YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson799
  私がいるところは全部のなかの一部



本人は、
「すごく重要な相手の盲点を指摘した」
と思っても、

その問題をもっと広い視野から見ている
相手から観れば、
「さまつな所にとらわれて、
 そこで思考がとまっているだけ」
ということあるな。

いま自分が立っているところが、「部分」であり、
その外に語られない全体がある、
そこを想像しないとな。

友人と話していたとき、

友人は、鬼の首でもとったように、
私の盲点を指摘した。

でも、私から見れば、的はずれで、

友人は、自分のこだわりの強い「部分」に固執し、
本筋にたどりつけていないように見えた。

「こだわりあるもの」は、

そこに、その人の努力も自信もプライドもあるぶん、
そこばかりを部分的に見て、全体を見失いやすい。

ある日、バスで、

私は、
知らない女性に、

「人さまの赤ちゃんは、
 ぜったいに、あやすものではない。」

と説教された。

その女性から見た世界は、

「バスにベビーカーにのった赤ちゃんがいた。

 私が、あやした。

 赤ちゃんが泣き出した。」

でも、私から見た世界は、

「私は、バス後方に立っていた。

 赤ちゃんを抱き・ベビーカーを持った母親が、
 前方から乗車し、入口付近に立った。

 赤ちゃんは最初から不機嫌で、泣く寸前だった。

 母親が抱いてゆすってもおさまらない。

 赤ちゃんと私は目があった。

 私があやすと、→ 赤ちゃんはおさまる。

 これを何度か繰り返しているうち、
 赤ちゃんがおちついてきたので、

 母親は、
 赤ちゃんをベビーカーに移し、押しながら、
 後方の、私たちがいるところまで移動してきた、

 赤ちゃんは、また不機嫌になり、
 私があやすも、
 とうとう泣き出してしまった。」

人さまの子どもをあやすな、と説教されて、
私は、なぜか、うまく言いかえせなかった。

あのとき、友人にも何も言えなかった。

思うに、

「全体を見ている人に、
 部分を見せることはたやすいが、

 部分しか見ていない人に、
 全体を見せることは難しい。」

ふと、クレームを想った。

私たちは、
駅で、レストランで、銀行で、ホテルで、通販で、
クレームを言うことがある。

「客をこんなに待たすとは何事だ。」
「もっと、こうすればいい。」

と、それは、私たち客から見れば、
そうだ、そうだ、ということも多い。

だけど、業務全体を見渡しているプロからすれば、

お客が、自分にわかる・こだわりある
さまつな部分にとらわれて、
そこで思考が止まっているだけ、
ということもあるのではないだろうか。

「お客さん、それはちがうよ。」

と言い返したいけれど、
部分しか見ることのできないお客に、
専門的な、業務全体を見せることは難しく、

だから、ただ黙っている、ということもあるのではないか。

いま自分が立っているところが、「部分」であり、
その外に語られない全体がある。

これからは、
それを意識して物を言おう、と私は思う。

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2016-10-12-WED

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