのを感じました。
(あんこ)
<こんなに明るく>
ふとハッキリと「違う!」と気づく。
しばらく逡巡し、
やはりこれは相手に正直に伝えようと決め、
実行する。
そうした行動の後、
外に出て空を見上げると、風景が違って見える。
すっきりとして、くっきりとして、
こんなに楽で明るく見えるんだー。
(クロ助)
<嘘の毒>
自分にとっての本当を見失うと、
何を大事にしていけばいいのかその判断が鈍って、
なおさら目の前のことを無難に過ごすしかなくなります。
それがうそのもつ毒なのでしょう。
(たまふろ)
<まずここから>
5年ぶりに再就職して、2カ月働きました。
面談したら、カタイと何度もいわれました。
職場でコミュニケーションとれてない、
このままではお客さんのところへいかせられない、と。
私と同じ時期にはいった人は、
気づけばみんなと気軽に話していました。
私は気軽に話せる人が誰もいません。
この違いはなんだろう。
友人に愚痴ばかり言っていました。
でも、先週の「Aさんの話からうそをつかないで話します」
といった男性の話を読んで、
気づきました。
私が、
入力してばかりで自分から電話をとらなかったり、
郵便をうけとりにいかなかったり、
積極的に動いてないことを、友人には話していないと。
友人に、「自分が悪いんでしょ」と言われるのが
こわかった。
できていない自分を、
文章にすることで受け入れるのがこわかったのです。
先週の男性が
自分の弱さを正直に認めた上で文章にしたというの
を読んで、
私も、自分の弱さを認める。
恥ずかしいけれど、
友人から厳しい言葉がかえってくるかもしれないけれど、
どう思われても何か違う世界が見えるんじゃないかと
おもえました。
(W)
<いつしか何重にも>
私は社会人5年目。
この仕事をしたい、という思い一つで入った会社に、
新卒から働いています。
今、私の目の前の色彩には、活気がない。
伝えたいことが伝わらないもどかしさが、いつの前にか、
その場を凌ぐための小さな嘘にすり替わっていたようです。
それが何重にもなっていました。
「閉じる」という防御に入り、
どんどん小さな嘘が自分を苦しめ、
周囲の人には、
私への関わりに負担感を持たせてしまっていました。
格好悪い、情けない、社会人なのに何やっているんだ・・
でも、一色から変えていけばいいんですね。
まずは、目の前の小さな嘘一つを、正直に変えてみます。
(mimi)
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