Lesson802
「やりたいことがない」と言うとき
「やりたいことがない」
という人が、
就活の時期になると、
かならずいる。
やりたいことがない人もいるだろうなあ。
私だってかつてそうだった。
みんながみんなやりたいことがあるわけじゃない。
そう思ってきたけど、どうもちがう。
「やりたいことがない人など、
実はいないんじゃないか?」
という感覚が
表現教育の現場にいて、
年々、おおきくなってきている。
いま私は4つの大学で文章表現の授業をしている。
正式授業だけでも年間450人の学生、
単発の「就活生のための文章力養成講座」や、
社会人向けワークショップ、
高校生や中学生まであわせると
そうとうな数になるが、
書く前の「考える作業」を丁寧に積み上げ、
興味ある仕事を洗い出し、
自分の経験をたどり、
いまの社会への自分の想いを引き出し、
そうして絞り込み、想い、考え、
最終的に「将来やりたい仕事」について
書いてもらうと、
みんな書けるのだ。
「やりたいことがない」という人がいない。
4時間あれば、だれもが何かしら、
自分のやりたいことを、
正直に、実感をもって表現できる。
なかには、
自分にはやりたいことなんかない
と思い込んでいた人もいる。
生まれてこのかた
やりたいことなんて考えてこなかった
と言う人もいる。
そういう人も、
書くために問うべき問いを、
すべて自分に問い、
その一つ一つに
現時点で出せる、
自分にもっとも正直な答えを出し、
出てきた答えどうしの意味やつながりを考え、
取捨選択し、
制限時間内にもっとも伝えたいことを
ぐっと絞り込んでアウトプットしてみると、
自分のなかから、意外に明確な
「やりたいこと」が導き出せて、
本人がいちばん驚いている。
これを書いている、
つい、前日も、
福岡のワークショップで、
「自分の本当にやりたいことが見つかった!」
と顔を輝かす女性がいた。
その女性は、
他の職業をやろうと思っていたのだけど、
その日、考え・書きする3時間ほどの過程で、
「自分が本当に心からやりたい仕事は、
それではない、これだ!」
というものが明確になった。
その女性の文章表現を聞き終った時、
私は、全身が打たれたような感銘を受け、
しばらくじーん、と動けなかった。
「なんだろう? この感銘は」
ここで表現されているものは、
その人の「アイデア」ではない、
その人の「気持ち」でもない。
「想い」と言っても、「意志」と言ってもまだ足りなくて、
その人の「尊厳」のようなものが表現された
からではないか、
と私は思った。
その人が生まれてから意識・無意識にやってきた
大小さまざまな選択の集積が、
他ならぬその人の尊厳をカタチづくっていると
私は日頃思っている。
「やりたい仕事」というのは、
まさに、その人が人生でやってきた
大小さまざまな選択の集大成なのだ
と私は思う。
文章を書くときに、
ただ自分の気持ちを書くのって、
(それも感動的だけど)
掘るのは「自分」という1方向だけだ。
だれかに手紙を書く、
となると、
掘るのは、
「自分」と「相手」の2方向になる。
その人が、他者をどう見てきたか、
どれぐらい人を理解しているか、
人とどうかかわってきたか、
その人が人生においてやってきた
大小さまざまな選択が、
自分と他者の2方向、および、そのかかわりから、
より立体的に浮き彫りになる。
さらに、「やりたい仕事」を書くとなると、
その人が、どんな経験をしてきたか、
その経験の中から何をつかんできたか。
次の一歩をどう選択したか。
その人が、人生のなかで、
他人の仕事にどう触れ、どう支えられ、
どこに興味や関心を持ってきたか。
その人が、社会にどう揉まれてきたか、
そこからいまの社会の何を憂い、
自分をどう役立てたいと願っているか。
自己と仕事と社会の3方向から、
その人が人生でやってきた大小さまざまな選択が
かいまみえ、かけあわされて、集大成となり、
その人の尊厳のようなものが
輪郭をあらわすのじゃないかと思う。
だとしたら、やっぱり、
尊厳のない人間がいないとおなじように、
「やりたいこと」というのは、
大なり小なり、
なにかしらみんなにあるのではないだろうか。
何も選んでこなかった人間などいないからだ。
大小様々に選んできた果てに、
何でもいい、どうでもいい、ということはめったになく、
「好きに働いていいとしたら、こういうことしたい」
という何かはあるんじゃないだろうか。
自分では無意識に近所のスーパーに
行ったつもりでも、
引いた目で、
そこの住民30人にアンケートをとれば、
安さを求めて遠くのスーパーまで足を運んでいるし、
高級スーパーに行くためバスで買い物に行く人もいる。
そこで初めて、自分が無自覚に選んでいると知る。
恋人が浮気をしても許せたけれど、
恋人が親の悪口を言ったのが
どうしても許せなかったという人は、
自分では自然にそうなったと思っている。
でも、友達5人と集まってみたら、
他の人は自分とは違う選択をしている
と気づくかもしれない。
自分では、自分自身が選んでいるものに、
いや、無自覚に選んでいるという事実にも、
気づけないことも多いのだ。
だから、私は、表現の授業で、
よく「自分自身の想いを聞く」ことと、同等に、
同じテーマ、同じ条件で書き上げた、
「他の学生たちの多様な表現を聞く」
ことを重視している。
将来やりたい仕事についても、
書き上げた時点では、
「自分がいままでずっと思ってきた
自分のなかではもうあたりまえのことで、
とりたてて、これがほんとにやりたいことかどうか」
とおもっていた学生も、
50人なら50人、70人なら70人、
それぞれの、実感のこもった表現を聞き終ったとき、
1人ひとり全く違う個性に照らしだされて
「ささやかでも、自分と同じように生きてきた人は
1人もいない。
これが、他ならぬ自分のなかから出てきた
やりたいことだ。」
と認めることができる。
「なんとなく恐い」から、
自分のやりたいことを見ないようにしている人、
先延ばしにしている人、
先延ばしした結果、
現実がせめてきていて、
もう自分の想いがどうの、
理想がどうの言っている余裕がない
という人、
偏差値とか、有利不利とか、
まわりの人との優劣とかが気になって、
ありのままの自分の想いに気づけない人、
このタイミングでいまさらやりたいことが出てきても、
引きかえせないんじゃないか、
それは金や仕事にならないんじゃないか、
それができる会社はないんじゃないか、
が心配で、自分の想いに問うことをしない人、
いろんな理由で、
自分のなかになにかしらやりたいことはあっても、
そこに目を向けない人もいるんじゃないだろうか。
やりたいことが見つかると人は元気になる。
たしかに、やりたいことに初めて気づき、
自分が今いる大学・学部ではそれができない、
いまの職場にいてもそれができない、
と発覚して、とまどっている人も多く見てきた。
でも、とまどいをしのいで、歓びのほうがまさっている。
実現するにはどうしたらいいか、仕事になるのか、
どうやってやりたいことに1ミリ2ミリと近づいていくか、
を考えること自体、歓びだからだ。
私にはやりたいことがない、と言うとき、
「ほんとにないの?」
仕事にたいして自分が想っていることを、
ありのままに、正直に、表現してみよう。
そして、他者の多様な仕事にたいする想いを
数多く聞こう。
優劣を比べたり、
聞いてそれを利用してどうこうではなく、
ただ、そこにある想いを感じてみよう。
そこからはじまる!
と私は思う。
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